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「おはよう」
声を掛けると、ミシェルは迷った末、顔を上げた。
「おはよう……」
そうして、気まずそうに食事を続ける。ルーカスも気にせず食事を始め、先に食べ終わったミシェルはパンを一つつかんで食堂を出ていった。
行き先は、どうやら図書室だけではないらしい。周囲に耳を澄ませていれば、案外、本人の居所は耳に入った。曰く、庭園の噴水に腰掛けていた、いや木陰に座っていた、森へ入っていった、屋上に向かう階段を登っていった、空き教室の窓際にいた、トイレから出てきた。
ミシェルが寮に入って半年は過ぎているのにこの有様だ。だが不思議と、図書室に出入りしていたという話だけは聞かなかった。
卒業後の進路に合わせ、すでに授業が分かれているため、科目が被ることは少ないが、例えば地理に関連するものは進軍などに関係する点で騎士志望が、領地経営に関係する点で長子たちが多く参加する。アルノー家の一人息子であるミシェルももちろん居たが、壁際の長机の通路側に座り、机を一つ占領していることがほとんどだった。隣に座らせてくれ、と無謀にも頼んでいる様子が一度あったが、集中したいから、とにべもなく断っていた。笑うことはなく、いつも彫刻のような済ました顔でいて、難題に眉根を寄せることはあっても、決して、怒りの表情をさえ見せない。
だが、ルーカスは覚えている。夜の談話室にルーカスを呼び戻しにきたミシェルの不安げに伏せられた睫毛や、縄で縛ればいいと提案したときの戸惑う表情。図書室で向かい合い、あれこれ議論を交わす気難しげなまなじり。ミシェルの拳を防いだときの、怯え切った瞳。
遠く眺めているだけでは知り得ない、彼の様々な表情を、ルーカスはただ、ルームメイトであるという特権で知り得ることができていた。彼は案外素直で、どういったときにも眉ひとつ上手く動かせないルーカスとは違う。きっとミシェルは、本当は笑顔の作り方も知っているのだろう。ルーカスは感情を顔に出すなと教育されてきた。弟たちと違い、どんな場でも従っていたら、表情筋の使い方を忘れてしまったのだ。そもそも感情の起伏に乏しい自覚があり、それが、生来の気質かどうかはわからなくなっていたが。
張り詰めた水面のようにして過ごすミシェルを見ていると、また、あのときのように図書室や、彼の安心できる場所に連れ出したいと考えることが多くあった。なぜ彼が今更、通学ではなくなったのかの理由はわからないが、学校に寝泊まりするよりも、自宅のほうがゆっくり休めただろうに。
ミシェルは今夜も、手際よくルーカスの両手をベッドの支柱にくくりつける。警戒と怯えを滲ませながら。だからルーカスはいつも目を伏せ、身じろぎ一つしないようにしていた。ミシェルが自身のベッドのカーテンを閉めるまで、無害を示し続けていた。
もしも、彼が彫像であったならば、周囲は畏敬から近寄ることもなかっただろうと思う。ただ真っ白な、造形だけが彼を物語るのでしかなければ、指の関節を赤くすることもなかっただろう。
日が長くなり、枯れ草の合間からまだ頼りない、淡い緑が萌え出していた。その緑を踏んで、ルーカスは走っている。五人に囲まれる中でも、傾いた陽に輝き出されるのは彼の金色だけだった。
ミシェルの拳が真っ直ぐ、相手の鼻をとらえた。派手な音を立てて倒れ込んだ相手に馬乗りになろうとして、周囲の人間が無理やりに引き剥がす。暴れるミシェルを羽交い締めにして、彼の仕立ての良いシャツを引きちぎった。
「ミシェルっ!」
羽交い締めにした人間を力任せに引き剥がし、ミシェルを背に庇って、ルーカスは改めてそこに集った面々を認めた。
