第3章:瑞希は、僕を必要としている(春斗視点)
真実の愛とは、相手を理解することから始まるのではない。相手を定義することから始まるのだ。
世の中の人々は、相手の言葉や態度を額面通りに受け取り、一喜一憂する。嫌だと言われれば傷つき、遠ざけられれば諦める。けれど、それは愛ではない。ただの甘えだ。
本当の愛とは、相手が自分でも気づいていない心の深淵に潜む真実の願望を、僕という唯一の理解者が代わって救い出してあげること。そして、その救済のためなら、世界そのものを書き換える労を惜しまないことだ。
僕にとって、瑞希を愛することは、呼吸をすることと同じくらい自然で、不可欠な営みだった。
昨日の放課後、彼女が僕から逃げるように駅へと急いだあの姿を思い返す。
普通の男なら嫌われたと絶望し、枕を濡らすのかもしれない。けれど、僕には見えていた。
彼女のあの必死な足取り、乱れた呼吸、時折後ろを振り返る怯えたような瞳。あれは拒絶などではない。自分の中に芽生えた僕への強烈な意識――あまりに巨大で、熱い情熱に、彼女自身の繊細な心が耐えきれなくなった末の逃避なのだ。
あんなにも激しく感情を動かしている。僕という存在を、全身の細胞一つ一つで受け止めようとしている。あれはもはや、恋という安っぽい言葉では足りない、魂の渇望に近い。彼女は自分でも制御できないほどの僕への愛に恐怖し、逃げ出すことで、ようやく正気を保とうとしたのだ。
なんて、愛らしいのだろう。その健気な抵抗を見ていると、僕の胸は締め付けられるような愛おしさで満たされる。
今朝、教室に入ってきた瑞希を見て、僕は確信を深めた。
彼女の顔は昨日よりもさらに青ざめ、白磁のような肌には、目の下にうっすらと隈ができている。
一晩中、僕のことを考えていたに違いない。眠れぬ夜を、僕という巨大な存在と暗闇の中で対峙しながら過ごした彼女の孤独を思うと、今すぐにでも抱きしめて、その疲れを癒してあげたくなった。
彼女は今、弱っている。そして、弱っている時こそ、人は真実の救済を、絶対的な守護者を必要とするものだ。
僕はまず、彼女を悩ませている雑音から彼女を解放してあげることにした。
昨日の昼休み、彼女が親友の千佳さんと話しているのを遠くから見ていた時、僕は気づいた。千佳さんという存在が、瑞希の成長と僕への覚醒を阻む毒になっていることに。
千佳さんは、瑞希に寄り添っているふりをして、実は彼女を現状に縛り付けている。瑞希が僕への想いに素直になろうとするたびに、千佳さんは否定的な言葉を投げかけ、彼女を迷わせ、僕を不審者として定義することで彼女の視野を狭めている。
瑞希が今日、千佳さんと目を合わせようとせず、どこか距離を置いているように見えるのは、彼女がようやく親友という名の呪縛の正体に気づき、自力でそこから逃れようとしている証拠だ。
瑞希は、僕を受け入れるための空白を自分の中に作ろうとしている。僕はその沈黙を、彼女からの、僕だけが読み解ける招待状として受け取った。
次に僕は、彼女の日常から、あらゆる不快を物理的に排除することにした。
数日前、瑞希が学食のメニュー表の前で、ほんの一瞬だけ眉を潜めていたのを、僕は見逃さなかった。
彼女がその日に選んだのは、いつものサラダランチだった。けれど、その日の日替わりメニューには彼女の苦手な鯖の味噌煮があった。瑞希はあの独特の生臭い匂いが、生理的に受け付けないほど苦手なのだ。
僕にはわかる。彼女がほんの一瞬、鼻先をかすかに動かし、不快そうに視線を逸らしたあの刹那の表情を、誰よりも近くで見守ってきた僕が、見逃すはずがないのだ。
彼女が食事という神聖な時間を、たかが鯖の匂いごときで台無しにされるなんて、僕にとっては万死に値する悲劇だ。
僕は昨日のうちに、食堂の責任者である栄養士の先生のもとを訪ねた。
「先生、少しご相談があるんです」
僕はいつものように、清潔感に溢れた、礼儀正しく思慮深い理想の生徒としての仮面を深く被った。この仮面は、僕が瑞希を守るための強力な盾であり、武器でもある。
