17
太陽が天頂に座し、遠近で鐘の音が響く。なだらかな斜面をバスケット片手に二人は登っていた。
「鐘が多いな」
「うちの領、鐘楼がないから手で鳴らしてんだよ」
なだらかな起伏を繰り返しながら、やがては山へ続く。見下ろせば、アルノ―男爵邸は平地と斜面のちょうど境界に位置し、万年雪を頂く山を背に負うようにも見えた。
「前に、鐘の音がしないと言っていたことがあったろう」
「そんなこと言った?」
「ああ。日の出のころだったから、時間が早すぎると思っていたんだが、違ったな」
ここでは日の出に鳴る。羊飼いたちの朝は早いのだ。
「あぁ、ブルーモーメントを見せてくれたときか。あれは、そうなんだけど………」
鐘楼の重い鐘ではない。大体これくらい、とミシェルは膨らませた両手を合わせて鐘の大きさをルーカスに見せた。
「こういうのがそれぞれの家にあって、順繰りの当番で鳴らすんだ。鳴らし方は決まってないから、せっかちな人はガンガン鳴らすし、上手な人の鐘は一人でもすごく遠くまで聞こえる。鐘の音って、そういうものだと思ってたからさ。王都のは鳴ってるって気がつけなくて困る」
「そもそも、日の出には鳴らない」
「それだよね。ルーカスが変な顔してたから気づいた」
実際、女物だという帽子の広いつばを揺らして、ミシェルはどんどん緑の斜面を登っていく。小屋もなく、所々に突き出た岩ばかりの草原には羊飼いが毎日通ってついた、白い土の道があった。空が近い。筆で薄く流したような雲だけがある、底抜けの青天が視線を上げればすぐ目に入り、数歩先を行くミシェルの白いシャツがまぶしい。体温が上がっているのか、バスケットを握る手は薄い桃色をしていた。
肌を撫でる空気が心地よいほど冷めてきたところで、点々と白い塊が地上に現れだした。
「今日は随分高いところまで連れてきたんだね」
軽く弾んだ息の合間から、独り言のようにミシェルが言った。羊だった。
ルーカスはその、のんびりと草を食む白く、細い体を眺めて言った。
「山羊みたいだ」
ざくざくと土を踏みながら、まばらに散る羊の間を縫って進んでいく。はたとミシェルはルーカスを振り返った。
「もしかして、毛がないって言ってる?」
「え? そういう種類じゃないのか。山羊みたいな羊……」
「夏が来る前に刈っちゃうんだよ。今は毛刈りの後! 冬にはもこもこだよ」
言われてみれば当たり前だった。羊の毛から布ができているという知識はあっても、羊の毛を誰かが刈っていることも、刈られた後の羊がいることも、今まで想像したことがなかった。
「ルーカスって貴族より貴族らしいよね」
「褒めてるのか」
「ふふ、半分くらい」
悪戯っぽく笑って前を向き、岩の上に見えた目印を見つけて声を上げた。
「ヤニク!」
耳に心地よい声は、遮るものもなく簡単に天に届くようだった。呼ばれて、のっそりと体を起こした男はくしゃくしゃの茶色い髪をそのままに、ミシェルたちを認めて不機嫌そうに顔を顰めた。
「なに」
「お昼持ってきた。昨日、使いが行ったでしょ」
「来たけど」
ミシェルはバスケットを彼の傍に置いて、不機嫌をものともせず口角を持ち上げる。
「これ、ヤニクとノワールの分。ノワールは?」
ふん、とヤニクは鼻を鳴らす。指を口にやると、高らかに口笛を吹いた。どこにいたのか、弾丸のように走り込んでくる羊よりも小さな犬は、その名の通り黒い毛をしていた。ヤニクの足に飛びつき、何かを嗅ぎつけたのかじっとバスケットを見つめる。
「ノワール、僕だよー、ミシェルだよー」
ポケットから干し肉の欠片を取り出し、ミシェルは膝をつく。理知に満ちた瞳が一度主人の顔色を窺い、引き留められないことを確認すると、差し出されるままミシェルの差し出した干し肉を銜えた。
「うわっ!」
ちぎれんばかりに振られる尻尾にミシェルが埋もれた。干し肉をそっちのけでミシェルに飛びついた犬が、おおはしゃぎでミシェルの顔を舐めまわす。
「わ、ちょっ……ノワ―、ノワール! ヤニク! たすけっ」
「干し肉臭いんだろ」
のけ反るミシェルの背後は下り坂だ。万が一にも転がり落ちないように立ち位置を変えたルーカスを一瞥して、ヤニクは犬の名を怒鳴った。飛び上がってミシェルから退いた犬は、抜け目なく、落ちていた干し肉を銜えて主人の下へ戻る。その背を撫でて、ルーカスに一瞥をくれた。
「誰、そいつ」
「忘れてた。彼はルーカス・エーヴァルト。学校の友達。ルーカス、彼はヤニク・ベルジェ。母方の従兄だよ」
「初めまして」
手を差し出すと、いぶかし気にしながらも、いかにも儀礼的に握り返される。
「あんた貴族?」
「いや、俺だけの身分なら平民。父が騎士だ」
「へえ」
興味なさそうに返事して、ミシェルが渡したバスケットを広げる。
「僕たちも食べよう」
ルーカスはうなずく。バスケットに載せてきたフェルトを敷き、バスケットを開く。アルノー家にシェフはおらず、大抵は領民たちと同じようなものを食べているとミシェルは言っていた。実際、そう手の込んだものは出て来ない。シチューとパン、チーズが主で、初日の夜、立派なラム肉を供されたのは比較的気軽なご馳走の部類に入るようだった。
バスケットにはサンドイッチと、水筒が入れられていた。ルーカスからすれば、十二分のご馳走だった。外でご飯を食べるといえば、行軍訓練の経験しかない。
「おいしい」
ルーカスの言葉に、ミシェルが安心したように微笑む。
「ヤニクはどう? 母さんが作ったんだ」
「……うまい以外に言えねえだろ」
「よかった」
ヤニクは終始、迷惑そうにしてるが、ミシェルはちぐはぐに楽しそうで、今も羊が草を食む口元を眺めながら、にこにことサンドイッチを頬張っている。元々、ルーカスは口数が少ない。眉を厳しくさせたままのヤニクも言葉は少なく、つっけんどんで、蹄が草を踏みしめる音と鳴き声ばかりがよく聞こえた。
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