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君の輪郭が溶けるまで、僕は善意で塗りつぶす  作者: 都桜ゆう


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第4章:私の世界が、私のものじゃない(瑞樹視点)

 朝、教室の空気を吸い込んだ瞬間、肺がちりちりと焼けるような感覚がした。

 もう、ここは私の知っている場所ではない。

 机の配置も、黒板のチョークの跡も、窓の外に見える校庭の景色も、すべては以前と変わらないはずなのに、目に見えない薄膜のような何かが、この空間すべてを覆い尽くしている。


 佐藤春斗。

 彼の意志という名の膜だ。


 私は、自分の席に座るのが怖かった。

 昨日、千佳が教えてくれた「彼が私の椅子の背もたれを触っていた」という光景が、網膜に焼き付いて離れない。


 私が座っていない時間に、彼は私の不在を慈しむように、私の輪郭をなぞっていたのだ。そう思うだけで、座面から針が突き出しているかのような不快感が背筋を駆け抜ける。

 私は逃げるように、千佳の席へと歩み寄った。彼女の存在だけが、この狂った世界で唯一、私を現実へと繋ぎ止めてくれる。


「千佳、おはよ……」


 声をかけた私の喉は、砂を噛んだように掠れていた。一晩中、彼の微笑みと、逃げても逃げても追いつかれる悪夢にうなされ、眠りという安らぎさえ奪われていたからだ。

 けれど、振り返った千佳の顔を見て、私は息を呑んだ。


「あ、瑞希。おはよう。……どうしたの、すごい顔色だよ?」


 千佳の言葉はいつも通り優しかった。けれど、その瞳の奥に、昨日まであった私への純粋な共感とは違う、どこか戸惑うような、あるいは私を遠くから観察するような、奇妙な色が混じっているのを感じてしまった。


「……千佳こそ、何かあった? なんだか、いつもと雰囲気が……」


「え、そうかな? あ、そういえばさ、瑞希」


 千佳は少し言い淀み、それから私の耳元で囁くように続けた。


「昨日、佐藤くんと少しだけ話したの」


 心臓がどくん、と大きく波打った。


「……いつ? 何を話したの?」


「放課後、瑞希が先に帰っちゃった後だよ。廊下でばったり会ってね。……彼、瑞希のこと、本気で心配してた。瑞希は最近情緒不安定で、自分の気持ちがわからなくなってるみたいだから、親友の僕たちが支えてあげなきゃいけないって。……すごく真切な顔で言ってたよ」


「情緒不安定……? 私が? 違うよ千佳、私は彼が怖くて――」


 言いかけた言葉は、無慈悲に鳴り響いた予鈴のチャイムにかき消された。


「わかってる、わかってるよ。でも、授業始まるから。また後でね」


 千佳は突き放すような冷たさではなく、むしろ可哀想なものを見るような、粘りつくような慈しみの目を私に向けてから、自分の席へと戻っていった。


 午前中の四時間は、拷問以外の何物でもなかった。


 斜め後ろ、彼の席から放たれる視線が、私の項を、背中を、皮膚の一枚下側までじりじりと焼き焦がしていく。私が教科書をめくれば、わずかな時間差を置いて、後ろでも紙の擦れる音がする。私が姿勢を正せば、彼もまた座り直す。

