10
朝、ミシェルと走りに出ると彼に合わせて自然、距離は短くなる。幼少期から鍛えている持久力に、週に一度か二度走るだけの人間が適うはずもなく、だが、息を弾ませるミシェルに付き合ってゆっくりと水を飲む時間は、生まれたときに運命付けられた役目のために動くよりもかけがえのない時間だった。
「ルーカスは今日、何するの」
汲み上げた水にタオルを浸し、汗の流れる首筋を拭う。折り上げた袖から出る腕も拭いて、ミシェルはようやく人心地ついたように息を吐いた。
寮の裏手、井戸端。春を迎えた朝は冬とは違い、既に淡い青空を見せていた。力強く顔を拭う、タオルの影から空によく似た色の瞳がルーカスを上目遣いに窺う。休日は、朝食の後、鍛錬場で剣を振るったり、走り込んだりしていれば日が傾きだす。早めにシャワーを浴び、そこからは授業の課題や復習に充てるのが休日のルーティーンだった。
いつも通り鍛錬、と言えば、ミシェルはその、何らかの期待に染めて輝かせる瞳を曇らせてしまうだろうか。考えた末に、ルーカスは問いに問いで返した。
「ミシェルの予定は?」
「図書室、行こうと思って。……ルーカスも、行かないか?」
「じゃあ行く」
タオルの下から現れた唇は緩んで、わずかに白い歯を覗かせていた。瑞々しい喜びがそこにあった。
「誘っといて、だけど。鍛錬はいいの」
「自主的にやってるだけだからな。誰も困らない」
「そう、なんだ。てっきり、騎士志望はずっと授業があるんだと思ってた」
「ここは訓練所じゃないからな」
わずかに首を傾げ、ゆっくりと瞬きする様はいかにも貴族らしかった。騎士団の構成に疎いところも、貴族の長男であればありがちだろう。
貴族学校から輩出されるのは騎士の中でも指揮を務める階級からで、身分を問わない一兵卒とは違う。騎士志望の平民は訓練所で休みなく行われる訓練に合格すれば、騎士としての身分を得られた。
身分を理由に蔑むような内輪にはおらず、だが、その身分がどういう成り立ちをするのか知らないほどには無関心で、いかにも田舎の、安穏とした貴族の一員だった。本来、社交界でも目立たず、重要な政治決定にも関わることのないまま、牧羊や農業の指揮をとって一生を終えるはずの家柄なのだろう。
「着替えるだろ。戻ろう」
「うん」
朝食を摂り、ルーカスはいつもなら日が落ちてから手をつける課題を持って図書室に向かった。休日はやはり、課題をこなそうとする生徒が多く、目につく椅子に空きはない。以前、ミシェルと座った席ももちろん埋まっており、しかし、彼は困った様子もなく、本棚の奥へと足を進めていった。
聳え立つ本棚は、年代によって導入された大きさや材質が違うのだろう。ある区画を超えると幅や背の高さが異なり、奥へ進むほどに古びた紙の匂いが濃くなっていく。一面本棚のように見えた壁が、ちょうど、本棚の隙間に収まるような位置で奥の本棚があることに気づいたとき、思わずルーカスは背後を振り返った。悪戯っぽくミシェルが笑う。
「迷路みたいだろ」
潜めた声に同意して、ミシェルの背を追う。
間もなく、分厚いカーテンが不自然に膨らむ一角に辿り着く。その足元を注意深く見やって、ミシェルはそのカーテンを開くとルーカスを誘った。なんてことはない、丸テーブルに椅子が向かい合って二脚あるだけのそこを、本が日焼けしないようたっぷりと布を使ったカーテンで覆った小さな空間だった。
窓から注がれる柔らかな陽気をいっぱいに満たして、少し困ったように眉尻を下げ、ミシェルは言った。
「椅子に足上げとくと、誰かいるのも分かりにくいだろ」
慣れた手つきで外へ迫り出した窓に筆記具を並べる。倣って、インク壺にペンを立てる。互いにテーブルへノートを広げようとして、問題が生じた。向かい合ってノートを二人分広げられるほど、テーブルの幅がないのだ。
「ルーカス使いなよ」
「ミシェルはどうするんだ」
「資料読んどく」
椅子の上に踵を引き上げ、膝に本を広げる。小さく縮こまり、白い紙に反射する光を眩しげに目を細めながら受ける姿は、どこかあどけなさを纏っていた。
「前から、ここにいるのか」
「前って?」
「入学した頃から?」
「ああ、うん。そう、一年から」
春の日に透ける、淡い色の髪に、集団の中の一人としてしか見ていなかったいつかの彼を重ねる。靴を陰に隠し、まだ丸いだろう頬を立てた膝につけて、窓の外を見やる。想像は存外に上手くいって、本を広げる実在の彼と並べて楽しんでいたら、伏せられていた視線がひょいと上がって、ルーカスを照らして小首を傾げた。
「ルーカス?」
名前を呼ばれ、慌てて、真っ白なままのノートを誤魔化すように教科書をめくった。
分厚い布に阻まれて、足音はまどろむように聞こえる。その点、ミシェルがページを捲り、ルーカスがインクを書き付ける音は着実に時を刻んで進んでいた。
ぱたん、と本を閉じる。
「腹減らない?」
はっとして外を見れば、日はすでに天頂近く、目を白黒させるのをミシェルは面白そうに笑って、懐中時計を見せた。
「昼だよ。ご飯食べよう」
「すまない。キリのいいところで代わろうと思ってたのに」
「そんなこと」
かこ、かこと足元で靴底が軽く床を叩く。荷物をまとめ、立ち上がったミシェルはカーテンに手を掛けると、ふと動きを止め、口元に手をやった。
「そんなこと、ふふ」
唇からこぼれる吐息が綿毛のように飛んでいくのが見えた。
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