第五話 血を流した父子
改札を抜けてしばらく経つと、浅草行きの電車が滑り込んできた。
車内には家族連れや外国人。季節外れの薄着を見て、彼らは少しずつ遠ざかっていく。
視線が痛い。僕は肩をすくめた。
ポケットの中身を確認する。社員証と一万円札。一万円札は別のポケットに移す。
スマホの電源ボタンを押す。時刻は午後二時。
『この電車は浅草行きです。まもなく虎ノ門、虎ノ門です――』
扉が開く。地下の不快な臭いと薄暗い照明。改札口を目指す。
虎ノ門駅の構内は複雑に入り組んでいた。工事中の仮設壁が、本来の通路を塞いでいる。僕はスマートフォンの電源を落とし、ポケットにねじ込んでエスカレーターに乗った。
ゴゴゴ……。
地鳴りのような低い振動が、スリッパ越しに足の裏に伝わってくる。
地上に出た。右手に、文部科学省の重厚な建物。公園を挟んで向こう側には、虎ノ門ヒルズがそびえ立っている。
昼過ぎのロビーには、低い話し声が絶えず響いていた。コーヒーを片手に、営業マンたちが立ち話をしている。
僕は手前のインフォメーションセンターで、セキュリティカードに記載された部署のフロアを確認する。エレベーターに乗って、七階のボタンを押した。
静かに上昇していく。その間、壁に映る自分の姿を眺めていた。
七階に着いた。扉が開く。降りたのは、僕だけ。
廊下には、微かに空調の音が響いている。壁に貼られたレイアウト図——親切で分かりやすいイラストで各エリアを案内していた。この階には二つの部署が、まるで縄張りを争うかのように領域を二分している。
フロア全体を見渡す。この階だけで優に百人を超える人々が、それぞれの小さな宇宙で働いているようだった。
不思議な光景だ。
「何のご用件でしょうか」
真面目そうな印象の女性が、落ち着いた声で話しかけてきた。スーツの着こなしはきちんとしており、物腰は事務的だった。
僕はポケットからセキュリティカードを取り出し、拾った物を返しに来たと伝えた。
「こちらは高橋の物ですね。本人が戻り次第、お渡しします。申し遅れました、中村と申します。高橋と同じ部署です」
中村はカードを受け取ると、表と裏を丁寧に確認した。その仕草には職業的な慎重さが感じられた。
「失礼ですが、どこで拾われたのでしょうか?」
「花園大学医学部附属病院です」
「遠いところからわざわざ……」
口調に微妙な変化が生じた。疑念というほどではないが、何かを測りかねているような響きがあった。
「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「あなた方は僕を『緑埜家の坊ちゃん』と呼んでいるようだが、分かるか?」
中村の顔色が変わった。図星だ。
僕は迷わず膝裏を蹴り上げ、右手で首を掴んで押し倒した。中村は床に倒れ込み、僕はそのまま喉を押さえつけた。これで声は出せない。
「フクロウという老人が連れ去った女の子を探している。白い髪で小学一年生くらい。言葉遣いが幼い。知っているな? どこだ?」
彼女の瞳に動揺が浮かんでいる。素直に答えそうだと感じ、僕は喉への圧力を緩めた。
「侵入者! アカバナの男性一人!」
解放された途端、中村が叫んだ。
喉の奥が熱くなる。
大人たちが駆けつけてきた。エレベーター前に、影が集まる。ステラの姿は、見当たらない。このまま通してもらえるはずもなかった。
「これから起こる暴力と破壊は——あなた方の副社長、聖次郎さんと僕との私的な問題です」
静かに告げる。
「僕を止めようとする者は容赦なく、灰にします」
一息。
「怖いなら逃げればいい。あいつと違って——僕は弱者は狙わない」
僕の言葉を聞いて、カラスたちは嘲笑った。子供が大人の真似事をしているのを見るような——そんな笑いだった。
