6
紫色の雲を見上げ、走り出すのがルーカスの常だった。日の出とともに起き出し、鍛錬を欠かさぬよう、ミシェルもまた眠そうに、今は片手だけを縛る荒縄を解いていた。
固まっていた関節をほぐすように、前後左右に手首を動かす。解いた縄を両手に握り、ミシェルはそれをじっと見つめると、唐突に興味を失ったかのようなそぶりで背を向けた。昨日と同じパジャマで、閉ざされっぱなしのカーテンに手をかける背を呼び止める。
「今日は、なにするんだ?」
振り返った顔は怪訝そうに顰められている。何って、知っているだろうと言いたげに。
一週間の謹慎処分が、ミシェルの受けた罰だった。上級生を殴り倒しておいて、退学にならないだけ良かったというべきかルーカスにはまだわからない。だが、少なくとも、大人しく教師の言いつけ守るミシェルが学校を辞めたがっているようには思えなかったので、罰の中では良い方と言えた。
謹慎を言い渡されている間、ミシェルは校舎に入ることはできない。寮を出ることも基本的には許されず、談話室で誰か構ってくれるのを待つか、低学年のうちは寮監がなぜ事を起こしてしまったのか話を聞いてくれたりもするが、この学年では流石に放置だ。
自室で勉強か、読書か。昨晩、ルーカスが戻ってきたときと同じパジャマのミシェルは恐らく今日も、一歩も部屋を出る気は無いのだろう。
「少し、付き合わないか」
壁に立てかけている模擬用の剣を持つ。
「僕、謹慎中なんだけど」
「少しくらい構わないだろう。こんな狭いところに一週間もいたら、いっそ体調を崩す」
眉根を寄せ、ミシェルは視線を落とした。無言でカーテンの向こうに去り、無理に連れ出す気のないルーカスが一人で行こうとし、慌ただしい衣擦れに気づいた。ややもすれば勢いよくカーテンが開かれる。
運動着を着たミシェルが眠気を飛ばした目でルーカスを見ていた。
「靴下履くから、待って」
「ああ」
誰もいない寮内を地階まで降り、トイレに向かう。個室の突き当たり、空気を入れ替えるための窓を開いて、ルーカスは外へ剣を放った。
「おい」
「なんだ」
窓枠に手をつくと、ひょいと体を持ち上げて外へ抜け出る。朝露に濡れた、まだ濃い土の匂いを嗅いで、振り返る。
「手を貸すか」
「やっぱり出たらダメなんだろうっ」
言いながら、しかし、ミシェルはわずかにもたつきながらも窓を越えた。ルーカスは手近な茂みの枝を手折り、窓の木枠とガラスの間に差し込んでから軽く窓を閉める。
「こうしておけば、完全には閉められない」
「なんだそれ、暗号?」
「そんなもんだ」
同じ寮の生徒、そして、決して互いに口には出さないが、寮監との示し合わせだ。生徒はここから誰かが出ていったから完全に閉めないようにするし、寮監はよっぽどのことでなければ知らぬふりをする。
腑に落ちない顔でついてくるミシェルに、ルーカスは屋根の上を指し示した。
「ブルーモーメントだ」
世界が青に染まり、影をなくす一瞬の時間。珍しいだろうと言いたかったのだが、ミシェルは思いがけずあどけない表情をして、遠くを見つめた。
「ここは鐘の音がしない」
ルーカスが目を瞬くと、彼は横へ首を振って、足早にルーカスを追い越した。
「どこに行くんだ?」
「森の方に」
軽くうなずいて、ミシェルは慣れた足取りで森へ向かう。
起床を知らせる鐘にはまだ早い。ミシェルの領では、昼夜問わず鐘が鳴るのかもしれなかった。
踏み分け道を辿り、森に差し入る、影の濃いところでルーカスを振り返る。空が白んできた程度では、密集した木々の間にまで朝は届かない。だが、慣れた足は躊躇わず、ミシェルを追い越して先を歩いた。暗くて怖い、と言われるかもしれない。時折後ろを気にしながら進んだが、ミシェルはルーカスの背を追う方に集中していて、ルーカスが手をついて行けば、同じ位置に手をついていき、踏み越える動作をすれば、また同じところで同じように踏み越えた。森に入ってからそれほど経ってはいないだろう。ほんの、五分か十分程度進むと、倒木で広場のように開けた場所に着く。
しとしとと降るように、東雲の薄青い空気が満ちていた。紺色を淡くさせていく、丸くきり取られた空を見上げ、そしてルーカスを見る。青の瞳は金色の睫毛に縁取られ、薄明かりを集めてキラキラと輝いていた。
「なにするの?」
「素振り」
携えた剣を示すと、小さくうなずいて斜め後ろに退がる。
朝露を切り裂く、鋭い音があった。振り下ろした木剣はすぐに持ち上げられ、また振り下ろされる。ミシェルは、最初の数回は黙って眺めていたようだったが、日が上り、明るくなると何かを探すように地面にしゃがみ込んでちょこちょこと動き回っていた。
