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君の輪郭が溶けるまで、僕は善意で塗りつぶす  作者: 都桜ゆう


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第5章:空洞の預言者(千佳視点)

 教室の窓際、瑞希の席。そこは、私にとって最近、もっとも近寄りがたい聖域になってしまった。


 瑞希は、まるで何か巨大な天災に飲み込まれるのを待っている小動物のように、いつも青ざめている。彼女が私に助けを求めるような目で視線を送ってくるたびに、私の胸はナイフで抉られるように痛む。でも、同時に言いようのない、ゾッとするような違和感が背筋を駆け上がるのだ。


「瑞希、佐藤くんのこと、本当にそんなに嫌なの?」


 口から出た言葉に、自分でも驚いた。喉が凍りつくような、拒絶の冷たさがあった。

 瑞希は絶句し、私を信じられないものを見るような目で見た。その瞳に映る私が、どんどん彼の側へ傾いていくのを感じる。


 違う。私は裏切ったんじゃない。ただ、彼と話すたびに、自分の頭の中に別人の思考が勝手に滑り込んでくるような感覚に、抗えなくなっているだけなのだ。


 佐藤春斗。

 彼と話すと、誰でも妙な安らぎを覚える。彼は常に冷静で、優しく、そしてこちらの悩みや感情を、先回りして完璧に理解して提示してくれる。


 例えば、彼が先日私にかけた言葉。


『千佳さん、瑞希の今の状態、すごく辛いよね。親友として、彼女のことが誰よりも心配なんだろう? 僕も同じだよ。二人で、彼女を救おうよ』


 その時、私は彼を心から頼りになる人だと本気で信じた。瑞希を追い詰めるストーカーだなんて、到底思えなかった。彼の言葉には、悪意どころか、純粋な瑞希を救いたいという光しか見えなかったからだ。


 彼の言葉には、反論の余地がない。彼の描く瑞希を救うための物語は、あまりに完璧で、あまりに説得力に満ちている。だからこそ、その物語の中に、瑞希の悲鳴というノイズが入り込む余地は存在しないのだ。


 けれど、昨日の放課後の出来事が、私の中の何かが決定的に壊れるきっかけになった。

 私は彼を見かけた。放課後の誰もいない図書室の隅で、何かを熱心に調べていたのだ。


 彼が席を立った後、そこにはメモ帳が残されていた。開いたままのページ。そこには、瑞希の行動時間、好みの変化、そして「彼女がどうすれば僕を喜ばせるか」という分析が、淡々と箇条書きにされていた。


 その端には、瑞希の髪の毛が、セロハンテープで丁寧に貼り付けられていた。

 私は、その光景を見た瞬間、足の先から全身の感覚が失われていくような悪寒に襲われた。

 これは分析じゃない。所有の記録だ。


 彼は悪人ではない。悪いことをしようという自覚が、欠片も存在しないからこそ、彼はもっと救いようがないのだ。

 彼は、瑞希の嫌だという叫びを、一度も拒絶として処理していない。彼にとって、他者の意思というものは、雲のように実体のない、取るに足らない現象なのだ。


 彼が瑞希を見つめる時、そこに瑞希という別の人間は存在しない。彼の中に住まう瑞希という完璧な偶像が、彼自身の意のままに動くかどうかをチェックしているだけなのだ。


 私は過去の彼のことを思い出した。

 中学時代、彼には片思いの相手がいた。その時も彼は、相手が何も言っていないのに彼女は僕と付き合いたがっていると周囲に断言し、相手がそれを困惑して否定すると、照れているんだと、まるでそれが普遍的な事実であるかのように周囲に言いふらして満足していた。


 結局、相手の女の子が耐えかねて転校してしまい、その恋は終わった。

 その時、彼は泣きも怒りもしなかった。ただ、「彼女は僕の元を離れる運命だったんだ」と、まるで読み終えた物語の栞を挟むように、淡々と納得しただけだった。


 彼にとって、現実は他者の意思によって形作られるものではない。自分の頭の中にある必然によって構成されているのだ。


 彼には、他者の意思という概念そのものが、最初から欠落している。

 他人とは、彼にとって自分を正当化するための鏡か、自分の世界を彩るための便利な道具でしかない。だからこそ、瑞希がどれだけ悲鳴を上げ、助けを求めても、彼の中では彼女が僕を求めて鳴いているという、ポジティブな変換が強制的に実行される。


 そこに、善も悪もない。ただ、自己完結した巨大で空虚な、幸福のループがあるだけだ。

 彼が優しいのは、彼が他者の意思を無視するという残酷な行為を、自分の中では至高の献身として定義しているからだ。だから彼は、どんな非道な行いも、迷いなく善意で行うことができる。それが、彼を止められない理由なのだ。


 瑞希は、もう終わりだ。


 私たちが何を言っても、彼には届かない。彼にとって、私たちの否定や拒絶の言葉は、ただ自分を盛り上げるための物語の演出に過ぎないのだから。

 私は彼に支配されている。いや、彼という物語の構造そのものに、飲み込まれている。


 今日、瑞希と廊下ですれ違った時、彼女は私に何かを言おうとしていた。

 必死に、今の状況を誰かに伝えようとする、その唇の動きを見て、私は咄嗟に視線を逸らした。


 怖い。


 彼女の目を見てしまったら、私もまた、彼という狂った物語の中に強制的に書き込まれ、二度と戻れなくなる気がしたからだ。


 私は千佳として、瑞希を助けたい。でも、彼に近づけば近づくほど、彼が放つ善意という名の麻酔に、私の判断力も、倫理観も、どんどん麻痺していく。


 彼を見つけた。


 瑞希の教室の入り口で、彼は幸せそうに微笑みながら、彼女の帰りを待っている。

 その瞳には、一欠片の悪意もない。ただ、自分の世界の主役を愛でる、神のような慈愛が満ちている。


 瑞希、逃げて。どこか遠くへ。


 私の言葉は、風になって教室に吸い込まれていく。

 彼が瑞希を見つけた瞬間の、あの陶酔しきった顔を見たら、もう誰も、この男を止めることはできない。


 この世界は、彼のものだ。


 瑞希が最後に残した、助けてという声すらも、きっと彼は僕にだけ聞こえる甘い愛の告白として、宝物のように心に刻むのだろう。


 そう確信した時、私は自分の喉元に、見えない縄が巻かれたような強烈な閉塞感を覚えた。

 私もまた、この狂った物語の、舞台の端で震えるだけの役者の一人に過ぎないのだ。


 春斗という怪物の正体は、誰かをもてあそぶ悪魔なんかじゃない。

 ただ、相手の魂の輪郭が見えていない、空っぽの神様なのだ。

 そして、その神様の隣で、瑞希という女の子が、ゆっくりと、音もなく、その輪郭を溶かされ、消滅しようとしている。


 私は、自分の足でこの廊下を歩いているのかさえ、わからなくなった。

 ただ、彼の視線が、私の背中をなぞっていることだけは、ひどく鮮明に感じていた。


 ああ、そうだ。


 もう、戻れない。


 私たちは皆、彼の夢の中で踊らされている。

 瑞希、ごめんね。私はもう、あなたを見捨ててしまう。


 彼の差し出した優しい手の中に、私もまた、ゆっくりと身を投げようとしている。それが破滅への道だとわかっていても、彼の笑顔の裏側にある虚無の甘さに、抗うことができないのだ。


 さようなら、瑞希。


 あなたの悲鳴は、彼という世界の中では、美しく調律された調べへと変えられていく。

 もう、誰にもそれを止めることはできない。


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