僕も笑いながら、高橋のセキュリティカードを床に投げつけた。カードが落ちて、小さな音を立てる。
「先に灰になった高橋に——お悔やみ申し上げます」
挑発に乗ったカラスたちが、一斉に襲いかかってきた。
人が多すぎる。息が足りない。
拍手の音。窓に亀裂。誰かが叫んで、誰かが黙った。床に落ちたのは、灰だけだった。
傷を負った体は、病院の時より速く再生を始めた。同時に、両腕の木炭化も加速していく。
息が、短い。腕の黒が、広がっている。
どうせ終わる。なら、壊して終わる。父親が築いてきた地位とキャリアを破壊できれば——
ステラの声が、耳に戻ってきた。
——後でいい。今はまだ、終われない。
「あなた方が連れ去った子だ。白い髪の。知っている者は?」
あの声が、耳の奥に残っている。
今まで出会った数多くのノバナを施設に送り届けてきた。だが、強い信頼関係を築けたのは、ステラが初めてだった。
普通のノバナは警戒心を解かず、別れるまで無言か無関心を貫く。だがステラは違った。僕を「パパ」と呼び、家族として受け入れてくれた。
あの声を初めて聞いた時、暗い笑みが浮かんだ。僕のような人間に、親になる資格などあるはずがない。俗念に囚われた、人格者とは程遠い存在だ。
しかしステラと出会って、何かが変わった。家族を持つに値しない人生を送ってきた僕が、親心を感じるようになった。必死に守りたい、と。
「最後に聞く。——あの子は、どこだ」
声は低く、喉の奥で炎が渦巻いていた。
遅かれ早かれ別れる関係だと分かっている。深く関われば、別れた後の痛みも深くなる。そう分かっていたはずだった。
胸がうるさい。
——手が勝手に探している。フロアが静かすぎた。影が、まばらだった。
「秘書室の熊捕から電話です。出ますか?」
秘書室は副社長直属の部署だ。緑埜からの連絡かもしれない。
「その電話、僕が出てもいいですか?」
血のついた手を拭いもせず、床に落ちた受話器を拾い、そのまま何事もなかったように耳に当てた。
「炭咲様」
中性的で穏やかな声がスピーカーの向こうから聞こえてきた。
「秘書室の熊捕でございます。本日は本社にお越しいただき、ありがとうございます」
礼儀正しい口調で会話の主導権を握ろうとしている。古風でしかしどこか人工的な響きは、僕が施設に放り込まれたあの日を思い出させる。
「お手数をおかけして申し訳ございません。今からお迎えに参りますので、一緒に執務室までお越しいただけますでしょうか。緑埜副社長がお待ちしております」
「花園大学医学部附属病院から女の子が一人攫われました。副社長の緑埜さんの私用ですか? それとも単なるビジネス犯罪ですか?」
「恐れ入りますが、電話では詳細をお伝えできませんので、直接お会いしてからお話しします。五分後にそちらへ参ります。少々お待ちください」
それだけ言い残して、熊捕は一方的に電話を切った。
「この階の男子トイレはどこですか?」
生き残ったカラスの一人に聞き、廊下の端に向かった。
戦いで汚れた顔を冷たい水で洗い流し、トイレットペーパーで丁寧に拭き取った。洗面台の鏡に映った自分の姿は、髪の色が完全に抜けて真っ白になり、長さもかなり伸びていた。
なんとも無様な格好だった。
とっさに、水で前髪やサイドの髪を後ろに撫でつけてオールバックにした。それで少しはましに見えた。
身なりを整えてトイレを出ようとした瞬間、大量の血を吐いた。激しく咳き込み、喉が詰まる苦しさと共に、ひどいめまいに襲われてうずくまった。
短時間にトゲを何度も使った反動が始まったのだ。
内臓がついに限界を超えて悲鳴を上げているような気がした。外にいる人々に気づかれないうちに、香月からもらった薬を喉に押し込んだ。
僕は乱れた髪をもう一度後ろに撫でつけながら、血で汚れた口の周りを水で洗い流した。鏡に映った自分の顔は、先ほどとは様変わりしていた。
