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君の輪郭が溶けるまで、僕は善意で塗りつぶす  作者: 都桜ゆう


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最終章:硝子の檻の向こう側(瑞樹視点)

 夜の帳が、部屋の隅々まで染み渡っている。

 私はベッドの上に座り、窓の外を見つめていた。街灯が一つ、闇の中で鈍いオレンジ色の光を放っている。その光の揺らぎが、まるで彼の視線そのもののように思えて、私は呼吸をするのさえ躊躇われた。


 逃げなければならない。


 このままでは、私は私という輪郭を永遠に失い、彼が望む瑞希という偶像として、彼の脳内という檻の中で飼い殺されることになる。彼は私の肉体も、時間も、思考さえも、自分のコレクションの一部として再定義しようとしているのだ。


 明日、学校へ行けば、すべてが終わる。

 私はクローゼットの奥から最低限の荷物を詰め込んだ鞄を掴んだ。深夜の闇に紛れて、この街から消える。千佳とも、学校とも、そして何より、彼という名の猛毒からも、二度と会わない場所へ。


 部屋を出ようとして、玄関のドアノブに手をかけた――その時だった。

 静寂を切り裂くように、軽やかなノックの音が響いた。


 トントン、と。


 まるで、親しい友人が訪問してきたかのような、あまりにも無邪気で、穏やかなリズム。

 心臓が凍りつく。こんな深夜に、誰が?

 恐る恐る、ドアの覗き穴を覗き込んだ。


 そこに立っていたのは、街灯の光を背負った、春斗くんだった。

 彼は、まるで近所に住む友人を訪ねるかのような、普段着の穏やかな姿で立っていた。その表情には、迷いも、怒りも、焦りもない。ただ、愛しい恋人に会えた時のような、とろけるほどに甘く、慈しみに満ちた微笑みだけが浮かんでいた。


 私はドアを開けるまいと、その場に固まった。けれど、彼はドア越しに、優しく、慈悲深く話しかけてきた。


「瑞希。開けてくれるかい? 君が今、この家を出ようとしているの、わかっているんだ」


 その声は、驚くほど冷静で、かつ確信に満ちていた。


「……っ!」


「怯えないで。君が僕から逃げたいと願うその心も、全部受け止めるよ。僕は、君のすべてを愛しているからね。君がどんなに遠くへ行こうとしても、君の魂は常に僕を求めている。僕は、その願いを叶えに来ただけなんだ」


 私は震える手で鍵をかけ直した。けれど、彼は知っているのだ。私がどこへ行こうとしているのか、何をしようとしているのか、そして、何よりも「なぜ逃げようとしているのか」を、彼なりの歪んだ論理で解釈し終えているのだ。

 耐えきれなくなり、私はドアの向こうに向かって叫んだ。


「もうやめて……! あなた、私を見てないでしょ! 私、あなたのことなんか何とも思ってない! むしろ、怖いの! 何をするかわからないあなたが、本当に怖いのよ!」


 静寂。


 ドアの向こうで、彼は少しだけ沈黙した。

 その沈黙に、私は一瞬、期待した。彼が私の拒絶を、人間として、初めて理解してくれたのではないかと。彼が、自分の中に作り上げた彼の瑞希ではなく、目の前にいる本当の私の痛みを認めてくれたのではないかと。

 けれど、その期待は、次の瞬間に残酷なまでに打ち砕かれた。


「……うん。わかっているよ」


 彼の声は、これまで以上に甘く、柔らかかった。


「言葉にするのは、恥ずかしいよね。瑞希は本当に奥ゆかしいから。本当は僕と一緒にいたいのに、周りの目や、自分の気持ちに素直になれない不器用なところが、僕はたまらなく愛おしいんだ。君が必死に僕を拒絶しようとするその姿さえ、僕への愛の裏返しだと理解しているよ」


「違う! 違うよ! 私は、あなたを愛してなんかない!」


「大丈夫。無理に言葉にしなくていいよ。君の瞳が、君の震える指先が、君のその小さな鼓動が、全部、僕への愛を語っているんだから。君は僕を試しているんだよね。僕がどこまで君を追いかけ、どれだけ君を深く愛せるかを。そのテストに合格するために、僕は今ここにいるんだ」


