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第六話 七日間の契約家族

 ゲストルームは三階下のオフィスエリアにあった。


 廊下を歩きながら、視線だけを動かした。休憩室、飲み物コーナー、クリーニングサービス。金の匂いがする場所には、いつもこういうものが揃っている。父親がゲストルームBの扉をノックした。


 僕はその背後に、無言で立った。


 「はい、どうぞ」


 父親が扉を開けた。


 グレーのシャツドレスを着た女性が、ゲスト用の椅子に座っていた。タブレットに視線を落としたまま、顔を上げない。何かの連絡を待っているのか、画面を見つめたまま動かない。整えられた眉。丁寧なメイク。首元と手首に光るものがある。この部屋に不釣り合いなほど、落ち着いていた。


 ——降伏しに来た顔じゃない。


 女性が顔を上げた。タブレットから視線を外して、僕を見る。一瞬、何かを測るような間があった。口元にかすかな笑み。


 「息子さんをこの場に連れてくるなんて——」


 視線が、僕に刺さる。


 「緑埜さんらしくないですね」


 「申し訳ございません。事前にご連絡できず、お詫び申し上げます。特に問題は起こしませんので、ご容赦ください」


 父親が頭を下げていた。深く、丁寧に。


 悪くない。


 「——」


 視線を感じて、顔を上げる。各務家の代理人が、じっと僕を見ていた。指を顎に当てて、小首を傾げる。品のある仕草だった。それでも目だけは、何かを測っていた。


 「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」


 「炭咲千春と申します」


 聞かれた名前だけを答えて、口を閉じた。


 「初めまして、炭咲さん。失礼でなければ、両手の傷についてお聞きしてもよろしいですか? 拝見したところ、木炭化がかなり進んでいるようですが」


 「ああ、これですか」


 自分の手を見下ろした。指の先から手首にかけて、黒く変色している。慣れた景色だった。


 「本来は包帯で隠しているのですが、今日は慌てていて巻き忘れてしまいました。感染の恐れはありませんので、ご安心ください。見た目ほど危険なものではありません」


 「失礼な質問にも丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。文献や論文を見ても、生きた人間に木炭化が起きた実例はなかったもので、つい興味を持ってしまいました」