顔色は青白い。目の下に黒い隈。鼻から血が流れている。
自分の惨めな姿に呆れた。僕はできるだけ血を拭き取り、深呼吸を繰り返した。唇は強く噛んで赤くし、頬は軽く叩いて血色を良くした。
口の血を拭く。鏡の自分が、瞬きもしない。
「大丈夫だ。少し計画が早まっただけだ。しっかりしろ」
僕は声に出して自分に言い聞かせた。
トイレを出ると、カラスたちが小さな群れを作って待っていた。女性のカラスからヘアゴムを二つ受け取り、髪をポニーテールに結んだ。
エレベーターが開いた。
「お待ちしておりました。執務室へご案内します」
熊捕だった。スーツの縫い目が、どこか悲鳴を上げていそうだった。
「前より、大きくなりましたか?」
熊捕を見た。
僕は熊捕を見た。
「失礼しました。つい」
熊捕は片手でエレベーターの端を押さえ、僕を中へ促した。
——僕が成長するはずはない。
鏡に映った横顔を、横目で確かめる。変わっていない。肩幅も、首の細さも、靴のサイズも、たぶん。
「ドアを閉めます。手すりをどうぞ」
二人を乗せたエレベーターは、静かに三十階へ上がる。途中からガラス張りになった壁の向こうに、東京が広がった。
白い。冬がそのまま街になったような白さだった。東の方角に、高層建築の塊が見える。新吉原だろう。東京タワーより低い。それでも、目がそこへ引き寄せられた。
一度見たら、もう忘れられない場所というのがある。
「到着しました。足元にお気をつけください」
扉が開いた。
冷たい。
一歩踏み出すと、大理石が靴底から冷気を押し返してきた。天井が高い。白い柱が、どこまであるのか数える気にもなれない。窓の外に庭があった。冬なのに花が咲いている。寒木瓜か、椿か。花には、咲く理由がないはずだった。
金の匂いがする。
「炭咲様、執務室はこちらです」
熊捕に案内され、僕は緑埜の執務室へ向かった。廊下の壁には骨董品や古い絵画が並んでいたが、どれにも心は動かなかった。
だが、ある絵の前で足が止まった。三人家族を描いた水彩画だった。父親と母親、それから小さな女の子が描かれていた。
不思議なことに、その絵だけが、まるで内側から光を放っているように見えた。
僕はしばらく見つめていた。
「どうかなさいましたか?」
水彩画の中の父親が、笑っていた。
「行きます」
もう一度その絵を見てから、僕は答えた。
熊捕は執務室の前で二回ノックし、返事を待ってから扉を開けた。室内は中央に長い応接テーブルがあり、壁際には本棚が並んでいた。ブルーグレーの床と洒落た家具は、どれも高級品に見えた。
「お前はそこに座れ。熊捕、お茶を用意しろ。菓子も持ってこい」
「承知いたしました。京都のお土産をお持ちします」
「いや、それは既に客に出したから残っていない。この間の海外出張で買ってきた温泉饅頭がある。それを出せ」
この人は望み通りの人生を手に入れたのだ、と僕は思った。昔から毎日書斎に閉じこもり、家族に背を向けて研究だけに時間を費やした人だった。
週末の家族旅行は時間の無駄だと言い、家で小さなケーキやフライドチキンを注文して済ませた記憶しかない。
家族写真は古いデジタルカメラで撮って家のプリンターで印刷し、小さなアルバムに保管していた。骨の髄まで自分のことしか考えない人間——それが僕の父親だった。
「何をぼんやりしている。座らないのか?」
「単刀直入に聞きます。二時間前に病院から連れ去った女の子は、今どこにいますか?」
緑埜はテーブルの前のソファに腰を下ろした。「座れと言っただろう。話はその後だ」
高圧的な口調は、反論も交渉の余地も許さなかった。僕はステラの話をしたい気持ちを押し殺して、大人しく一番離れた席に座った。
「炭咲様には烏龍茶をご用意しました。饅頭と一緒にどうぞ」
熊捕がテーブルにお茶と饅頭を置いた。
