11
午後は鍛錬に割き、一方、ミシェルは自室で課題をこなしていたらしかった。ペンを走らせる背中を横目に汗を流し、制服に着替える。
「夕飯はどうする?」
「えー……と。キャンディでいいかな」
一方、ルーカスは空腹で仕方がない。ミシェルが一食程度はよく抜かすので、なら一人で食堂に出ようかと考えたとき、きゅるるると甲高く、小鳥でも泣くような音がした。
瞬きすれば、ミシェルは慌てて腹を隠すように手を添える。腹は答えるように鳴く。丸めた背に、ルーカスは投げかけた。
「何か食べた方がいいんじゃないか」
「だからキャンディ、」
きゅーくるる
「んふっ、ふ、ふ」
堪えようとしてし損ね、ルーカスは肩を揺らして笑う。
顔を覆い、うなだれたミシェルの耳が燃えるように赤い。
「何の意地を張ってるんだ」
「はってない……」
細い糸のような声音でまだ言うが、それでも動くつもりはないらしい。思いがけず、我の強い面を見せられてしまい、静かに思案する。
弟が駄々を捏ねて動かなくなったとき、どうしていたか。
「明日の朝は走るのか?」
話題がガラリと変わり、はっとしてまだ赤みのある頬のままミシェルは顔を上げた。
「走ろうかな」
「じゃあ、しっかり夕飯を食わないとな」
「えっ」
「食べることも鍛錬だとよく祖父に言われた。動く前には、よく食べて力を蓄えておかないと、怪我をしたり倒れたりする」
「だ、大丈夫だ。キャンディでも十分、僕は力が出せる」
「ミシェル」
ハンガーにかけられたミシェルのジャケットを広げる。
「夕飯を食べない友達を、走りには連れていけないな」
ぎゅっと眉根を寄せ、上目遣いに見上げるミシェルにヒラヒラと裾を揺らしてみせる。
友達、とミシェルは口の中でつぶやいた。
のろのろと立ち上がる。さながら執事のようにジャケットを着せ、二人は部屋を出た。
ミシェルの足取りは重い。揺らぐような瞳に、無理に連れ出したのはよくなかったかと思う。
「ミシェル、」
「本当は、お腹減ってたんだ」
遮るように言って、足を早める。食堂はもうすぐそこだった。
入れば、相変わらず多くの視線を集める。近頃は机の中頃でも構わなくなって、とにかく二人、横に並んで座れる席を見つけて腰を下ろした。
ざわめきは多い。せめて時間を少しずらせばよかったと思いながらフォークを動かす。ミシェルはいつものように表情を無くし、だが、意識して食事に集中しているように見えた。
「なんだ、結局午後も楽しんだんじゃないか」
不意に投げかけられた第三者の言葉に、ルーカスはぴくりと眉を動かしたが、平然と食事を続けるミシェルを見て、同じく食事を続けることにした。また、パンだけを掴んで引き上げるようなことになるのだろうか。かつてのミシェルの食事作法を思い、ルーカスはフォークとナイフで肉を割いた。
「朝から晩までお盛んなことで。そんなにこいつのヴルストはうまいか?」
「おい、ブリックナー、下品だぞ」
「下品?」
メインディッシュに供された肉の煮込みはまだ半分以上残っていた。ミシェルの手が止まり、カトラリーが手放される。部屋に引き上げるのか。彼が言い出さなくとも、ルーカスは連れ出すつもりで、積まれたローブパンを二つ取った。
「下品なのはあっちだろ。同室をいいことに朝から晩まで淫蕩に耽って、なのに平然と食事に出てくるなんていかがわしいことこの上ない。ああ、そうか」
憤怒を持て余す。口を開けば、動けば何を言い出すかわからなかったからだ。
「エーヴァルトのほうがアルノーを籠絡して、貴族になりたがってるのか。こいつの母親みたいに、っ」
伸ばした手が空を切っていた。ブリックナーの胸ぐらを掴んだ手、振りかぶられた拳と共に翻る金糸が細かな光を蹴り上げる。
悲鳴は殴られた人間より多かった。殴られるまま倒れ込んだ先、ただ食事をしていた無関係の生徒を巻き込んでブリックナーは崩れ落ち、それに飛びかかろうとするミシェルをルーカスはどうにか捕らえ、羽交い締めにした。
「離せっ!」
「ミシェル、だめだ!」
正確に拳は顔面をとらえたようで、ブリックナーは鼻血を手で押さえながらうずくまっている。巻き込まれた生徒は皆、突然背後から押し込まれて皿をひっくり返し、それぞれに服を汚していた。
「くそ、お前、許さないぞブリックナー! 地獄に落ちろ!」
鼻を押さえながら、上目遣いに見上げたブリックナーは、激昂するミシェルではなく、確かにルーカスを見ていた。鼻を押さえた手で口は隠れている。だが、そのまなじりが、勝ち誇ったように歪んだのを少なくともルーカスは見逃さなかった。悍ましい。反射的に抱いた悪寒で僅かに力が緩む。その隙をミシェルは見逃さなかった。しゃにむに拘束から抜け出そうと、ルーカスを両手で押し除ける。
いつか見たような、嫌悪をいっぱいに満たした目が、ルーカスを睨みつける。
「離せ! 僕に触るな!」
どん、と胸を突かれた。訓練より大したことのない衝撃に、しかし、彼に触れる全てから力を抜いてしまったのは、少なくとも、前向きな理由からではなかった。
ぞろぞろと集まる生徒、野次馬。それを掻き分けてくる教師の、生徒たちが道を割ったその隙間をミシェルは風のように駆け抜けていった。
「アルノー! 止まりなさい!」
大音声も虚しく、足音は遠ざかる。
ルーカスはポケットからハンカチを取り出し、ブリックナーのそばにしゃがんだ。
「大丈夫か」
自らの血で塗れる手を見ながら、ルーカスはすでに脳裏では何度も彼をぶちのめしていた。表情に出ないのはもはや性分であったが、行動に出ないのは単に、社会的地位を慮った結果だった。
ブリックナーはどこか誇らしげな色を滲ませていた。
「君のお父上に詫び状を差し上げなければ」
きょとんとした男に、ルーカスは言い募る。
「君がアルノーと同室になってから、彼に対して起こした行動や、君がどれほどアルノーに執着し、それゆえに求めたことを」
詳らかにした上で、謝罪を。
ルーカスが謝罪する道理などはない。そう反駁すればそうなのだが、ブリックナー当主が同性間の恋愛について厳しい態度をとることは上流階級では誰もが知る事実だった。低めたルーカスの声に、ブリックナーは明らかに目の色を変えた。
「謝罪などいらないっ」
「だが、これほどに大事になっては、どう申し開きをする?」
「……お、オレが」
「うん?」
「オレが、アルノーを謗った、から、謝罪は必要ない」
「それは事実ですね、ブリックナー」
ミシェルを追うことは諦めたようで、教師は血塗れのままのブリックナーを見下ろして鋭く言った。ブリックナーも、不承不承にうなずく。
「当人の間に遺恨はないとしても、学内の風紀を乱したことには変わりありません。ブリックナー、保健室で処置を受けたら職員棟へ来なさい。アルノーもです。エーヴァルト、探して連れてきなさい」
「はい」
ハンカチを押し付け、ルーカスは食堂を出ていく。言わずとも、出口付近にいた生徒がミシェルの走っていった方向を教えてくれ、礼を述べた後、そちらへルーカスは走り出した。
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