 彼女は一度タブレットに視線を落とした。指が止まっている。画面を見ているのか、考えているのか、判断がつかなかった。やがて顔を上げて、僕の手元に視線を固定した。


 「もしよろしければ、間近で直接確認させていただけませんか? もちろん、お断りいただいても構いません」


 契約書の話が出ない。父親の顔を見た。止める気配はなかった。


 僕は彼女に近づいて両腕を差し出した。まだ熱を持っているので触れないでもらうよう伝えた。彼女は頷いて、顔を近づけた。数秒、動かなかった。


 「おっしゃる通り、確かに木炭化していますね」


 彼女が息を吸う。


 「焦げの匂いがする。これで確信が持てました」


 言い終わると同時に、彼女は突然僕の胸ぐらを掴んだ。体重が軽い。それでも、指の力は強かった。


 「不愉快な親子ですね」


 指の力が、強くなった。


 「各務家を相手に嘘が通用するとでも思っていますか」


 彼女は僕の目を、まっすぐ見た。


 「襲った犯人が最初から緑埜家と関係していたのなら、交渉の余地はありません。あの子をどこに隠しているのですか」


 「最初からって、何の話ですか? 僕は子どもを襲っていません。むしろ僕もあの子を探しに来たんです」


 「想像力の足りない言い訳ですね」


 彼女はそう言い放った後、今度は壁際に立っていた父親に向き直った。


 「緑埜さん、余計な真似をする前に、ご自分の立場をお考えください」


 彼女は父親に向き直った。背筋が、一本の線のように真っ直ぐだった。


 「副社長であるあなたの息子さんが、ガーデンズ学園のテロ事件の真犯人だとマスコミに漏れたら――」


 父親の顔が、動いた。


 「一番困るのは、緑埜さんご自身ですよね」


 父親は、何も言い返せなかった。口が、わずかに開いたまま閉じなかった。


 形勢が、逆転した。


 「各務コーポレーションの資産を今すぐ返していただければ、今の話は契約書の秘密条項に追記します。口外はいたしません――マスコミにも、緑埜家の当主にも」


 彼女の目が鋭く輝いた。


 「今の提案について、いかがでしょうか」


 状況についていけない父親は、沈んだ声で答えた。


 「承知いたしました。今から部下に連絡して、アレを連れてまいります」


 そう言って熊捕に電話をかけた。


 僕も戸惑ったが、結果的にステラを取り戻せるなら問題ない。口を挟む理由もなかった。


 五分後、ステラと熊捕が部屋に入ってきた。ステラは部屋の中を不安げに見回し、警戒していた。目元は泣いたせいで腫れ、涙の跡が頬に残ったままだった。


 「ステラ、こっちにおいで」


 ステラが目を大きく見開いた。次の瞬間、大粒の涙がこぼれ落ちた。


 僕は黙って手を広げた。


 「パパ、ずっと探してた。会いたかった」


 何も考えなかった。ただ、この温度を確かめていた。


 「お姉様から離れてください!」


 声が、場の空気を切った。


 ステラが僕の胸に顔を埋めたまま、びくりと肩を震わせた。


 横から人影が割り込んできた。各務家の代理人だった。さっきまでとは別人のような声で、「お姉様」と呼んでいる。


 ステラを抱えたまま、壁際へ一歩下がった。代理人との距離を測りながら、ステラの耳元に囁いた。


 「ステラ、あの人は知り合い?」


 「ううん、ステラ知らない。初めて見る人」


 ステラが首を横に振った。代理人が、口を開いた。


 「お姉様、私です。お姉様が大好きなネネです。お忘れになりましたか?」


 一歩、前に出ようとした。僕は腕を前に出して相手を制止した。


 「これ以上近づかないでください。子供が怖がっています」


 代理人は止まった。足が、そこに根を張ったように動かなかった。今度は僕に向かって静かに頼んだ。ステラと二人で話がしたいと。声は先ほどとは違う、抑えた響きだった。僕は首を横に振った。押し問答の末、三人で話すことになった。


 「少しお姉様と後ろを向いていていただけますか? 二分で準備を終わらせます」


 言い終わるより先に、彼女は服に手をかけていた。謎めいた言葉の意味を考える前に、状況が動いていた。


 僕はステラと共に壁を向いた。ステラの体が、少しずつ重くなる。僕と会えてようやく力が抜けたのかもしれない。やがて、穏やかな寝息が聞こえてきた。胸に伝わる体温が、じわりと眠気を呼んだ。


 目を閉じたら、そのまま眠れそうだった。


 「お待たせしました。もう振り向いて大丈夫です」


 あくびを押し殺した瞬間、声がかかった。眠り込んでいるステラの頭を手のひらで支えながら、ゆっくりと体を回した。


 振り返った瞬間、僕は現実と夢の境界線がぼやけているような錯覚に陥った。


 各務家の代理人が、そこにいた。膝をつき、床に額がつくほど深く頭を下げている。しかも全裸だった。


 同じ人間だと、頭では分かっている。それでも、さっきまで父親を追い詰め、僕の胸ぐらを掴んでいた女性と、目の前の姿が結びつかなかった。整えられた眉も、首元のアクセサリーも、今はない。白い背中だけがあった。


 眠っているステラの重みが、腕に伝わってくる。ステラを起こさないよう、僕は息を吸って、ゆっくりと吐いた。


 「何ですか? 服まで脱いでお願いするような話ではありません。服を着てください」


 目をぎゅっと閉じたまま、できるだけ声を平らに保った。


 「こちらに来る際、替えの服を持参できませんでした。一時しのぎとして人形の服を身に着けていましたので、驚かないでください」


 声が、妙に若かった。さっきまでと同じ人間の声とは思えなかった。目を開けることができなかった。まぶたの裏が、妙に明るい。


 「あの、炭咲さん」


 返事をしなかった。


 「会ったばかりの私を完全に信じてくださいとは言いません」


 声が、近づいてくる気がした。


 「一度だけ私の言う通りにしてもらえますか? ずっと目を閉じたまま会話するわけにはいかないでしょう」


 反論できなかった。脳裏に、新吉原のこひなの姿が浮かんだ。あのスーツも、人形と呼ばれていた。お風呂場で見た製造メーカーは、各務コーポレーションだった。


 「もしかして新吉原のこひなと知り合いですか?」


 「えっ、こひなちゃんを炭咲さんがなぜ知っているんですか? まだ未成年なのに」


 声が、揺れた。


 「すみません、動揺してしまいました」


 息を整える音がした。革張りの椅子が、小さく軋んだ。


 「はい、こひなとは長い付き合いです。毎週定期的に訪問して、人形の点検を行ってます。今日は契約の件でリスケジュールしましたが、来週に予定を入れました」


 話を聞きながら、床に身を伏せた人形の背中をよく見た。


 首の辺りに——花タンポポのタトゥー。製造メーカー名の代わりだ。僕はそれを知っている。


 今日だけで——二人。


 僕の日常は、いつからこうなったんだろう


 「あの、炭咲さん」


 声が聞こえる。


 「中身の私は、ここです」


 目を開けた。


 黒い姫カットの少女が、椅子に座って僕を見上げていた。艶やかな肌。ピンク色の唇。陽光を含んだ茶色の瞳。どこかで見たような気がした。それが何なのか、すぐには分からなかった。ただ、目が離せなかった。


