第18話 私の心を柔らかな土にしてください
第18話 私の心を柔らかな土にしてください
春の雨が降っていた。
激しい雨ではない。
畑を静かに潤す優しい雨だった。
レオンハルトは仕事を終えた帰り道、小さな農地の横を歩いていた。
港町の外れ。
商家や倉庫が並ぶ区域を抜けると、小さな畑が広がっている。
雨に濡れた黒土からは独特の匂いが立ち上っていた。
湿った土。
若葉。
春草。
どこか懐かしい香りだった。
その日は商会の帳簿整理が長引いた。
新しい取引先との契約。
運送料の再計算。
在庫確認。
数字が合わず、何度もやり直した。
帰る頃には空は薄暗くなっていた。
安宿へ戻る途中、畑で作業をしている老人が目に入った。
白い髭を生やした農夫だった。
雨の中でも黙々と鍬を動かしている。
レオンハルトは足を止めた。
「まだ働いているのですか」
老人は顔を上げる。
「おう」
笑顔だった。
「雨の日は土が柔らかいからな」
鍬が土へ沈む。
ごろりと石が転がる。
「石を取ってるんだ」
「石ですか」
「これがあると根が伸びん」
老人は土を掘り返した。
黒く柔らかな土が現れる。
「作物も人も同じだ」
レオンハルトはその言葉に引っ掛かった。
「人も?」
「そうだ」
老人は笑った。
「固い土じゃ育たん」
その夜。
安宿の食堂では野菜の煮込みと黒パンが出た。
玉ねぎ。
人参。
豆。
決して豪華ではない。
だが温かい。
窓の外では雨が降り続いている。
食事を終えたレオンハルトは部屋へ戻った。
小さな机。
蝋燭。
古びた椅子。
今では慣れた風景だった。
机の上には聖書が置いてある。
最近の習慣だった。
毎晩少しずつ読む。
昔なら考えられなかった。
その日、目に入ったのは種まき人の例えだった。
道端に落ちた種。
岩地に落ちた種。
いばらの中に落ちた種。
良い土に落ちた種。
レオンハルトは読みながら手を止めた。
「良い土……」
呟く。
蝋燭の火が揺れている。
静かな夜だった。
そして不意に思った。
自分はどの土だったのだろう。
王だった頃。
エレノアは何度も種をまいていた。
数字の意味。
契約の意味。
責任の意味。
労働の価値。
何度も。
本当に何度も。
だが。
自分は聞かなかった。
王だから。
必要ないから。
面倒だから。
そう言って捨てた。
道端の土だった。
固い土だった。
種が根を張れない土だった。
「私は……」
胸が苦しくなる。
エレノアの顔が浮かんだ。
深夜の執務室。
帳簿を抱える姿。
疲れた顔。
それでも笑顔を作っていた姿。
彼女は種をまいていた。
十年間。
毎日。
毎日。
毎日。
だが自分は耕そうともしなかった。
耳を塞いでいた。
その結果が今だ。
王国は崩壊した。
信用は失われた。
自分は全てを失った。
だが。
レオンハルトは窓を見る。
雨が降っている。
畑を潤す雨。
昼間の老人の言葉を思い出した。
固い土では育たない。
石を取り除かなければならない。
耕さなければならない。
それは痛い作業だ。
時間もかかる。
だが必要なのだ。
その時だった。
扉が叩かれる。
「起きてるか」
宿屋の主人だった。
「はい」
主人は温かい飲み物を持ってきた。
蜂蜜入りのハーブティーだった。
「顔色が悪いぞ」
レオンハルトは苦笑する。
「少し考え事を」
主人は椅子へ腰掛けた。
「悩みか」
「後悔です」
しばらく沈黙。
やがて主人が言った。
「後悔しない人間なんていない」
優しい声だった。
「だが後悔できるならまだ大丈夫だ」
「……」
「石だらけの畑は自分で石を拾うしかない」
レオンハルトは目を見開いた。
昼間の老人と同じようなことを言ったからだ。
主人は笑う。
「時間はかかるがな」
そう言って部屋を出て行った。
静寂が戻る。
レオンハルトは再び聖書を見た。
そして机へ向かう。
紙を取り出す。
そこへゆっくり書いた。
「神よ」
インクが滲む。
「私の心を柔らかな土にしてください」
手が震える。
だが止めない。
「傲慢という石を取り除いてください」
「怠慢という石を取り除いてください」
「無知という石を取り除いてください」
涙が落ちた。
紙に染みができる。
「私を耕してください」
窓の外では雨が降っている。
春の雨。
種を育てる雨。
昔の自分なら理解できなかった。
だが今は少しだけ分かる。
良い土は最初から良い土ではない。
何度も耕される。
石を取り除かれる。
雨に打たれる。
だから実を結ぶ。
レオンハルトは静かに目を閉じた。
自分はまだ道半ばだ。
エレノアの足元にも及ばない。
だが。
いつか。
いつの日か。
誰かの役に立てる人間になりたい。
その願いだけは本物だった。
蝋燭の火が揺れる。
春の雨は静かに降り続いていた。