「お話が終わりましたら、お呼びください」
執務室の空気が急に重くなった。饅頭に手をつける気にもなれず、ステラを連れて帰りたいと思った。
長い沈黙の後、父親が口を開いた。
「お前はいつまでそうやって逃げているつもりだ。そろそろ本家に戻って来い」
声は低く、抑制されていた。しばらくして、父親は口調を変えた。
「芙美にも会わせてやりたいんだ」
僕は烏龍茶を一口で飲み干した。熱かった。
「言いたいことはそれだけですか? 何か勘違いをされているようですが、僕はステラの居場所を聞きに来ました。他に話すことはありません」
父親は眉間に皺を寄せ、目を閉じて沈黙した後、別の角度から話を切り出した。
「質問を変えよう。これからあの子をどうするつもりだ」
父親が目を開けた。最初とは違う声だった。
「まさか君が一生面倒を見るつもりじゃないだろうな。お前もまだ子供なんだぞ」
どの口で。
僕はカップを置いた。
「やはりあなたが依頼主でしたか。図星のようですね」
「実の父親に向かって、その呼び方はなんだ。僕はお前をそんな風に育てた覚えはない」
「当然です。あなたのお金で育てられた息子は、七年前の東京大火災で死にました。今ここにいる僕は、ただの他人です」
空のコップを見ていた。
喉が熱い。
「ステラはどこにいますか?」
僕は事務的に尋ねた。
「質問に答えろと言っているんだ! お前には家族としての義務がある!」
返ってきたのは怒鳴り声だけだった。七年経っても、この人は何も変わっていなかった。
「ステラの居場所を教えていただけないなら、ここで失礼します。お忙しい中、ありがとうございました」
「この恩知らずが」
父親がテーブルを叩いた。
「お前だけが被害者だと思っているのか。あの夜に千春と華栄が亡くなったのは、君にも責任がある」
立ち上がりかけた足が、止まった。罪悪感が、肩にしがみ付く。
「いい加減、あの二人の死を他人のせいにするのはやめろ。過去に囚われていても、亡くなった二人は蘇らない。生きている人間は前に進むべきなのが、この世の道理だ」
道理。
綺麗な言葉を知っている人間だった。それだけは認める。
あの夜から、この男とまだ繋がっている。切れないのだ。どれだけ望んでも。
だから厄介なのだ。
僕はもう一度、父親を見た。熱が、胸の奥から這い上がってきた。
「十分説明したから、お前も理解したと思うが——」
父親は携帯を取り出して誰かに電話をかけた。
「これを読め」
書類が、突き出されてきた。
「今日、お前の妹が本社を訪れる予定だ。この際、顔を合わせて挨拶しておけ」
なんておぞましい想像だ。
歯を食いしばった。ソファに背中を預け、天井を見上げる。照明が白く光っている。じっと見ていると、天井が色のついた泥に見えてきた。滲んで、境界が溶けて、どこまでが壁でどこまでが光なのか分からなくなる。
父親の声が、遠くなった。
革張りの椅子が軋む音がした。内線電話を取り上げる気配。熊捕を呼んでいる。
「優香に連絡して、今どの辺りにいるか確認してくれ」
「各務家の来客はいかがいたしますか?」
天井を見たまま、僕は耳だけを向けた。
「契約を果たすまでは帰らないとおっしゃっています」
「各務家に恩を売る良い機会だ。私が契約書を持って直接会いに行くまで、ゲストルームには誰も近づけるな。用事が終わってからそちらに向かう」
各務家。
なぜその名前がここで出てくるのか。
内線を切ると、席を立って机の引き出しを開け、何かを探し始めた。
「最近、お前が仕事を休んでいることは知っている。大した額ではないが、しばらくこれで生活できるだろう。受け取れ」
——ああ、そうか。変わらないでいてくれて、逆に良かったのかもな。
封筒を開ける。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚。
