12
夕食後、休日ということもあってか、図書室は鍵が掛けられていた。寮に戻ってみたが部屋にミシェルは居らず、その後、各教室を探し回る羽目になった。きっちり施錠されているか、前後の扉に手をかけて確かめながら階を上っていき、四階、最上階に至ったとき、まっすぐ伸びた廊下の終わり、一条の銀色の光が差し伸べているのが見えた。
教室の広さに満たないそこの扉が僅かな隙間を空けて開かれており、中は棚と箱で雑然としていた。教材の物置なのだろう。普段は閉められているだろうカーテンが大きく開かれて、上り始めた月の光が室内を淡く照らしていた。
「ミシェル」
物音がした。硬い靴底が埃っぽい床を踏んで、金糸が月光を纏わらせた。
棚の陰から現れたミシェルは窓を背に、しかしただ黙ってルーカスを見つめていた。
「本当は、何があった」
気になっていた。目に留まる子供のような言動に紛らわされて、気づいたときにはミシェル本人が話す気を無くしていたから、それ以上言い募れなかった。
ルーカスが鍛錬していた間、昼食の後、ブリックナーと何かがあったのだ。それで、ミシェルは夕食には行かないと駄々を捏ねた。
「僕、退学?」
「ならない。ブリックナーが自身の暴言を認めている」
ふっと青い目を見開いた。なぜ、と目が言っていたが、答えなかった。
「昼に、何かあったんだろう」
「そうだね。ちょっと……ちょっとだけ」
「何を言われた」
「……」
スラックスを握りしめる。ミシェルは窓の方へ顔を背けた。
「言いたく、ない」
「ミシェル」
「だって、本当だったら耐えられない!」
一体、本当に何を吹き込まれたのか。
天使と崇める心こそあれ、それが彼を一寸も損なうことなどあり得ないのに。
「何を言われたのか見当もつかないが」
すたすたとミシェルとの距離を半分にして、ルーカスは言う。
「俺がミシェルの信頼を裏切ることはしないと、剣に誓ってもいい」
あいにく、校舎内で帯剣は禁じられているので、手元にはないが。
眉間に皺を寄せ、まだ不安げにミシェルは顔を上げた。
「ルーカスが、な……仲良くしてくれるのは、いつか僕の家を乗っ取るためだって」
騎士の爵位は世襲の爵位に照らし合わせれば伯爵とほぼ同等であり、ただし、一代限りという制限がある。エーヴァルト家は祖父から二代続けてその位を戴いており、一代ならまだしも、二代続けば歴々からは邪魔に思えるらしかった。些細な嫌がらせは今までも受けていたが、世襲貴族たちの考えることはどのように自らの位を維持し続けるかということで、もちろん、エーヴァルト家も同じであると疑いもしないらしい。だから、ミシェルに取り入って、世襲の爵位を事実上でも手に入れようとしているなどと考えるのだ。
「エーヴァルト家、特に祖父は豪快な人で、国の名誉のために働けと言う人だ。国のために命を賭して働く。それが騎士の本分だと。自分の名誉のことしか考えない貴族を嫌っていて、随分誘いもあったらしいが、祖母も母も平民から娶っている。もし俺が、騎士の本分を捨てて、爵位を目当てに動こうものなら、分かった時点で勘当される」
「……そう」
張り詰めた表情は緩んだが、微笑ませるまでには至らなかった。そう、いや、十分だ、と言い聞かせるように呟く。
「ミシェル」
肩が跳ねる。小さくすくめて、上目遣いにこちらを見る。
「ただ君が、大切なだけだ」
天使の面差しはひどくあどけなかった。右へ去った猫が左から出てくるのを不思議がるような表情で、目を瞬く。
「それってどういう意味?」
ルーカスが答える間もなく、ミシェルは自分なりの答えを導き出す。
「親友ってこと?」
サファイアの瞳がキラキラと輝いていた。星を映し、背後の空よりも鮮やかに夜空を宿して、ルーカスを見つめた。
