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天使の温室  作者: 佐々良えお
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その翌日以降も同じだった。ミシェルは日付を十分に過ぎてから部屋に戻ってきて、手早くシャワーを浴びると、逃げ込むようにカーテンを引いたままのベッドに上がる。朝はルーカスが自主鍛錬のため、日の出とともに起きるので、同室の彼がどうしているのかは知らない。だが、次第に一限の授業に遅刻しそうになったり、顔色が青ざめていくのは異常だった。大丈夫だろうかと目をやるようにすれば、朝食はもちろん、昼食にも現れず、夕食には現れたものの、パンを一つ食べきれず、ジュースをいっぱい飲み干してすぐに席を立った。その後は校舎のどこかで過ごしているのか見当たらず、寮の門限ギリギリに戻ってくると、あとは談話室の隅で椅子に座っている。


一週間もすれば、周囲の無言の問いかけをひしひしと感じるようになった。週末になり、努めて一日、部屋に戻らないようにした翌日。ミシェルはどこにいたのか、やはり日付が変わってから戻ってきたのを、ルーカスはパジャマのまま、ベッドに座って迎えた。

たじろぎ、怯える様子のミシェルの片手は、やはり静かにドアノブへ伸びる。

まともに食べていないせいだろう、たった1週間でミシェルの頬はこけ、目の下を青黒い隈がしっかりと縁取っていた。


「俺は談話室で寝るから、安心して寝たらいい」

「……え?」


ルーカスは毛布を抱えて立ち上がる。ミシェルは後ずさろうとするが、そこはドアで、開かなければ逃げることはできない。

ルーカスがドアノブに手を伸ばそうとすると、ミシェルの手は脱兎のごとく引っ込んだ。鞄を抱きかかえる腕が微かに震えている。

それほどに怯えられるほど、関わりはなかったはずだが。たった一度、上級生を殴ろうとするのを止めただけ。それも四年は経っている。

ルーカスは何も言わず、部屋を出ていく。暖炉前の大きなソファに横になり、余った脚は仕方なく、ひじ掛けに上げて投げ出して、毛布をかぶった。




ソファの上では十分な寝返りが打てず、朝の鍛錬は体を入念に解し、伸ばすことが必要となった。その分、剣を振るう時間は減っていくのだが、易しい行軍、あるいは前線に出た場合の予行演習だと考えれば、そう悪くはない経験だと思えた。近頃、国境付近がピリついている。ここ数年、隣国との貿易摩擦が膨らみ、隣国内の内政悪化が窺われるニュースをいくつか聞いていた。資源も技術も蓄える我が国が隣国を搾取しているとの批判も隣国首長が繰り返しており、雲行きは常に怪しい。先日は隊商が襲われたとの話も聞いている。自国隊商が隣国内で襲われ、どうにか荷にも人にも被害が出なかったというが、もはやそれは顕在化し始めた火種だった。


ルーカスは今夜も毛布を持って、談話室に下りる。ルーカスとミシェルが上手くいっていないことは周知の事実と化していたが、そこで誰か変わってやろうという生徒は出てこなかった。ブリックナーの怪我を見れば、たとえどちらが先に手を出したとしても確実に鋭い拳の飛んでくることは明らかであり、ブリックナーもミシェルも、どちらも原因については口を割らなかったために、なにがどうなってブリックナーがそんな怪我に至ったのかわからないせいもあった。ただ、ミシェルが謹慎もなにも言いつけられていないあたり、ブリックナーにも非があることは想像に容易いはずだが、一部は教員が「天使」を贔屓しているからミシェルはなんの罰も受けていないのだと噂した。

下手に近づけば完膚なきまでに殴られるかも知れず、それを訴え出ても、教員に黙殺されるかも知れない。それが他生徒たちの、ミシェルに感じるところであり、つまり、ミシェルは今や天使という名の腫れ物だった。

ルーカス自身にも、あらぬ噂がまとわりついていた。曰く、『相性』が悪かったから追い出されているのだと。

冗談にしてもタチが悪いが、同じ部屋にいるだけで怯えさせてしまうという点では、確かに相性は悪いだろう。


談話室に降りて来る気配は、週に何度かある。いちいち起きる必要もないので、声をかけられるまでは目を閉じたままにいることにしていた。

その足音は、数歩進んではためらうように立ち止まり、また数歩進むことを繰り返して近づいてきた。一年の半分以上が過ぎている。新入生でももう十分慣れた頃合いだ。ならば、恐々と足を進めてくるこの足音は誰のものだろうか。


「……え、エーヴァルト」


驚いて、ガバリと起き上がる。ひ、と相手の口から悲鳴が漏れた。


「アルノー。どうした」


ミシェルだった。両手を胸の前で押さえながら、初めて見るパジャマ姿のミシェルが談話室を少し入ったところに立っていた。

この二週間で、ミシェルは明らかに健康を取り戻していた。食事の席では必ず見かけるようになったし、何より濃い隈が消えていた。元の天使然とした容貌を取り戻しており、その美しい碧眼が上目遣いにルーカスを窺う。


「ちょっと部屋、来てよ……」

「あ、あぁ……」


うなずき、身一つで行こうとすると、それも持ってきたら、と毛布を指さされる。

訳がわからないまま、言われた通りに毛布を持ち、線の細い背をさらに丸めるミシェルの後を、人一人分空けてついていった。

部屋に入ると、ミシェルのベッドのカーテンが半分開かれていた。そこからミシェルは上がり、カーテンを握りしめる。


「そこで寝たら」


カーテンを開け切った、向かい側、つまりルーカスのベッドを指す。


「いいのか?」

「いいもなにも、お前のベッドだから」

「けど、君、俺のこと怖いんだろ」

「こっ……怖くなん、か……」


言葉ばかりの反駁さえも十分にできず、震えるばかりのミシェルに背を向けようとすると、またすぐに名字を呼ばれた。静止できない指が頑なに、ベッドを指差す。

どうしても、ルーカスにベッドで寝てほしいらしい。

しかしこのままでは、振り出しに戻るだけだ。


「……ああ、ちょっと待っててくれ」


言って、ルーカスはクローゼットから荒縄を取り出した。


「これで俺の両手を縛ればいい。君が解いてくれるまで、俺はベッドから動けない」


そして、ミシェルの足元に縄を投げ、ルーカスはベッドに仰向けになった。布団と毛布をかけ、両手を上げる。


「アルノー。よろしく」


はく、とミシェルの口が何かを言おうとして形にならず、力無く閉じた。

立ち上がったミシェルは、予想よりもはるかにこなれた手つきでルーカスの手をベッドの支柱に縛りつけ、自身のベッドに戻る。

カーテンを閉めようとする横顔に投げかけた。


「おやすみ」


カーテンを握る手が震える。やがて、蚊の鳴くような声でこう返してきた。


「おやすみなさい」

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