 「改めて自己紹介をさせていただきます」


 少女が椅子から立ち上がった。小さかった。それでも、足が床を踏む音は確かだった。


 「私は各務家の次女、有馬アリマと申します。ネネというのは——お姉様が呼びやすいよう、私がつけた名前です」


 少女が、瞬きをした。


 それだけだった。それだけなのに、部屋の空気が、静かに塗り替わった。


 「ちなみに炭咲さんはおいくつですか?」


 十五歳だと答えた。アリマの目が、わずかに細くなった。


 「どちらのご出身ですか?」


 「現在の収入をお聞きしてもよろしいでしょうか?」


 「お姉様のお名前をなぜステラにしたのですか?」


 「ご両親とは仲が良いですか?」


 「ガーデンズ学園の共通テストが行われた当日にテロを起こした理由は何ですか?」


 「お付き合いしている女性はいらっしゃいますか?」


 息継ぎがなかった。


 僕はステラの頭が肩からずり落ちないよう、手のひらで支え直した。


 ——この子、怖い。


 目の前の少女は微動だにせず、答えを待っていた。嘘はつけなかった。一つずつ、答えていった。


 「——最後に、ガーデンズ学園のテロについては」


 言葉を選んだ。


 「気を失ってから起きたことなので、詳細は知りません。こひなが現場にいたので、彼女の方が詳しいと思います。お付き合いしている女性は、いません。以上です」


 アリマは何も言わなかった。タブレットを操作して、画面を僕に向けた。


 「これです」


 テロが起きた朝の記事だった。焦げた匂いが、まだ鼻の奥に残っている。


 「犯人は首から上が炎になっていた。周辺一帯を燃やして逃走。容疑者は今も特定できていない」


 アリマが続けた。


 「現場の証拠も燃やされています。バベルはカラスにも依頼して、犯人を探している」


 記事の最後には、防犯カメラに薄っすらと映った首なしの写真が掲載されていた。犯人の正体を推測する内容も書かれている。


 僕の記憶では——案山子に首を斬られた直後に、この事件が発生したはずだ。


 だとすれば。学園の関係者なら、犯人が誰か分かる可能性が高い。


 僕はそう考えて、この推測をアリマに伝えた。


 「バベルの関係者から聞いた話では——生憎、防犯カメラが原因不明の理由で、その時間帯のデータが全て使用不能になったそうです」


 アリマが首を振る。


 「復元できたのも、この写真一枚だけ。防犯カメラを管理していた担当者も、真犯人のことは覚えていないと言いました」


 アリマは話を一度止めて、息を吐いた。


 「実は——炭咲さんの正体を事前に把握できたのも、こひなちゃんの人形が記録した動画のおかげなんです」


 話は一テンポ速く進む。


 「各務コーポレーションが製造した人形は、眼球で取得したデータを個人や本社のクラウドサーバーにアップロードするように設定されてます。今回の事件も、人形が機能停止する前にサーバーに動画がアップロードされていました」


 僕は黙って聞いていた。


 「犯人の姿は撮れてなかったんですけど——お姉様と一緒にいた炭咲さんの方が重要だったので。そのデータを参考に、バベルに通報する前に私から先に緑埜家の副社長に連絡して、所在を調べました」


 話を聞いて、ますます真相が分からなくなった。


 「記事には『人的被害なし』と記載されてますが——これは本当ですか?」


 「事実です。こひなちゃんもお姉様も、現場にいた受験生三百十二名も、全員無事でした」


 「こひなからは僕のことを聞いていなかったみたいですね」


 「はい、ですから少し裏切られた気持ちもあります。しかし炭咲さんを隠したとはいえ、私には些細なことです。後でゆっくり事情を聞けば済む話ですから」


 アリマは次の話題に移った。タブレットを膝の上に置き直して、こちらを見た。


 「ところで、この後のご予定はいかがですか?」


 特にないと答えた。


 「実は、ちょうど私からお願いがありまして、このままお姉様と一緒に、しばらく炭咲さんのお宅で泊まらせていただけませんか? もちろん、生活費はお支払いします」


 僕はアリマを見た。十歳にも満たない顔が、こちらを真っ直ぐ見返していた。眠っているステラを抱えた腕が、少し重くなった気がした。


 「五日間だけです。その間にお姉様が自分の足で立てるよう、今まで通りそばにいてあげてください。慣れ次第、私たちは出ます。約束します」


 断れなかった。昔の自分が、そこに立っていた。大人の言葉を使って、大人の顔をして、それでも子供だった頃の自分が。


 「寝ている間に実家へ連れ戻せば、お姉様は気づかないと思うんですが——それじゃ、だめですか」


 アリマの目が、細くなった。温度が消えた。


 「今のは最低でした。お姉様の前では絶対におっしゃらないでください」


 最低。自分の口から出た言葉が、アリマの声を借りて初めて聞こえた。


 五日間、各務家の姉妹と一緒に暮らす。気がつけば、そういうことになっていた。ステラの意思を確認する暇もなかった。誰も確認しなかった。僕も、しなかった。


 部屋の掃除ができていない。そのことを思い出した時、アリマはすでに人形を着て立っていた。タブレットを脇に抱えて、契約書を上着の内ポケットに収めて。次に何をすべきか、最初から分かっているような立ち方だった。


 「それでは、参りますか? 引き続きよろしくお願いします」


 アリマの声が、廊下まで届きそうだった。僕は家に着くまでにコンビニに寄ってもいいか尋ねた。


 「構いませんが、どれほど汚いのですか? 必要なら私もお手伝いします」


 「まぁ、まぁ」と言って、僕は窓の外に目をやった。曇った空だった。


 ——あの日から、二日が経っていた。


 残りは五日。


 それが彼女が差し出した期限だった。

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