第2章:私の言葉が、届いていない(瑞樹視点)
朝、目が覚めた瞬間に感じるのは、爽やかな目覚めではなく、心臓の奥にこびりついたような重苦しい予感だった。
学校に行かなければならない。けれど、あの教室には彼がいる。
佐藤春斗くん。
クラスメイトの一人に過ぎないはずのその名前を思い出すだけで、指先が微かに震える。彼は決して暴力を振るうわけではないし、大声で怒鳴るわけでもない。むしろ、いつも穏やかで、誰に対しても親切な優等生だ。
けれど、私を見る彼の瞳だけが、どうしても受け入れられなかった。
教室のドアを開ける。
その瞬間、背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。
私は努めて明るく振る舞おうと、親友の千佳の席へ駆け寄った。
「千佳、おはよう! 昨日のドラマ、見た?」
「あ、瑞希! おはよ。見た見た、あのラストはないよねー」
千佳の屈託のない笑顔と、くだらないお喋り。それだけが、今の私にとって唯一の安全地帯だった。必死に声を出し、笑う。そうしていなければ、背後から突き刺さるあの視線に、自分という存在が飲み込まれてしまいそうだったから。
視線の主を確認しなくてもわかる。
彼は今、私を見ている。
ただ見ているのではない。まるで顕微鏡で微生物を観察するように、あるいは、手に入れたばかりの玩具を隅々まで吟味するように。私の動きの一つ一つを、彼はその歪んだレンズで捉えている。
ふいに関係のない方向へ視線を逸らした拍子に、一瞬だけ彼と目が合ってしまった。
心臓が跳ねる。私は弾かれたように顔を逸らし、千佳との会話に没頭するフリをした。
怖い。
彼と目が合うと、自分のプライベートな領域に土足で踏み込まれたような、言いようのない嫌悪感がこみ上げてくる。
「……おはよう、瑞希」
頭上で、あの穏やかすぎる声が響いた。
逃げ遅れた。
私は肩を強張らせ、ゆっくりと振り返る。そこには、いつもと変わらない、端正で優しい微笑みを浮かべた春斗くんが立っていた。
「……おはよう、佐藤くん」
私の声は、自分でも驚くほど硬く、拒絶の色を含んでいた。挨拶という最低限のマナーを果たすだけで精一杯だった。本当は、名前を呼ぶことさえ嫌だった。
「顔色が悪いよ? あまり眠れなかったのかな。……僕のことを、考えてくれていたのなら嬉しいけれど」
彼は冗談めかしてそう言った。けれど、その瞳は全く笑っていない。
「え……? いや、そんなんじゃないから。ただの寝不足」
私は精一杯の拒絶を込めて言い返した。けれど、彼は満足げに頷くだけだった。
「いいんだよ、隠さなくても。瑞希は照れ屋さんだからね。あまり無理をしすぎないで」
彼は私の返事など聞いていなかった。私の「そんなんじゃない」という否定は、彼の頭の中で恥ずかしくて素直になれない恋心の裏返しとして、瞬時に変換されてしまったのだ。
喉の奥が引き攣るような感覚。私の言葉は、彼というフィルターを通すと、全く別の意味に書き換えられてしまう。
一時間目の移動教室。
私は彼から一刻も早く離れたくて、チャイムが鳴る前に席を立った。
「瑞希、早いよ! 待ってってば」
千佳の声に背中を押されるように、早足で廊下に出る。その時、ポケットから何かが滑り落ちる感覚があった。けれど、立ち止まって確認する勇気はなかった。後ろには、片付けを終えた彼が続いているはずだったから。
移動教室の最中、私は自分のハンカチを失くしたことに気づいて動揺していた。
お気に入りの、白いレースのハンカチ。
嫌な予感がした。もし、あれを彼が拾っていたら。
考えたくもない想像が頭をよぎる。授業の内容なんて全く入ってこなかった。ただ、自分の不注意を呪い、時間が過ぎるのを祈るしかなかった。
昼休み。
私は千佳と一緒に、中庭の銀杏の木の下へ逃げ込んだ。
ここは生徒が少なく、彼からも距離を置ける場所だ。
「……瑞希、やっぱりおかしいよ。佐藤くん、ずっとあんたのこと見てるじゃん」
千佳がお弁当を食べながら、声を潜めて言った。
「やっぱり、千佳もそう思う? 気のせいじゃないよね……」
「気のせいなわけないでしょ。さっきだって、瑞希が席を立った後、あんたの椅子の背もたれをずっと触ってたんだから。あいつ、マジでヤバいって。先生に言ったほうがいいんじゃない?」
千佳の言葉に、私はお弁当を食べる手が止まった。
椅子の背もたれを触っていた?
想像するだけで鳥肌が立つ。私が座っていた場所、私の体温が残っていたかもしれない場所を、彼が。
「……怖いよ、千佳。何を言っても通じないの。嫌だって言っても、全部『照れてる』って言われちゃう。私の言葉が、彼には届いてないみたいで」
「あいつ、自分の中で勝手なストーリー作ってんでしょ。瑞希はそのヒロイン役。最悪じゃん」
その時、千佳の顔から血の気が引いた。彼女の視線が、私の背後を射抜く。
「瑞希」
冷たい声。
私は凍りついたまま、ゆっくりと振り返った。そこには、いつの間にか私たちのすぐ後ろまで近づいていた春斗くんが立っていた。
足音一つさせずに。
「これ、朝落としただろう? 大切に持っておいたよ」
彼は微笑みながら、右手を差し出した。そこには、私の白いハンカチがあった。
けれど、そのハンカチは無惨に畳まれていた。まるで、何度も何度も指でなぞられ、アイロンでもかけたかのように不自然に平べったく。
「……あ、ありがとう。わざわざ、届けてくれなくても、良かったのに」
私は吐き気を堪えながら、彼の手からハンカチをひったくるように受け取った。彼の指先が、微かに私の指に触れる。その一瞬の接触が、焼け付くように不快だった。
「いいんだ。君のことなら、どんな些細なサインも見逃したくないから。僕たちは、そういう関係だろう?」
彼は、私の耳元で囁くように言った。
そういう関係?
