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第七話 束の間の幸せ(上)

 車が荒川大橋あらかわおおはしを渡り、江戸川区へ入る。窓の外、遠くには冬の東京湾が見えた。水平線は変わらないのに、岸の形だけが変わった。


 七年前——あの大震災で、この辺りは津波に飲み込まれた。建物も、道も、名前も。そこに誰かが生きていたという痕跡ごと、全部。

 

 今も、ここには風がよく吹く。遮るものが、何もないから。


 僕がTGCでバイトを始めた頃、被災地は復興の途上にあった。二十歳前後の若者から高齢者まで、センターで配る無料弁当を求めて行列を作っていた。配布時間の一時間も前から、ずらりと並んで。行列の中に、ノバナの姿もあった。


 闇市では、ノバナたちが家賃より安い値段で取引されていた。僕は一週間で三十人以上を施設に連れてきた。それでも、行列は減らなかった。


 「お嬢様、もうすぐ目的地に着きます」


 運転手がアリマを呼ぶ声で、考え事から引き戻される。


 車はもう船堀に着いていた。


 東京都心まで電車で約二十分。家賃の安い物件が多い町だ。僕の住む桜ハイツも、周辺より安い家賃で入居できた。冬になると空き家に住み着くノバナが増えるのが難点だが——まあ、住み心地は悪くない。


 「申し訳ないんですけど」


 車を降りながら言った。


 「十五分ほど、ステラと外で遊んでてもらえますか? 部屋の掃除がまだ済んでなくて」


 眠そうなステラが、アリマの手をぎゅっと握った。


 「ステラも一緒に掃除する」


 「お姉様のおっしゃる通りです。三人で掃除すれば早く終わります」


 僕は困った顔で二人を制した。


 「いや、本当に汚いんです。まず僕が掃除して、それでも終わらなければ手伝っていただきます」


 二人が近くの公園で散歩している間に、郵便ポストから予備の鍵を取り出し、303号室の扉を開けた。


 電気をつけると、何日も放置されたゴミ袋から一週間前に食べ終わった弁当まで、腐敗臭とともに床に散らかっていた。冬でよかったと思った。


 とりあえず窓を開けて不要な物を袋に詰め、全てゴミ置き場に運んだ。流し台では湯が出るまで蛇口を開けっ放しにし、その間に掃除機をかけた。


 古い服や下着は丸めて二槽式洗濯機に放り込んだ。洗濯機に水が流れ込む音がドア越しに微かに聞こえた。


 約束した時間まで三十分ほど残っている。一息つきながら部屋を眺めた。


 部屋の片側に視線が留まる。


 壁には、七年前の火事に関わった人々の関係図が広がっていた。口頭で聞いた情報を付箋に書き込み、要注意人物の写真にプッシュピンで固定した。ネット記事は切り抜いて年度別に整理し、床に置いてある。赤い糸で結んだ関係図は、蜘蛛の巣に似ていた。


 この数日間で入手した情報を黄色の付箋に書き並べた。案山子と樹の一族の繋がり、ガーデンズ学園と失踪事件の関わり、ステラの周辺関係——糸は増えるたびに、複雑に絡み合った。黄色の付箋だけが、まだ何にも繋がっていない。空白が、三箇所ある。


 背後で、息を呑む気配がした。


 「一人で七年前の火災事件をここまで調べた人は、初めてです」


 アリマの足音が、近づいてきた。


 「驚きました。私が把握しきれなかった情報もあります。一体、どこからこれほどの情報を?」


 振り返らなかった。壁を見つめたまま、答えなかった。この関係図を他人に見せたのは、初めてだった。


 「マスコミは事故として報道していますが、あなたも事件だと——」


 「ええ、その通りです。あれは人為的に起こされた火災。地下の天然ガスパイプの爆発は、あくまで結果です」


 アリマが一歩前に出て、僕の隣に並んだ。


 「しかし、真相を知っている人はごく一部のはず。炭咲さんがここまで辿り着いたのは、並大抵なみたいていのことではありません」


 気づいた時には、アリマの肩を掴んでいた。壁の関係図が、視界の端でぼやけた。


 「誰から聞いた話ですか? 詳しく教えてください、お願いします!」


 「落ち着いて。確かに私は『事件』と言いましたが、詳細についてはそこまで——」


 アリマが、僕の手を一本ずつ、肩から外した。外された手の置き場が、なかった。しばらく間があってから、アリマは続けた。


 「選ばれた企業家だけが入れるダイアモンドクラブがあります。私の知っている情報は全てそこから聞きました。炭咲さんが必要なら、緑埜家を通さずに情報元を紹介することもできます」