「酷いことを言ったけど……」
「何か言ったか?」
「……触るなって」
「ああ」
月光を背から纏い、不安と、しかし、きっと許してくれるだろうという目算を秘めた天使の姿は、神々しさから一回りはみ出た人間臭さがある分、かえってルーカスには深い陶酔をもたらした。天使が人間であるからこそ、この利己的な甘えはルーカスだけに向けられる美酒も同然であった。
「怖いんだろう、触られるのは」
「そ、う……だけど、でも」
「でも、同じことがあったら止める。ミシェルの利にならないことは、俺がさせない」
ミシェルは返事をしなかった。うつむき、両手を握りしめた。
「ルーカスがどれだけ努力を重ねてるか理解しようともせずに、あいつがルーカスを罵倒するのが許せなかった」
怒りに唇が震えている。狭間から覗く皓歯は噛み締められ、目の色を強くした。
「所詮他人のことだ」
「ルーカスは僕だ!」
煮えるような青が渦巻く。ルーカスは愉快でたまらなかった。天使の視界に己しか映っていない充足感。
「ミシェルが俺ならなおさら、あそこで手をあげてはいけなかった。騎士道に反する」
苦々しく唇を噛む。ルーカスはなお、ミシェルを静かに諭した。
「簡単に他人を殴ってはいけない。だが、本当は分かっているのだろう、ミシェル」
無視するか、殴るか。他者から見れば、あまりに極端な抗い方だとしても、ミシェルにはそれが最適解だったのだ。半端に相手をしてはつけあがる。不快を感じた瞬間に暴力に訴え出なければ、尊厳から傷つけられるのは彼のほうなのだ。
「わかってるよ。本当は、わかってる」
「ああ、そのままわかっていてくれ。俺はミシェルが手をあげなくていいように、守るから」
「ルーカスが、騎士だから?」
「親友だから。騎士なのは偶然だが、利用できるなら利用する」
「へぇ、それ、いいね」
いいね、ともう一度呟いて、眉尻を下げる。
「僕はやっぱり、誰かに守られなきゃいけない?」
「君が君を傷つけないように」
守る。天使を損なう、何者からも。
「駄目だとわかっていることをするのは、苦しいだろう」
小さく首を傾ぐ様は、肯定と否定とも判別できない。迷う、軽やかな声があって、やがてはうなずいた。
「僕の親友。僕の騎士。僕だけの、」
言葉を選ぶ間があり、しかし選べなかったのだろう。軽く横に首を振って、二歩、ルーカスに歩み寄った。
「そうだね」
「そうだ」
帰ろう、とドアに向かうミシェルを目で追って、ルーカスは任せられた目的を告げる。
「職員棟に行かないと」
「退学……は、ないんだっけ。また謹慎?」
「反省文くらいはあるかもしれない」
「そう」
そして、突然、思い出したように顔を上げた。
「僕の母も貴族じゃないんだ。領内で一番羊を持ってる家の娘。お揃いだね」
ブリックナーが引き合いに出したので推しはかれるものはあったが、本人から告げられることとはまた違う。
爵位だけでなく、こういったところでも、彼は貴族たちから簡単に御せると思われがちなのだろう。
物置部屋を出て、ドアを閉じたところにミシェルがかがみ込んだ。
「そういえば、ここは施錠されていないのが普通なのか?」
「ううん、かかってたよ、鍵」
そういってポケットから針金を取り出す。瞬く間に錠のかかる音がして、ルーカスは目を瞬いた。
「僕は羊飼いの子で、男爵なのは偶然なんだ」
行こう、と言って歩き出すミシェルの背を眩しく眺める。わずかに差し込む月光さえも捉えて離さない金糸も美しいが、その足元が草原であれば、彼はなお輝くのだろうと思われた。
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