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天使の温室  作者: 佐々良えお
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夏は盛りを迎え、長期休暇も折り返しに差し掛かった。片道四日かかる旅程の最終日、アルノー領に入ってすぐの村で宿を取ったルーカスは、そこからひたすら街道をまっすぐ、馬でたどっていた。嗣子を一人旅させるわけにもいかず、エーヴァルト家の使用人から、元騎士である家令が付き添っての二人旅だ。

町と呼べそうなほど大きな集落は少なく、広場の周囲に宿はあるものの、商人のために開かれているばかりで、身綺麗にしているルーカスたちは恐縮のあまりどこかぎこちない様子でもてなされた。それでも、事前にアルノー家から連絡と補填がされていたようで、不自由することはなかった。


「随分のどかな場所ですね」

「ああ」

「こちらは国境から遠いですから、我々の出番もそう多くないですし。帯剣していることに怯えられるとは、なかなか」


家令の飲み込んだ言葉をルーカスは正しく汲み取って、しかし、うなずきはしなかった。王都と国境付近の往復ばかりしていると、都会か戦場かという極端な環境を行き来することとなる。やや聞き取りにくい、この土地でやわらかに歪められた訛り、ルーカスたちをもてなすために一生懸命洗濯はしたのだろうが、落ち切らない染みのままの衣服、住人よりも容易に見つけられる家畜たち。それらを王都と比較して、随分田舎だと彼は言うのだった。


ルーカスは冷涼な空気を肌に感じながら、緑が延々と続く景色を眺めていた。鮮やかな空の青は会いたくてたまらない人と同じ色をしている。昨晩、日が落ち、とっぷりと暮れた空を窓から見上げたとき、月があまりにも美しい金色を輝かせていて驚いた。この地で確かに、ミシェルは生まれ、育まれてきたのだ。

天頂から日が幾らか過ぎ、古びた門柱の間を抜けるとすぐに、邸宅が見えた。漆喰と木で装飾された家は群青や紅色などの濃い色の花々に裾を彩られ、朴訥とそこに建っていた。


屋根のない玄関ポーチに、懐かしい人影が座っている。別れたときから地続きのようにつばひろの帽子を被り、椅子に座って本を読んでいた。

馬を停める。音を立てて本を閉じ、彼は腰を上げた。馬上のルーカスを見上げれば呆気なく帽子が落ち、夏の日差しをいっぱいに浴びて肌の白さを際立たせる。後ろで、護衛が静かに息を呑むのが聞こえた。蒼天と同じ色をした瞳が嬉しそうに細められた。


「久しぶり、ルーカス。そしてようこそ!」

「元気そうだな、ミシェル」


降り立った足元は柔らかい。石が敷かれておらず、ただ土を固めただけだからだ。

ミシェルの傍にいた使用人が手綱を引き取って裏手へ回っていく。


「ルーカスも。ずっと馬に乗ってきたの?」

「見ての通り」

「疲れただろ。今日はゆっくり休んでもらう日にしようと思って」


ついと視線がルーカスの後ろへと流れる。ルーカスも一瞥をくれて、彼を紹介した。


「ユルゲン・ウルリヒ。念の為の護衛だ」


胸に手を当て、静かに男は頭を下げる。それを上から下までじっくり見やって、ルーカスに問いかけた。


「彼も騎士?」

「ああ。父の部下だった……うちに仕えてくれているから、今も部下のようなものか」

「クラウス様のご温情に、心からの感謝と忠義を誓っております」


学校で見るよりも幾分か気安く、口元が淡い弧を描いた。相手がルーカスの身内であるためか、初対面にしては表情は柔らかかった。


「うちにも騎士上がりがいるんだ。ほら、ネイサン」


先ほど、馬を引いていった男が戻ってきていた。厩では他の使用人が働いているのだろう。呼びかけられ、一礼した姿はユルゲンとよく似ている。


「僕に殴り方を教えたんだ」

「護身術とおっしゃってください、ミシェル様」


くすくすとミシェルは肩を揺らして、そして、屋敷の中へとルーカスを案内した。

玄関ホールでアルノー夫妻がルーカスたちを出迎えた。年に一度の王家主催パーティーには出席しているが、ミシェルの飛び抜けた美貌ばかりを聞いていて、両親の印象は正直なかった。ひょっとすると、天使ばかりが並ぶかもしれない、などと半ば本気で思っていたが、実際は、見目の整った男女が並んでいるだけだった。ただ、その両親のどちらにもミシェルは似ている。全体の雰囲気は母親だろうか。だが、髪色と目元に含んだ柔らかさはアルノー男爵によく似ていた。