 私の挙動すべてが、彼の呼吸と同期させられていく。

 逃げ場のない檻。私はただ、石のように固まって、昼休みを告げる鐘の音を待つしかなかった。


 ようやく訪れた昼休み。私は逃げるように教室を飛び出した。

 けれど、学食へ向かう階段の途中で、私はまた彼に追いつかれた。いいえ、彼は追いついたのではない。最初から私の目的地を見越し、そこに先回りしていたのだ。


 学食の入り口、献立の掲示板の前に、千佳と彼が並んで立っていた。


「瑞希、こっち! 見てよ、今日のお昼のメニュー」


 千佳に促されるようにして掲示板を見た瞬間、私はその場に膝をつきそうになった。

 献立から、私の大嫌いな青魚のメニューがすべて消えていた。代わりに並んでいるのは、私が以前「これが一番好き」と千佳にだけ話した、鶏肉の照り焼きだった。


 偶然? いいえ、そんなはずがない。

 千佳は、彼に教えたのだ。あるいは、彼が千佳から聞き出したのだ。


「彼、先生に掛け合ってくれたんだって。瑞希のために。……それって、普通にすごいことじゃない? そこまであんたのこと見てくれてる人、他にいないよ」


 めまいがした。

 彼は、私の嫌いを消した。

 けれどそれは優しさではない。私の世界から、私自身の意志を奪う行為だ。


 私が嫌いなものを私が避ける。その当たり前の権利さえ、彼は自分の手柄として奪い去り、私を彼の用意した理想郷の中に閉じ込めてしまった。

 動悸が激しくなり、私はその場から立ち去ろうと踵を返した。


 けれど、その動きは私の意思よりも早く、何かに阻まれるようにして止まった。

 背後に、確かな気配がある。

 掲示板を見つめていたほんの数秒の間、あるいは、トレイを受け取ろうと並び始めたこの数分間のどこかで、彼はすでに私の背後の死角に立っていたのだ。


 私はゆっくりと、まるで錆びついた人形のように首を巡らせた。

 そこには、学食の騒がしい喧騒とは別の、どこか真空のような静寂を纏った彼が立っていた。あの、すべてを慈しむような、全知全能の神のような微笑みを浮かべて。


「瑞希、今日のメニュー、すごく美味しそうだね」


 彼が口を開くと、周囲の空気さえもが彼の色に染まっていくような錯覚を覚える。彼がそこに立っているだけで、学食の雑音は意味をなさず、ただ私と彼だけの世界がそこに孤立して立ち上がる。


 後ろからかけられたその声に、私は振り返ることもできず、ただ震える手でトレイを握りしめた。関節が白く浮き出るほどに力を込めても、トレイの冷たさが私の指先を麻痺させるだけで、この圧倒的な彼という存在の熱からは逃れられなかった。


「……春斗くん、あの。……まさか、あなたが先生に?」


 問いかけた声は、自分でも情けないほど細く、震えていた。

 彼は満足そうに目を細め、一歩だけ私との距離を詰めた。物理的な距離はあと数センチしかない。彼の体温が、私の背中に張り付くようにして、逃げ場を奪っていく。


「君の望むことは、全部わかっているよ、瑞希。君が言葉にできない不満も、隠している願望も、僕はすべて僕自身の痛みとして感じているんだから」


 彼の言葉は、私の鼓膜を通り越し、脳に直接注ぎ込まれる熱い毒のようだった。

 違う。私はそんなこと頼んでいない。私はただ、あなたに放っておいてほしいだけなのに。


 否定しようとした。けれど、私の唇は凍りついたように動かなかった。私の嫌だという意志を表明すればするほど、彼はそれを甘えや拒絶という名の試練として糧にし、さらに強固な愛情へと変換してしまうことを、私はもう本能的に理解していたからだ。


 私は逃げるようにその場から離れた。

 背後で、千佳が彼と親しげに何かを話している声が聞こえた。

 裏切りだ、とは言いたくない。

 けれど、千佳までもが、彼の正しさという名の毒に侵食され始めている。


 佐藤くんは悪人ではない、どころか、誰もが認める善い人として振る舞っている。だからこそ、私が彼は怖いと訴えても、それは私のわがままや過敏さとして処理されてしまうのだ。