「実は、僕のとても親しい友人が……重度の青魚アレルギーを持っているんです。最近、その子が学食を利用するのをひどく怖がっていて。メニューに青魚が含まれているだけで、調理器具の混用や、空気に漂う成分さえ不安みたいで。
……彼女、本当に繊細で、優しい子なんです。もし可能であれば、メニューの構成を少しだけ、彼女のために再考していただけないでしょうか。僕も、彼女が安心して、笑顔でお昼ご飯を食べている姿が見たいんです。それが僕の、たった一つの願いなんです」
栄養士の先生は、僕の自己犠牲的な友人思いの姿勢に深く感動したようだった。その目は潤み、僕の肩を優しく叩いた。
「まあ、なんてお友達思いな子なの。最近は自分のことばかりな子が多いのに……。
わかったわ、あなたのその真剣な気持ち、私が責任を持って献立に反映させるわね」
そして今日、学食の献立表から、鯖や鰯、秋刀魚といった青魚のメニューがすべて消え去っていた。代わりに並んでいたのは、彼女の好きな鶏肉の照り焼きや、季節の野菜をふんだんに使った彩り豊かな料理ばかりだ。
学食の掲示板の前で、瑞希が呆然と立ち尽くしているのを見つけた。
彼女は信じられないものを見るような目でメニュー表をなぞり、震える指先で自分の唇を抑えていた。
驚いているのだろう。自分の心の中にあったささやかな不快感が、一夜にして世界から消え去り、自分にとって都合の良い理想郷に書き換えられたことに。
まさか僕が裏で動いたとは、彼女は今の段階では確信できないかもしれない。けれど、彼女の魂は気づいているはずだ。自分をこれほどまでに深く見守り、望みを先回りして叶えてくれる超越的な守護者が、すぐ隣にいることを。
「瑞希、今日のメニュー、すごく美味しそうだね」
背後から、最大限の優しさを込めて声をかけた。
瑞希は弾かれたように飛び上がり、僕を振り返った。その瞳には、隠しきれない動揺と、言いようのない畏怖が混じり合っていた。
「あ……うん。……そうだね。……どうして」
「良かった。君が悲しそうな顔をしたり、嫌な匂いに眉を潜めたりしているのを見るのは、僕にとっても耐え難い苦痛だから。これで、ゆっくり味わえるね」
僕が慈しむように微笑むと、瑞希は何かを、必死に言葉にしようとして……けれど、声が出ないといった様子で何度も口をパクパクと動かした。その瞳に宿っているのは、もはや困惑ではない。あまりに巨大で、絶対的な愛を与えられた時に生じる、神性に対する畏怖の念だ。
「……佐藤くん、あの。……まさか、あなたが先生に?」
「君の望むことは、全部わかっているよ、瑞希。君が言葉にできない不満も、隠している願望も、僕はすべて僕自身の痛みとして感じているんだから」
僕は彼女の言葉を、柔らかい真綿で包み込むように遮った。
彼女は青ざめた顔で伏せ、逃げるように学食を後にした。その背中を見送りながら、僕は至福の溜息をつく。彼女は今、僕の愛の深度に、その底知れなさに圧倒されている。それでいい。少しずつ、僕という底なしの海に沈んでいけばいいのだ。そこには苦しみも、不快も、他人の雑音もない、完璧な安らぎがあるのだから。
午後の授業、僕は瑞希の背中を、まるで最高級の芸術品を鑑賞するかのような眼差しで見つめ続けた。
彼女は時折、落ち着かない様子で窓の外をぼんやりと眺めている。
その視線の先に、彼女は何を見ているのだろうか。かつて享受していた自由という名の孤独だろうか。それとも、僕という万能の守護者が待つ新しい世界への期待だろうか。
最近の彼女は、僕を露骨に避けるような態度を取ることが増えた。廊下ですれ違えば壁際まで身を寄せ、僕が近づくと挨拶もせずに走り去る。
普通の鈍感な人間なら、それを嫌悪や拒絶と呼ぶのだろう。
けれど、僕という高度な知性を通せば、その意味は完全に反転する。
彼女は僕を試しているのだ。
自分がどこまで冷酷になっても、どこまで無礼な振る舞いをしても、僕が彼女を愛し続けてくれるかどうか。自分の無愛想な仮面の裏側にある、震えるような孤独と、僕を求める本能を見つけ出してくれるかどうか。
彼女は、僕という器の大きさを測るために、あえて拒絶という名の高いハードルをいくつも設置しているのだ。
なんて健気で、愛おしいテストだろう。僕はその挑戦を、喜びとともに受け止める準備ができている。