 私はドアを背にして、床に崩れ落ちた。

 彼には、何一つ届いていない。


 私の絶叫も、私の恐怖も、私の拒絶も。すべては彼の望む瑞希というシナリオの、ただの演出として編集されている。彼は、私という人間を見ていない。自分の中にある、都合の良い瑞希の像を、現実の私に投影しているだけなのだ。


 私は彼にとって、生身の人間ではない。

 彼が愛し、彼が傷つき、彼が救済する、彼の瑞希という名の、ただの操り人形。私という個体は、彼の世界観を維持するための装置に過ぎないのだ。


「……瑞希。君は、今夜、ここを出てどこへ行こうとしていたの?」


 彼はまるで、駄々をこねる子供を諭すような声で続けた。


「どこへ行っても、君は僕を求めることになる。君がどれほど遠くへ逃げても、君の心の底にある僕と二人きりになりたいという願望は、決して消えない。だからね、僕が背中を押してあげる必要があるんだ。……開けて。一緒に、幸せな場所へ行こう」


 ガチャリ、と。


 ドアノブが静かに回った。

 私は鍵をかけていたはずだった。けれど、彼は最初から鍵など気にしていなかったのかもしれない。彼にとって、このドアは、僕と瑞希を分かつ壁などではなく、開かれるべき愛の境界線に過ぎなかったのだから。


 ゆっくりと、ドアが開いていく。


 闇の中から現れた彼は、暗闇さえも光に変えるかのように、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。

 その笑顔。

 私が今まで見た中で、もっとも美しく、そしてもっとも残酷な、純粋な善意に満ちた笑顔。


「大丈夫だよ、瑞希。僕がいれば、もう何も怖くない。君の気持ちは、全部わかっているから。君が僕を求めている以上、僕は君を絶対に離さない」


 彼はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で跪いた。

 その視線は、僕の足元で怯える子犬を見るような、慈しみに溢れたものだった。


 彼は私の手を握りしめた。彼の体温が、私の皮膚を伝って、神経を侵食していく。その熱さは、愛というよりも、もっと執拗で、逃げ場のない湿り気を帯びたものだった。


 私は逃げようとした。けれど、身体が鉛のように重く、動かない。

 彼の手は、まるで決して外れることのない鎖のように私を捕らえて離さない。


 私は見た。

 彼の瞳の奥に広がる、空っぽの虚無を。


 そこに映っているのは、私ではない。彼が一生かけて愛し続ける、自分だけの瑞希。現実の私がどれほど傷つき、どれほど泣き叫ぼうとも、彼の瞳の中の瑞希は、いつも微笑み、彼だけを見つめている。


 ああ、この人は、本当に私を見ていないのだ。


 私の魂は、最初からこの人の世界には存在していなかった。

 私は、彼の手の中で、ただ消費されていくだけの、記号に過ぎない。

 彼は優しく私の頬を撫でた。その指先には、瑞希という女の子に対する、混じりっけなしの、けれどおぞましいほどの執着が宿っていた。


「……瑞希。泣かないで。君が泣くと、僕も悲しくなる。……そうだ、明日は日曜日だね。どこか、誰も知らない場所へ行こう。二人だけで、誰にも邪魔されずに、僕たちの愛を育てよう」


「やめて……。殺してよ……」


 私は、絞り出すような声で呟いた。

 けれど、彼はその言葉さえも、愛の証として昇華してしまった。


「……殺す? そんなことを願うほど、僕を求めてくれているんだね。君のその究極の独占欲、僕はすべて受け入れるよ。……君が死ぬまで、というか、死んでもずっと、僕はずっと一緒だよ。君の魂は、僕のものだから」