 午後の授業中、私の背中は常に熱を帯びていた。


 彼がそこにいる。

 彼が私の後頭部を、項を、肩の線を、視線でなぞり続けている。

 私がページをめくれば、彼もめくる。

 私がシャープペンシルを置けば、彼も置く。

 その規則正しい音の重なりが、まるで私の心臓の鼓動を外側から支配されているかのような錯覚を呼び起こす。


 私は耐えられなくなって、何度も髪を触った。ペンを回した。消しゴムを無意味に動かした。

 けれど、私がどんなに無秩序に動こうとしても、彼は完璧に私と同調してくる。

 私という個体は、もはや私だけのものではない。彼の鏡として、彼の願望を投影するためのスクリーンとして、ここに座らされているだけなのだ。


 窓の外を見ても、自由なんてどこにもなかった。

 空の青ささえ、彼が私に見せるために用意した背景の一部であるかのように思えて、私はただ、机の上の木目を見つめ続けるしかなかった。


 放課後。

 私は千佳にも声をかけず、教室を飛び出した。

 今日こそは、彼を撒かなければならない。


 私はいつも通りの駅へのルートを捨て、住宅街の迷路のような裏道へと足を踏み入れた。

 ここなら誰も通らない。

 ここなら、彼の視線から逃げられる。


 心臓が喉まで競り上がり、呼吸が荒くなる。夕暮れの湿った空気が、肺に重くのしかかる。

 誰もいない。

 静かな住宅街。古い石垣。閉ざされた雨戸。

 私は必死に、足音を殺して歩いた。

 けれど、角を曲がった、その瞬間だった。


 古い街灯の下。

 そこに、彼はいた。

 まるでもう何時間も前から、私がここに来ることを知っていたかのような、静かな佇まいで。

 彼は本を閉じた。その小さな音が、私の世界の終焉を告げる鐘の音のように聞こえた。


「……っ、なんで。……なんで、ここにいるの。嘘よ、ストーカーみたいなこと、やめて……!」


 叫んだ。叫ばなければ、自分が消えてしまいそうだったから。

 けれど、彼は怒ることも、弁解することもしなかった。


「偶然だね、瑞希。僕も、今日はなんだかこの道を歩きたくなったんだ。……君の心と、僕の心が、同じリズムを刻んでいたんだね。嬉しいよ」


 彼はゆっくりと、私へと歩み寄ってくる。一歩、また一歩。その足音が、私の逃げ道を一つずつ潰していく。


「……違う、違う……! 私は、あなたに会いたくなくて、わざと遠回りをしたのに……どうして、わかっちゃうのよ……!」


「恥ずかしがらなくていいんだよ、瑞希。君の言葉はいつも、本心とは逆の方向に飛び出してしまうけれど、その軌跡を辿れば、必ず真実に辿り着けるんだ。君は僕に会いたくて、この静かな道を選んだ。僕という存在を、誰にも邪魔されずに独占したかったんだ。……そうだよね?」


 彼の指が、私の肩に触れようとする。

 私は悲鳴を上げてそれを振り払い、狂ったように走り出した。

 どこへ向かっているのかもわからなかった。ただ、彼という闇から逃げたかった。


 背後で、彼の穏やかな声が聞こえた気がした。

『待ってるよ、瑞希。君が、本当の自分に気づくまで』


 ようやく辿り着いた駅のトイレで、私は鏡を見て絶叫しそうになった。

 そこに映っているのは、誰?

 目は虚ろで、唇は震え、髪は乱れ果てている。


 これは瑞希じゃない。彼が作り上げた、恐怖に怯え、彼なしではいられないように調教されていく、無力な人形だ。

 私は何度も、顔を洗った。冷たい水で、彼の視線を洗い流そうとした。

 けれど、皮膚の奥にまで染み込んだあの愛という名の毒は、どうしても落ちなかった。

 フラフラと家に帰り、自分の部屋のドアに何重にも鍵をかけた。

 スマホを見ると、千佳からの通知が何件も入っていた。


『瑞希、大丈夫? 佐藤くん、すごく心配してたよ』


『さっき彼から聞いたけど、瑞希、最近家でも大変なんでしょ? 悩みがあるなら、彼にも相談してみたら?』


『佐藤くん、瑞希のこと守りたいって言ってたよ。あんなに一途な人、なかなかいないよ』


 スマホを床に投げ捨てた。

 千佳まで、彼に取り込まれてしまった。


 彼は、私の周囲の人間にまで、嘘の瑞希を吹き込んでいるのだ。悩みがある瑞希。情緒不安定な瑞希。支えが必要な瑞希。

 そして周囲の人々は、彼の誠実さという仮面に騙され、私の本当の悲鳴を聞こうとしなくなる。


「違う、私はあいつが怖いの!」


 部屋の中で独り言を叫んでみる。

 けれど、その声は虚しく壁に跳ね返るだけだ。


 明日の朝になれば、私はまたあの教室へ行き、彼の前で彼が望む瑞希として座っていなければならない。


 私が嫌だと言っても、彼は照れてると笑う。

 私が来ないでと言っても、彼は求めてると確信する。

 私の意志。私の感情。私の拒絶。

 それらは、佐藤くんという歪んだ鏡に反射され、すべてが彼への愛という形に書き換えられてしまう。


 私は、ベッドの上で膝を抱えて丸まった。

 窓の外で、風が鳴っている。

 その音が、彼の囁き声に聞こえて仕方がなかった。


『瑞希。君の願いは、僕がこの手で、一つ残らず、完璧な形で現実にしてあげる』


 ああ、そうだ。

 私の世界は、もう私のものではない。

 私の肉体も、私の心も、彼の広大な箱庭の一部として管理されているだけなのだ。

 逃げ場なんて、どこにもない。


 なぜなら、私が逃げようとするその場所さえ、彼は「僕に追いかけてほしいから選んだ場所」として、すでに定義してしまっているのだから。


 私は、震える手で、自分の首元をなぞった。

 そこには、目に見えない首輪がはめられているような気がした。

 重くて、冷たくて、けれど彼の手のひらのように、おぞましいほど温かい首輪が。


 私は、涙も出ないまま、暗い天井を見つめ続けた。

 明日が来るのが、死ぬほど怖かった。

 けれど、もっと怖いのは。

 いつか、私の心さえもが、彼の言う通りの瑞希に書き換えられてしまう日が来ることだった。


「助けて……」


 その小さな掠れた声は、自分自身の耳にさえ、届かなかった。



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