放課後。
瑞希が校門を出るのを、僕はあえて距離を置いて見守った。
案の定、彼女は周囲を何度も警戒するように見回しながら、いつも通りの駅への大通りではなく、人通りの少ない、細い裏道へと足を踏み入れた。
僕を撒こうとしているのか? いいえ、逆だ。
彼女は、僕と二人きりになれる確率を、自分でも無意識のうちに上げようとしているのだ。あえて死角の多い道を選ぶことで、僕たちが誰にも邪魔されずに接触できるシチュエーションを、魂のレベルで希求している。
僕は彼女の期待に応えるべく、住宅街の路地を熟知した知性を駆使して、先回りをした。
古びた街灯がぽつんと灯る、ひっそりとした角。僕はそこで、一冊の詩集を広げ、静かに彼女を待った。
やがて、規則正しいけれど、どこか急いた足音が聞こえてくる。
角を曲がってきた瑞希が、そこに佇む僕の姿を認めた瞬間、呼吸を忘れたかのように凍りついた。
薄暗い夕闇の中で、彼女の瞳が、恐ろしいほどの大きさに開かれる。
「……っ、なんで。……なんで、ここにいるの。嘘よ、ストーカーみたいなこと、やめて……!」
彼女の声は、激しい感情の昂ぶりによって掠れ、美しく震えていた。
「偶然だね、瑞希。僕も、今日はなんだかこの道を歩きたくなったんだ。……君の心と、僕の心が、同じリズムを刻んでいたんだね。嬉しいよ」
僕は本を閉じ、吸い寄せられるように、ゆっくりと彼女へ歩み寄った。
「……違う、違う……! 私は、あなたに会いたくなくて、わざと遠回りをしたのに……どうして、わかっちゃうのよ……!」
「恥ずかしがらなくていいんだよ、瑞希。君の言葉はいつも、本心とは逆の方向に飛び出してしまうけれど、その軌跡を辿れば、必ず真実に辿り着けるんだ。君は僕に会いたくて、この静かな道を選んだ。僕という存在を、誰にも邪魔されずに独占したかったんだ。……そうだよね?」
僕は彼女の目の前で立ち止まった。彼女の荒い吐息が、僕の鎖骨のあたりに熱くかかる。恐怖と、抑えきれない興奮。彼女の生存本能が、僕という強烈な刺激に反応して、これ以上ないほど輝いている。
「……っ、来ないで……!」
「君の細胞の一つ一つが、僕の名前を呼んでいるのが聞こえるよ。……いいんだ、瑞希。全部、僕に預けて」
僕は彼女の震える肩に、そっと手を伸ばした。
瑞希は短い悲鳴を漏らし、僕の手を猛烈な力で振り払うと、狂ったような勢いで走り出した。
夕闇の中に溶けていく、彼女の細い後ろ姿。その足音は、静かな住宅街にいつまでも響き渡っていた。
僕は振り払われた自分の右手を、じっと見つめた。
そこには、彼女の熱情が、彼女の拒絶という名の強烈な自己主張が、鮮烈な痛みとともに残っていた。
彼女は走った。僕に全速力で追いかけてほしいから。
彼女は叫んだ。僕という存在に、自分の世界をすべて塗りつぶしてほしいから。
彼女は今、人生で最も激しく生きていることを実感しているはずだ。僕という無二の存在によって、彼女の凡庸な日常は、極上のスリルと絶対的な愛に満ちた神話へと書き換えられたのだから。
「瑞希。君は本当に、僕なしでは生きていけない身体になっているんだね」
僕は満足げに微笑み、彼女が消えていった方向へ、ゆったりとした歩調で歩き出した。
急ぐ必要はない。彼女がどこへ逃げようと、どんな扉を閉ざそうと、そのすべての道は、最終的には僕という目的地へと収束していくのだ。
彼女が扉を閉めれば、僕はその扉の重みになる。
彼女が助けを呼べば、僕はその声を受け止める大気になる。
瑞希、君の願いは、僕がこの手で、一つ残らず、完璧な形で現実にしてあげる。
たとえ君が、それを絶望と呼んだとしても。
僕にとっては、これこそが至高の、そして唯一の幸福なのだから。
夜の帳が完全に下りた街で、僕は確信していた。
明日の朝、教室で彼女が僕を見た時、その瞳には何が宿るだろうか。
逃げ場のないことを悟った諦念? それとも、僕という運命を受け入れた、甘美な服従?
どちらでも構わない。
彼女の視界を、僕という存在だけで埋め尽くせる。
その事実だけで、僕は世界を統べる神になれるのだから。