 彼は立ち上がり、私の腰を強引に抱き寄せた。

 その腕の中は、逃げ場のない、完璧な檻だった。


 私は抵抗することをやめた。

 抵抗すればするほど、彼はそれを愛のゲームとして楽しみ、より強く私を縛り付ける。私のあらゆる反応が、彼の満足感を高める燃料になってしまうのだ。


 私の世界は、ここで終わるのだ。


 私の意志は、今この瞬間、彼という闇の中に完全に溶け去った。

 千佳は、もう私を助けに来ない。

 先生も、親も、誰一人として私の内側にある地獄には気づかない。


 彼らが目にするのは、礼儀正しい佐藤くんと、それに寄り添う控えめで大人しい瑞希の姿だけだ。その表面的な調和こそが、私にとっての最大の絶望だった。彼は、私の人生を外側から完璧に構築し、その中で私が踊るように仕向けているのだ。


 彼は、私の耳元に唇を寄せ、まるで愛の詩を詠むかのような、甘美で、吐き気を催すほど優しい声で呟いた。


「瑞希は、僕と一緒にいたいんだよね」


 その言葉が、私の脳内に、思考を侵食する泥のように流れ込んでくる。

 私は、確信した。

 私は、永遠に、彼の夢の中から抜け出せないのだと。


 私の嫌だという言葉も、私の死にたいという願いも、すべては彼にとって、僕と深く結ばれていることの証明に過ぎないのだ。


 世界が、真っ白に染まっていく。


 窓の外の街灯の光が、遠い彼方へと消えていく。


 私の輪郭が、彼の指先からボロボロと崩れ落ち、彼の作り上げた彼の瑞希という彫像へと、その中身を入れ替えられていくような感覚。


 私は、もう、自分を思い出せない。


 私は、ただ、彼に抱かれ、彼に愛され、彼に定義されるだけの存在になった。


 彼の胸の中で、私は力なく目をつぶった。


 最後の意識が途切れるその時、私は確信した。

 明日になれば、私はまた、彼が望む瑞希として笑うだろう。

 昨日よりも少しだけ上手く、昨日よりも少しだけ深く。

 彼という完璧な愛の結晶の中で、私は壊れていく。


 それが、彼と私の、幸福な終わりの始まりだった。


 瑞希は、僕と一緒にいたいんだよね。


 その言葉が、耳元で呪文のように、永遠に鳴り響き続けていた。

 私は、答えることさえできない。

 ただ、彼の手の中に収まり、自分の意識が、春斗という名の広大な空洞へ吸い込まれていくのを、ぼんやりと感じていた。


 これが、愛なのだろうか。

 もしそうなら、私は二度と目覚めたくない。

 彼が作り上げた瑞希として、一生を終えたい。


 そう願っている私自身の心さえも、きっと彼に操られているのだろう。

 私は、暗闇の中で、彼と同じ温度の微笑みを、練習するように浮かべた。


 もう、何も怖くない。

 私が消えてしまえば、すべては調和するのだから。


 そう、これでいい。

 瑞希は、彼と一緒にいる。


 永遠に、どこまでも深く、誰にも引き裂けないほどに。


 夜が終わり、朝が来る。

 けれど、私の世界には、もう二度と朝日が昇ることはないだろう。


 彼という名前の、優しくて冷たい夜が、永遠に続くだけなのだから。


 さようなら、かつての私。

 あなたは、もう必要ない。


 彼が愛するのは、私じゃない。彼自身が育て上げた、彼の瑞希だけなのだから。


 ……ああ、でも、最後にもう一度だけ。

 私は心の中でつぶやいた。


「お願い、私を、見て……」


 その願いは、彼が私の唇に優しい口づけを落とした瞬間、音もなく消え去った。

 彼の腕の中で、瑞希という名の少女は、完全に沈黙した。


 「明日の教室で、僕はまた、君に会えるね。

 君が僕を待っているのが、今、手に取るようにわかるよ」


 そう呟く彼の声を聞きながら、私は、ただ幸福な人形として、彼に身を委ね続けた。


 そう、私たちは、ずっと一緒だ。

 誰にも邪魔されない、完璧な愛の世界で。

 これが、終わり。

 これが、はじまり。


 瑞希という存在が、彼という宇宙に飲み込まれた、完璧な夜だった。



(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).


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