 小さく震えている肩から、手を離した。息を、吐いた。


 七年間——誰にも信じてもらえなかった。施設にいた頃から妄想だと言われ続けた。心配そうな目で見られても、諦める理由にはならなかった。永遠に鳴り続ける電話のように、一日も休まず資料を探した。

 

 アリマが、今それに応えた。


 「失礼しました」


 アリマに向き直った。


 「失礼しました。ダイアモンドクラブについて、もう少し詳しく教えていただけますか?」


 「構いません。——正直、少し驚いています」


 アリマは壁の端から端まで、一枚ずつ確かめるように視線を動かした。


 「ダイアモンドクラブ。知っていますか?」


 「名前だけは聞いたことがあります」


 アリマは少し考えてから、続けた。


 「会員の方々は、外では話しません。私が知っていることも、断片でしかない。ただ——あの火災に、そこが関わっていた可能性はある」


 「どのような情報ですか?」


 「計画的だったということ。そして、ある特定の組織が関与していたということ」


 アリマの視線が、壁の一点で止まった。赤い糸の先——案山子と緑埜家を結ぶ線の上だった。


 「しかし、その組織の名前や詳細については、私も推測の域を出ません。だからこそ、あなたの調査結果に興味があるのです」


 「パパ、これは何?」


 振り返った。ステラが赤い糸に手を伸ばしていた。指が、糸に触れる寸前だった。


 「勝手に触るな!」


 声が出てから、静寂が戻った。ステラの肩が、小さく縮んだ。それからゆっくりと、アリマの背後に隠れた。膝をついたアリマが無言でステラを引き寄せ、その背中に手を回した。


 「この壁に貼ってあるもの、僕が大切にしてるから、糸を引っ張ったり写真を剥がしたりしないで。分かった?」


 「パパ、ステラのこと……嫌い?」


 ステラが僕の顔色をうかがっていた。唇が、かすかに震えていた。アリマが静かに一歩下がった。


 「ああ、僕が悪かった。もう二度と怒鳴らない。約束する」


 ステラは何も言わなかった。視線が、床に落ちた。


 「よし、指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った。これでパパはステラとの約束、絶対破らない」


 「ユビキル? ハリセンボンってお菓子?」


 ステラが泣きそうな顔で僕と小指を絡ませている。


 「もう一回しよ。ステラもハリセンボン食べる」


 しゃがんでステラの頭に手を置いた。掌の中に、すっぽりと収まった。後ろでアリマが、息を吐く音がした。


 「あの、約束の十五分が過ぎました。まだ何か?」


 洗濯機の終了時間を確認し、トイレの扉を閉めた。


 「ありません。まだ早いですが、夕飯の準備をしますか? 座って待ってて。適当に何か作って——」


 そう言って冷蔵庫を開けると、中が空っぽだった。


 「すみません、買い物が必要でした。近くにスーパーがあります。一人で行ってきますので、ステラと一緒に休んでて。あ、着替えが先ですね」


 収納クローゼットからお土産でもらった大阪サブレの缶を探した。掃除の際に目につく場所に置いた記憶がある。黒いセーターに着替え、缶の中から小銭と千円札を数枚取り出してポケットに入れた。


 「行きたい、行きたい、ステラも行きたい! パパと一緒じゃなきゃやだ」


 鼻声でステラがせがんだ。表情が、先日と変わっていた。目も、声も、先日とは違った。ステラの手が、僕の袖を掴んでいた。離さなかった。


 「ネネも行きたいでしょう? ね、行きたいでしょう?」


 ステラがアリマの腕を引っ張りながら、こちらを見ていた。引っ張られたアリマは、わずかによろけた。それでも姿勢を崩さなかった。


 「はい、ネネも一緒に行きたい、デス」


 アリマが僕を見た。口元が、かすかに上がっていた。僕は天井を見上げた。首の後ろを、片手で押さえた。


 二人の目線に合わせてしゃがんだ。


 「二人とも、聞いて。今日の夕飯はコンビニで済ませます。出かける準備をお願い」


 はしゃぐステラに灰色のフードパーカーを着せ、マスクで口を覆った。アリマは事前に用意した服に着替えて、僕が終わるまで待っている。アリマにも手伝ってほしいと思ったが、諦めて靴を履いた。


 ここでまたステラが、自分も靴が欲しいと駄々をこねる。当然、下駄箱に子供用の靴はない。どうしても欲しいというので、仕方なく靴下を重ね履きさせて僕のスリッパを履かせた。


