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天使の温室  作者: 佐々良えお
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ルーカスの両手を縛り、それでようやく、ミシェルは眠れるようになった。ルーカスの起床時間は同室になった初めの一週間で把握したらしく、ルーカスがなにを言わずとも、ミシェルは日の出の頃に瞼を重たげにしながら縄を解いた。すぐカーテンの向こうに戻るので、二度寝しているのだろう。

ほとんど正常な毎日が戻ってきた。食堂で見かけるミシェルはいつも通り、出入り口に近い席に座り、スープやメインディッシュを手早く平らげると、パンを数個持って出ていく。できるだけ長くそこに居たくない、とでも言いたげな行動にもかかわらず、一日三回、欠かさず現れた。最終学年も近くなると、厨房と話をつける抜け道や、調理という趣味を得る生徒もあって、低学年の時ほど顔は揃わなくなる。正攻法ではないものの、回避策を教えてやるべきか迷うのは、ミシェルに投げかけられる言動の酷さにあった。


「ミシェル、ソーセージはいらないのか?」


それが、ただ大皿から取り分けようとする親切であれば、なにも問題はないのに、実態は、ミシェルが食事をする背後から、自身は食事を終え食堂を出ていこうとする上級生が薄ら笑いを浮かべながら言う。朝から下品だわ、と嗜める女生徒の言葉さえ、迂遠にミシェルを辱める。ミシェルは黙々と食事を続け、いい加減煩わしくなると、パンを掴んでその場を離れるといった具合だった。

廊下を歩けばすれ違う生徒の視線をさらい、授業に集中する横顔があらぬ想像を掻き立て、囁かれる言葉は『天使は今日も私たちのために美しくある』などといった崇拝か、『あの綺麗なお顔の笑ったところが見たい』といった身勝手な欲求。それらがエスカレートすると、本人の許しなく抱きつこうとする年少者や、力尽くで屈服させようとする乱暴ものが発生するのだった。そして、ミシェルの拳が飛ぶ。

食堂だけを遠ざけることは、比較的容易い。だが、それだけを取り除いたところで、根本的な解決はならない。


柄にもなく、細く息を吐いた。そして、軽く口を引き結ぶ。


その日の夕食も、ミシェルは長いテーブルの端に座っていた。ピークにはまだ少し時間があり、人はまばら。ルーカスは新入生一人分ほどの間を空けて、隣に座る。

皿だけを見るようにしていたミシェルの手が一瞬止まる。しかし、何を言うこともなく再び、スープと形のいい口とを往復し始め、ルーカスもまた、平静を装ってスープを自分の皿に注ぎ入れた。

続々とやってくる生徒たちが、それぞれの感情を込めてミシェルを視線で撫でて通り過ぎていくのがわかった。ミシェルがメインディッシュやスープを飲み干すころ、それを少し離れた壁際で待っている女生徒がいるのにルーカスは気がついていた。ミシェルがパンを二つ、カゴから取る。女生徒が小さく一歩踏み出す。


「ミシェル」


ロールパンを掴んだまま、ミシェルがゆっくりとこちらを向いた。晴天を切り取ったような目を溢れそうなほど見開き、ルーカスを見つめる。


「この後、時間あるか」

「……なに」

「勉強、付き合ってくれ」

「……図書室でなら」

「ああ」


恐る恐るといったふうに、ミシェルは立ち上がる。ルーカスも立ち上がり、すたすたと歩を進めるミシェルの数歩後ろをついていった。

図書室は静かだった。ミシェルの後ろにルーカスがいるのを見て、司書が視線でミシェルに問う。やがて、小さく息をついて彼女は言った。


「飲食禁止ですよ」

「……はい」


ミシェルはやはり、入り口の近く、司書の目に届きやすい机に座った。


「なんか用?」

「君、地誌学に強いだろう」

「……なに、本当に勉強すんの」


向かい側に腰を下ろし、ルーカスは持ってきた本を広げた。地図を見ただけで、ミシェルは眉根を寄せる。


「お前のところの領だろう」

「そうだ」

「僕を試してるのか」

「君の意見を聞けたらと思って」

「……」


彼は紙面を睨み続ける。悩んでいるわけではなく、ルーカスの意図を探っているような顔をしていた。


「なにについて?」

「新たな産業を起こすとしたら、どんなものがいいだろうか」

「お前んとこ穀倉地帯だろ」

「そうだ。食うに詰めているわけではない。だが、人手が余り出しているんだ」

「……あんまり大きい声で言うと、聞かれるぞ。採掘やらやってる領地なんか、喉から手が出るほど欲しがる」

「司書しかいないだろう」

「本棚の向こうとか、色々席があるんだよ。お前は知らないかもしれないけど」


実のところ、ルーカスは今、司書しかいないのをわかっていた。あいにく耳が良く、気配を探るのにも長けている。

ルーカスはそれよりも、図書室に入室したときに見られた司書とのやりとりや、席の配置をよく知っているような口ぶりに、彼の日々の一端を見た気がした。


「よく来るのか、図書室」

「……たまに、よく」


どちらだ。わざわざ口に出しはしなかったが、自分の回答が何の意味も持たないのを気づいているのだろう、ミシェルは広げた地図に視線を逃し、遊ばせていた。

やはり、頻繁に訪れているのだ。食堂から持ち出されたパンは食べられることなく、ミシェルの側でハンカチに包まれている。飲食禁止の図書室で、あからさまに食べ物を持ち込もうとすれば司書は咎めるだろうに、ミシェルには、食べるなと忠告するのみだった。恐らく、ルーカスがいたからだ。他生徒に示しがつかないから、今日は食べるなと、そういう意味なのだ。普段はきっと、本棚の向こう、きっとどこかにミシェルの特等席があって、そこでパンを食べているのだろう。

簡単に持ち出せて、本を汚しにくいものがパンだから。

昼なら、校内の森の中もいい。鍛錬の過程で見つけたいい空き地がいくつかあって、そこなら誰も来ないから、ゆっくり時間を過ごせる。

だが、今はまだ難しいだろう。彼の秘密基地のひとつを探ろうとしているように見えたらしく、眉間に皺が寄っている。

話題は元に戻っていた。藁で工芸品を作る案を却下して、ルーカスは言う。


「王都で売りたい」

「それを初めから言えよ」


警戒しながらも、ミシェルは真面目にルーカスの問いに答えようと頭を捻っている。あれでもない、これでもないと言い合っていたら、閉館時刻になって追い出された。ミシェルとルーカス以外に利用者はなく、持て余されたパンはもしかしたら、寮の部屋の、あのカーテンの向こうで静かに食べられるのかもしれなかった。もう遅いから捨てるなんてことは、ミシェルはしないと確信があった。

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