「長旅お疲れでしょう。こんな田舎までよくいらっしゃってくださいました。ミシェルの父の、フェリクス・アルノーと申します」


騎士は伯に相当する。丁寧な口ぶりで挨拶をするアルノー男爵は、だが、礼儀以上の親愛を持って右手を差し出した。ルーカスはその手をしっかりと握り返した。近親にはいない、ほっそりとした手だった。


「初めまして、ルーカス・エーヴァルトです。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。とてものどかで、良いところです」

「はは、エーヴァルト様には退屈かもしれません。どうぞゆっくり羽を伸ばして、と言いたいところですが」


視線の先で、ミシェルがにっこりと笑った。


「息子が何か企んでいますようで。ご無理のない範囲でお付き合いいただけましたら幸いです」

「どうぞ、ルーカスとお呼びください、アルノー男爵」


ルーカスの申し出に、男爵は相好を崩す。柔らかく解いた手を隣の女性へ向けた。


「こちらはベレニス。ミシェルの母です」

「初めまして、ルーカスくん」


握手を交わす。ふっくらとした唇が特に、ミシェルと似ていた。赤毛を一つに結って身綺麗にはしているが、生まれたときから貴族である夫と並ぶと、佇まいにやや差がある。


「もう終わった?」

「ミシェル」


待ちきれず、階段の手すりに手をかけてミシェルは待っている。男爵が嗜めて名前を呼ぶが、意に介したふうもなく、早く上に行こう、とまで言ってルーカスを急かした。


「すみません。まともに友人がいなかったもので、はしゃいでいるのです」

「それは私も同じです。だからとても、楽しみにしてきました」


嬉しそうに笑んだ夫妻に一礼して、既に数段、先にいるミシェルの元へ急ぐ。見開かれた睫毛がどこからかの光を反射して、キラキラと輝いていた。


「僕の部屋で一緒に寝よう。学校みたいに」

「ミシェル様、そろそろご冗談はおよしになってください」


背後からネイサンが諌めると、ミシェルは眉を顰めた。


「ベッドを一つ運んでおいてって言っただろ」

「騎士の方にお休みいただくようなものではありません」

「だから僕がそっちに寝て、ルーカスには僕のベッドを使ってもらうって」

「はしたない真似はおよしください。目上のお方ですよ」

「じゃあどうすればいいんだ」

「それぞれのお部屋で良いでしょう?」

「そうじゃないって!」


常識的なことをネイサンは確かに言っている。ミシェルは、寮と同じなのだから構わないと思うのだろうが、そこは学校という特殊な状況下だから許されることだ。学校外、家同士の付き合いにも等しい今には到底そぐわない。

ユルゲンが苦笑している。既に十分、醜聞に値する。成り行きを見守っていた男爵が仲裁に来ようとするのを、ルーカスは一歩踏み出すことで塞いで、ミシェルに言った。


「ベッドは客室に運べばいいんじゃないか」


ルーカス様、と諌める押し殺した声が聞こえたが、構わなかった。ミシェルの望みは、ルーカスも望んでいることだった。

瞬く間に、頬が薔薇色に綻んだ。駆け降りてきて、透き通るような白い手が、ルーカスの袖を引いた。


「名案だ! 一緒に運ぼう、ルーカス!」

「ああ。どこにあるんだ、そのベッド」


大人たちが呆気に取られる前を、二人で駆け抜ける。使われていない使用人部屋から二人でベッドを持ち上げ、廊下を運んでいるところに従者たちが追いつき、悲鳴と怒声が重なって襲っても、ただ、楽しいばかりだった。

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