 「パパ、ありがとう。大好き」


 全ての準備が終わり、三人は家の近くのコンビニへ向かった。


 ステラが道中で雪玉を作って投げ始めると、自然に鬼ごっこが始まった。鬼は僕だった。家から五分足らずの距離を、三十分かけてようやく辿り着いた。


 三人とも雪だらけになり、体は冷えた。ステラが自分の手袋で僕の指先を包もうとして、上手くいかずに諦めた。


 「ステラ、遊びはここまで。お買い物してから温かい家に帰ろうね」


 店内に入ると、まず弁当を選び、ペットボトルの水を買った。他に明日の朝食用として食パンとイチゴジャム、子供用のヨーグルトも買った。ステラが店内のガチャガチャに興味を示したので、百円玉を渡して好きにさせた。


 どこまでも目が離せない。


 約十五分後、三人とも満足のいく買い物を終えてコンビニを出た。


 家に帰ると、まず二人にお風呂に入ってもらった。その間に弁当やファミチキをテーブルに並べ、二人の使ったタオルを洗濯機に放り入んだ。


 「パパ、ステラはお腹空いた」


 ステラが後ろから駆け寄ってきた。


 「ちょっと待って、まだ洗濯物を干してるから。アリマさん、ステラをお願いできますか?」


 「ステラもパパと一緒に干したいの、干したいの」


 ステラがどうしても手伝いたいと言うので、一緒に干すことにした。倍の時間がかかったが、ステラは達成感に満ちた笑顔を浮かべた。


 風呂上がりのアリマはまだ洗面台の前で何かしている。気になって尋ねると、「スキンケアです」と淡々とした返事が返ってきた。僕には馴染みのない習慣だった。


 食事の準備を始めてからテーブルに着くまで、二時間近くが経っていた。時計は午後六時を指している。


 「今日は、お疲れ様でした!」


 アリマの言葉に合わせて、三人で乾杯した。乾杯といっても、未成年なので酒の代わりにお茶とジュースだ。


 「ステラも乾杯! ネネも乾杯!」


 隣に聞こえる前に、急いでファミチキをステラの口に押し込んだ。壁が薄い。ステラは不満そうに頬を膨らませながら、それでも咀嚼そしゃくした。


 「よければ、一緒にどうですか? 口に合うか分かりませんが」


 「私は大丈夫です。それより、これを見てください」


 アリマから受け取ったタブレットには、スケジュール表が表示されていた。


 「最初の三日分のスケジュールです。明日からはこれに従って姉さまと一緒に行動してください」


 三日分の予定がびっしりと詰まっている。明日は上野動物園、明後日は新宿の映画館とイベントセンター、三日後は水族館。時間帯と最寄り駅も記載されていて、備考欄の参考リンクをタップすると、家族連れ向けの観光サイトが開いた。


 「明日から数日間は、姉さまと二人きりの思い出を作ることに集中してください。残りの予定は明日中に調べて追加しておきます」


 「アリマさんは行かないんですか?」


 「脇役の私が一緒に行っても、お二人の邪魔になるだけです。気にしないでください」


 アリマがタブレットを閉じた。ステラがおにぎりを齧った。僕は窓の外に目をやった。コンビニの袋が、床の上で萎んでいた。


 家族、という言葉が頭をよぎった。すぐに打ち消した。


 「ステラ、動物園には行ったことある?」


 「動物園?」


 ステラの箸が、止まった。大きな瞳がこちらを向く。


 「パパ、動物園って何? 楽しいところなの?」


 タブレットで検索をかけた。象、ライオン、キリン。画面を埋める写真をステラの目の前に差し出した。


 「これが動物園だよ。こんなに大きな動物や可愛い動物が見られるんだ」


 「へー、ステラ行きたい!」


 ステラは持っていたおにぎりを半分に割って、アリマに差し出した。迷わなかった。


 「これ、美味しいからネネにもあげる」


 アリマは一秒、その手を見つめた。それからおにぎりを受け取り、小さく一口食べた。口を閉じたまま、何も言わなかった。


 「ネネも一緒に動物園行こ」


 「動物園、ですか」


 アリマがタブレットの画面を、静かに覗き込んだ。指先が、象の写真の上で止まった。


 「お姉様のお誘いですから、明日は特別に同行します。決して楽しみにしているわけではないので、誤解しないでください」


 アリマは素っ気なくそう言ったが、視線だけが——ほんの少し、ステラの方を向いていた。


 タブレットに目を向けた。正午から上野動物園に入場し、二時間かけて園内を回る。上野駅は仕事で何度か利用したが、動物園は初めてだ。入口までの道のりを検索しながら、ステラが残したおにぎりを手に取った。

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