18
昼食を食べ切り、水筒の水で一息つく頃、ふと、背後を振り返ったミシェルが尖った声でヤニクを呼んだ。
「ヤニク、羊が!」
「ノワール!」
微睡むようだった犬が、名前を呼ばれるだけで飛び出していく。盛大に舌打ちし、水筒を叩きつけるようにバスケットに戻したヤニクも、その後を小走りで追って行った。
何が起こったかわからないルーカスは目を瞬くしかない。
「あっち、結構深い谷だから、帰って来れなくなるんだよ」
「ああ、なるほど」
「見た? ノワールがすぐに走ってったの。かっこいいよね」
そうして、物憂げながらもどこか芝居じみたため息をついて寝転がった。
「僕も大きくなったら自分の犬を育てるんだと思ってた。羊の番をして、毛を刈って、時々絞めたり、売ったりさ……でも、全部僕の仕事じゃないんだ」
見下ろしても、小さな空がある。そこを半透明の雲が渡り、ルーカスが小さな影となって映り込んでいた。
晴れやかなわりには、眉尻を下げて、納得したような顔をしているのが切ない。
「羊飼いになりたかったんだ、ルーカス。でもなれない」
見て、とミシェルが促すので空を仰ぐ。清々しいほどの青空が視界いっぱいに広がる。風がそよげば草が流れ、羊が鳴く。遠くで犬が吠えている。
「これが僕の領地。広くて、広いばっかりで、何もない土地。僕の大切な場所」
ルーカスにも、見てもらいたかった。
視線を戻すと、ミシェルがルーカスを向いていた。愛おしげに細められるまなざしが、ルーカスではなく、彼の育ってきたこの土地の風景を映しているのだとしても、同じ方向にルーカス自身がいることは幸福だった。
「そうか」
「うん、そうなんだ」
それ以上、ミシェルは何も言わなかった。ルーカスも、何かを言えるほど言葉を操るのは上手くなかった。剣なら分かり合えると周囲は言うが、それもルーカスは分からなかった。
物心ついたときには剣を握っていた。父にも祖父にも、家に連なる人間の全てが、ルーカスも騎士として功を立て、叙勲されることを望んでいた。疑う余地はなく、そして、ルーカスは剣が得意だった。生まれるべくして生まれた、と聞こえてきたこともある。
家というしがらみがなければ、ミシェルは羊飼いになりたかった。ルーカスはどうだろう。騎士という道筋を引かれていなければ、何になりたかったのだろう。
会話がなくなると、周囲の音が粒立ってくる。高い空の重低音まで聞こえ、羊の鼻息がすぐそばにある。高く、低く、気ままに身の振り方を変え続ける風の音に気づいてしまうと、それは雄大なオーケストラとなって、流れゆく雲の道行を飾り立てた。
今が永遠に続けばいい。草原にただ二人、何をするでもなく空を見上げるこの瞬間が、永遠となればいい。あらゆる境遇を棚上げしていいのであれば。寝入ってしまったミシェルを見下ろす。この安穏とした寝息ごと、万年雪に埋めてほしい。
草を踏みしめる音が近づいてくる。日に当たりすぎると熱が出るというのに、全く無防備なミシェルの顔に帽子を載せる。
「触らないのか」
見上げれば、ヤニクが立ちはだかっている。ミシェルの憧れる犬が炯々と目を光らせ、ルーカスを見据えている。
「帽子を載せただけだ」
「触ったのか」
「触らない。彼は嫌うだろう」
静かだが、厳しい色を載せてヤニクはルーカスを見張っている。まるで、ここで何かが行われているのを知っているとでも言うように。
逸らしてはいけないし、余計な口答えもまた、言い訳と論われる。張り詰めた緊張は、ヤニクから破られた。犬の様子を確かめ、傍の平たい岩場に腰を下ろした。
「あんた、愛人?」
「友人だ」
「いないだろ、こいつにそんなやつ」
「君は違うのか」
「はっ。違うね、単なる従兄弟だ。血が繋がってるだけの、全くの他人」
水筒から少しずつ水をこぼしてやれば、犬は器用にそれを飲む。ヤニクも一口飲んで、つばの広い帽子に胸まで隠された領主の息子を眺めやった。
「あんた以外の友人はいるのか」
正直に答えるべきか迷う。迷って、知らない、とだけ答えた。
「いないんだろ」
ヤニクはもう一度言って、ルーカスを見つめた。そばかすの散った頬、赤い鼻。日々、動物を相手に外で労働する者の顔をしているが、どこか艶を含む薄い唇はミシェルとの血のつながりを感じさせた。
「毎年、疲れ切って帰ってきてたのに、寮に入るなんて言うから、死体が戻ってくるんだと思ってた」
干からびて、骨ばっかになって。
ヤニクは呟いて、浅く眉間に皺を刻んだ。
「学校なんて行くからだって、帰ってくるたんびに言うのに、お貴族様は学校に行くギムがあるんだと。死んで帰ってきちゃ、ギムもなにもないだろうに」
「罰則は確かにあるが、死ぬようなものではない」
「死ぬだろ、こいつは弱いから」
「……今年は生徒を殴って、二回、謹慎をくらってる」
驚いて目を見開く。それから、あぁ、ネルソンの奴、と呟いて合点がいったようだった。
「親父はこいつの顔が悪いって言うけど、顔だったら俺も持ってる。生まれた瞬間に天使か悪魔か決まってるんだったら、悪魔は全部端から殺したほうがいい」
じっとルーカスを見据える目の奥に、燃やしきれない怒りを見た。
「あんた騎士なんだろ。こいつの家に仕えるとかできないのか」
「ネルソンがいるだろう」
「俺ぁあいつ嫌いだ」
で? というように首を傾げ、答えを迫られる。ルーカスは正直に答えるしかなかった。
「残念だが、俺にはできない」
「使えねぇな」
「学校にいる間なら」
あと一年。同じ部屋に寝起きする、その間なら。
「ミシェルの騎士に、なれる」
「気取ってんなよ」
「すまない」
会話はそれきりで、ヤニクは羊たちの様子を眺めるばかりになった。ルーカスもそれ以上口を開かず、存外居心地の良い沈黙の中に風の音を聞いていた。
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