軽く汗ばむくらいになって、手を止める。
「ミシェル」
顔を上げた同室者は、ルーカスを見上げて一瞬、きょとんとして、それを誤魔化すように素早く立ち上がると、ズボンで両手の土を払った。よほど集中していたのか、ルーカスがいることも忘れていたのだろう。
「そろそろ戻ろう。起床の鐘が鳴る」
「うん」
あたりは随分明るくなっていた。行きは見通しの悪かった森も、帰りは幾分か明るくなっており、ちゃんとついてきているか窺って振り向いた先では、あちこちよそ見をしながら、しかし遅れずルーカスに続くミシェルの姿があった。
森にはよくくるのか。足取りが慣れていそうだが。俺が素振りしている間、何見ていたんだ。どうして今更、入寮することにしたんだ。
聞きたいことはあったが、それをミシェルにどう尋ねれば良いかわからず、考えているうちに森を抜け、男子トイレの窓まで戻ってきていた。抜け出したときと同じ要領で入り、枝を捨てる。ちょうど起床の鐘が塔から鳴り響き、眠りにひっそりとしていた寮がにわかにざわめき出した。
一年生とすれ違いながら、連れ立って部屋へ戻ろうとすると、廊下の途中でこちらにやってくる生徒がルーカスに気安い朝の挨拶を投げかけた。
「おはよ。朝の鍛錬?」
「ああ」
部屋が変わる前に同室だった同級生だった。ルーカスがいなくなり、人数の都合上今は一人で部屋を使っている。
「アルノーも?」
ルーカスの背後を覗き込むようにする。ミシェルは両手を背後で組み、小さく顎を引いて立っていた。姿勢が良く、澄ました表情から、そのように作られた彫像のようにさえ見える。ルーカスは目を瞬く。そうだった。彼が通学生だったときは、こんな表情の方が多かった。
「なんだ、もしかしたら、ルーカスとも上手くいかないんじゃないかって心配してたけど、仲良さそうじゃん。よかったね、二人とも」
じゃ、朝ごはん行くから、またあとで。
一方的に話すだけ話し、気を悪くした風でもなく彼は去っていく。貴族の中では中流の、裕福な家に生まれた末っ子らしいマイペースさだった。
ミシェルの対外的な無表情に、静かに困惑が滲む。歩き出せばついてくるが、徐々に無表情が落ちて困惑だけになった。
あどけなくさえ見える、あれでいいのかと問う視線に、自室のドアを開けながらルーカスはうなずいた。
「部屋に二人でいてもあの調子だった」
「……ああ、前の、同室の人」
ドアの開閉音が絶え間なく響いてくる。朝が始まっていた。皆、身支度を終えて食堂へ向かい出している。授業に間に合うよう、ルーカスも汗を拭いて出なければならなかった。
ミシェルは謹慎の手前、食堂へ出ることも許されない。
「朝食はどうしてるんだ?」
「寮のキッチンで適当に……うわっ!」
突然の叫び声に、脱ぎかけていたシャツを手早く脱ぎ切る。と同時に、カーテンが勢いよく閉じられ、ルーカスは目を瞬いた。
「ミシェル、どうした」
森で気付かぬうちにどこか切ってしまったのか。身支度の手を止め、じっとカーテンを見つめる。ややあって、二人を隔てる布が揺れた。開かないようにくしゃりと握られている。
「着替えるなら、カーテン閉めろよ」
固さを帯びた声。
今まではミシェルが必ずカーテンを閉め切っていたから、ルーカスが朝、食堂に行く前に上裸になって汗を拭いていることを知らなかったらしい。だが、同性なら相手が着替えるくらいではいちいち咎めないのではないか。
違和感を覚えながらも、ルーカスは自身の天蓋ベッドのカーテンを引く。
「これでいいか?」
「……多分」
自分でカーテンを開けてまで、確認はしないらしい。
騎士団の集団生活は男社会で、シャワーを浴びようと思えば普通、大浴場しかない。上だけでなく下も裸になった男が、何人もそこで汗を流すのに、すでに数回、混じっているルーカスは、あまりに隔たりのあるミシェルの貞操観念に閉口した。
カーテン一枚引く程度、大したことはないが。
ルーカスが着替え終わっても、一度閉じたカーテンは開かれなかった。黙って出ていくのもどうかと思い、跳ね返ってきそうな覆いに向かって、声を掛ける。
「じゃあ、また夜に」
カーテンが撓んだ。開かれはしないものの、ミシェルが中から触れたことは分かった。
「いってらっしゃい」
鍛錬前、大急ぎで着替えるミシェルはカーテンを引いていた。彼を取り囲むのは女性ではなく男性で、そして、拳を振るう先もまた、男性であることに気付いたのは、昼食をとろうとしたときだった。明け透けに彼を揶揄する言葉をぶつけるのはいつも男であることを、そのときようやく思い出した。
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