私たちはただのクラスメイトだ。それ以上の接点なんて、一度も持ったことはない。
「違う……そんなんじゃない。佐藤くん、私たち、別に何でもないでしょ」
私は勇気を振り絞って、はっきりと言った。千佳も隣で彼を睨みつけている。
けれど、彼は困ったように眉を下げ、慈しむような目で私を見つめた。
「そんなに意固地にならなくてもいいのに。周囲の目が気になるんだね。……わかってるよ。二人の時は、もっと素直になってくれるものね」
「二人の時なんて、一度もないじゃない!」
私の叫びは、虚空に消えた。
彼は満足そうに微笑み、「じゃあ、また後で」と言い残して去っていった。
去り際、彼は一瞬だけ千佳を一瞥した。それは、邪魔な障害物を見るような、冷酷で虚無的な視線だった。
「……瑞希、あいつ、本当に話が通じないね」
千佳が震える声で言った。
「どうしよう、千佳。私、消えちゃいそう」
私のNOという意志。私の嫌だという感情。それらが、彼の愛情という巨大な重機によって、跡形もなく押し潰されていく。彼の中にある瑞希という偶像が、現実の私を侵食し、塗り替えていく。
午後の授業。
佐藤くんは、私の真後ろの席に座っている。
背中に突き刺さる視線。それは熱を帯びているというより、粘り気のある糸のように私に絡みついてくる。
私がページをめくれば、後ろで彼もページをめくる音がする。
私がペンを置けば、彼も同じタイミングでペンを置く。
わざとだ。
彼は私の動作を完全にトレースし、同調することで、自分と私が一体であるかのように錯覚させようとしている。
私は耐えきれなくなって、何度も髪を耳にかけた。肩をすくめた。けれど、動けば動くほど、彼に情報を与えているような気がして、最後には石のように固まるしかなかった。
喉が渇く。空気が足りない。
この教室という空間そのものが、春斗くんという異物に支配されている。クラスメイトの喋り声も、先生の板書の音も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
今、この世界には、私と、私を捕食しようとしている彼しかいない。
チャイムが鳴る。
放課後。
私は誰とも目を合わせず、鞄を掴むと教室を飛び出した。
千佳に挨拶する余裕すらなかった。とにかく、この場所から、彼の視線が届かない場所へ逃げなければならない。
廊下を走り、階段を駆け下りる。
校門を抜け、駅までの道を必死に歩く。
けれど、背後には常に誰かの気配がつきまとっていた。
振り返っても、そこには誰もいない。通行人の集団や、部活帰りの生徒たちがいるだけだ。
それでも、わかる。
彼は、見ている。
彼が私を見失うはずがない。なぜなら、彼にとって、私はもう外側にいる人間ではなく、彼の一部として組み込まれてしまっているのだから。
「……はあ、はあ……っ」
駅のホームに駆け込み、電車に飛び乗った。
ドアが閉まり、列車が動き出す。
ようやく、息を吐き出すことができた。
吊り革に掴まり、窓に映る自分の顔を見る。
そこには、酷く怯えた、生気のない少女の顔があった。
これが、私?
それとも、彼が作り上げた僕の瑞希が、私の顔を借りてそこに立っているだけなのだろうか。
私は自分の鞄を強く抱きしめた。
中には、彼から返されたあの白いハンカチが入っている。
捨てなければならない。こんなもの、もう二度と使いたくない。
けれど、私はそれを捨てることができなかった。
これを捨てたら、彼はもっと恐ろしい方法で、私の持ち物を奪いに来るのではないか。
そう思うと、手が震えて止まらなかった。
電車が駅に止まるたびに、誰かが乗ってくるたびに、心臓が口から飛び出しそうになる。
もし、次の駅で彼が乗ってきたら?
もし、ドアの隙間から彼が微笑んでいたら?
私の世界は、もう私の知っている世界ではない。
春斗くんという、底知れない闇に塗りつぶされた、彼専用の箱庭なのだ。
最寄りの駅で降り、家路を急ぐ。
夕闇が迫る住宅街。街灯が一つ、また一つと灯っていく。
自分の足音だけが、静かな通りに響く。
「……瑞希」
どこからか、聞き慣れた声がした気がして、私は立ち止まった。
振り返る。
そこには、街灯の下で、一本の影が長く伸びていた。
誰もいないはずの道。
けれど、風に乗って、あの石鹸の香りが微かに鼻を掠めた。
私は悲鳴を飲み込み、狂ったように走り出した。
家に着けば、鍵をかければ、安全なはずだ。
けれど、その確信はもう、どこにもなかった。
私の言葉が、拒絶が、世界に届かないのだとしたら。
私は、誰に助けを求めればいいのだろうか。