全員、最高学年の生徒だった。鼻血を出している男は侯爵家の一人だったはずだ。
「彼に、どんな用がありますか」
「突然殴られたんだ。君、ルームメイトだろ。人を殴ってはいけないと、その卑属な者に教えておいてくれないか」
「下級生を五人で囲んでおいて、彼が何の恐怖も感じなかったと言うのであれば、よく言い聞かせます」
「私たちはただ、話し合いをしようとしていただけだ。――ああ、なんだ、君も交ざりたかったか?」
身の内から起こる熱をこれほどまでに強く感じたことはなかった。両手を握りしめ、歯を食いしばる。一歩、足を踏み出せば、彼らは一歩、下がった。
「誰が、何をしようとしていた」
怖気付いたのは、侯爵家の子息の取り巻きたちだった。鼻血を出した彼を追い立てるように、走り去っていく。
いつの間にか肩で息をしていた。振り返れば、ミシェルが前を掻き合わせ、自身を抱きしめるようにしてうずくまっている。
ルーカスは膝をついた。夕陽に照らされて赤金のように輝き、こんなときにも彼の金髪は美しかった。
「ミシェル、怪我は」
「……ほっといてくれ」
絞り出し、震えて、細い声。ルーカスは言われた通り、ミシェルに触らず、何も言わず、膝をついたまま居た。
赤い空が紫に、紺色が覆い隠して、星が瞬いた。荒々しく上下していた背は落ち着きを取り戻していて、さっと吹いた夜風に震える。
そこで初めて、ルーカスは動いた。ジャケットを脱いで、ミシェルの肩を覆う。ミシェルは何も言わなかった。
「戻ろう」
形の綺麗な指が、ルーカスのジャケットを掴み、彼は頷く。
無言で立ち上がり、二人は校舎へ戻る。途中、ミシェルを探していた教員に呼び止められ、ミシェルだけが一週間の謹慎を申し伝えられた。
パジャマに着替えたミシェルが、落ち着いているのを確かめて、ルーカスは畳んだ毛布を持って腰を上げた。
ドアノブに手をかけると、後ろから声がかかる。
「どこ行くんだ」
振り返れば、ミシェルがルーカスを見つめていた。赤みの残る目元に縁取られ、青い瞳が不安げに揺れていた。
「談話室で寝ようかと」
「なんで。ここでいいだろ」
あんなことがあったのだから、ルーカスの存在も怖いだろうと思ったのだが。
譲らない雰囲気に折れて、ルーカスはベッドに戻った。
いつものように寝支度をして、横になり、両手を上げる。何を言わずともミシェルが寄ってきて、手早く右手を縛った。
ルーカスはただ、人形のように静かに呼吸だけを繰り返す。だが、いつまでも左手に縄がかけられない。
「どうかしたか」
「……お前、これ」
首を逸らしてミシェルを見上げる。視線はルーカスの左手、手首に留められていた。
毎晩、縄で縛るのだ。多少、遊びを持たせているせいもあり、そこはくすんで、赤黒くなっていた。だが、ルーカスの手のひらには剣を握り続けた胼胝があり、皮膚が肥厚するなど今更だった。
「ああ、ただの擦れだ。痛くも痒くもない」
ミシェルは何も言わない。やがて、手の縄を床に捨て、自身のベッドへ戻っていく。
「ミシェル」
「いい、それで」
後ろ手にカーテンが閉められた。自由な左側を下にして、ルーカスは久しぶりに仰向け以外になる。
ミシェルが布団に潜り込む音がしていた。それが静かになり、ルーカスはゆっくり瞼を下ろす。
「おやすみ」
ハッと、閉じたばかりの目を開いた。カーテンは閉じられたままだった。
幻聴かと疑うルーカスの耳に、居心地悪そうな身じろぎが伝わる。慌てて、口を開いた。
「おやすみ、ミシェル」
初めて交わした夜の挨拶を、今すぐ閉じ込めるように瞼を閉じた。
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