軽蔑できる男だ。
「最後に聞きます」
顔を上げて、父親の目を見た。
「ステラはどこにいますか」
沈黙。時計の秒針だけが鳴っている。
「……またその話か」
父親が、ため息をついた。
「お前は、たかが実験体が、実の家族より大事だと言いたいのか。諦めろ。アレはもうお前の手を離れている」
実験体。
「何ですか、それ」
心臓が跳ねた。
「あの子は僕が街で救ったノバナです」
「これを読め」
父親が書類を突き出してきた。
「お前が救ったという女は、各務家の娘が作り出した禁断の子供だ。これが第三者からバベルに通報されれば——お前は一夜にして重罪犯になる」
手が、震えた。
父親の手には契約書があった。既に社内稟議も通っているようだった。
受け取った契約書を読む。『花と巨樹の遺伝子情報を組み合わせた改良品種の開発に成功した新しい花に関するすべての研究資料を、ミドリエ製薬会社に提供する』。新しい花の詳細欄には、性別の『女』だけがあった。名前も、特徴も、ない。
条件が、良すぎた。空欄が多すぎた。
紙切れなのに、指が冷える。インクは、もう乾いている。
契約相手の会社名には『株式会社各務コーポレーション』とあった。担当者の名前欄は空白だった。
——ならば、まだ間に合う。ゲストルームの場所を、頭の中で確認した。
契約書を畳んで、立った。
「分かりました。僕もその場に同席させてください」
「却下する。一般人が契約に口を挟まれては困る。お前は優香が来るまでここで待て」
「何か勘違いしていませんか?」
僕は穏やかに言った。まるで天気の話をするように。
「はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です」
父親は黙っていた。僕は続けた。
「あなたの娘と僕を二人きりにして、本当に大丈夫ですか?」
僕は微笑んだ。とても自然な微笑みだった。
「もし僕が彼女に話したらどうなるでしょうね。実はあなたは昔、実の息子を実験体にしたことがある、と」
父親の顔に影が落ちた。
「あなたの娘はどう思うでしょうか。きっと興味を持つでしょうね」
僕は椅子に深く腰を下ろした。
「さて、どうしますか?」
空気が裂けた。
頬に平手打ちが飛んだ。口の中に血の味が広がる。鉄のような——懐かしい味だった。
父親が荒い息を吸い込んでいた。もう一度、同じ頬を叩かれた。
久しぶりだった。それでも、痛くなかった。昔より軽い。
「終わりましたか?」
頬を手で拭った。
「随分、弱くなりましたね」
「黙れ。その生意気な口をきくのはやめろ」
父親の声が震えている。
「私の我慢も限界だ。何のために、誰のために——私があのプロジェクトに参加したと思ってるんだ?」
父親の唇が、細かく震えていた。
「結局、家族みんなを道連れにして——残ったのは僕一人だけじゃないですか」
冷たく言い放つ。
「誰のためなんて、もうその言葉は聞きたくない。卑怯ですよ、そういう言い方は」
一歩、前に出た。
「子供だった僕が、親に逆らって拒否できたと本気で思ってるんですか? あなたに責任があるとは考えないんですか?」
もう一歩。
「正直に言ってくださいよ。『僕は失敗して逃げた』『僕は家族を犠牲にしてここまで来た』って——妹の前で、はっきり言ってみてください」
「黙れと言ったはずだ!」
殴られても、何も変わらない。それは分かっていた。この部屋に入る前から。
内線電話が鳴り始めた。一度、二度、三度。父親は受話器を無視したまま、僕を見ていた。鳴り止まない。父親の手がケーブルを掴んだ。引きちぎって、壁に投げつけた。
バラバラ。
飛び散った欠片が頬をかすめ、小さな切り傷を作った。
「気が済むまで殴ってもらっても構いません」
切り傷から血が滲んでいた。拭わなかった。
「ただし、その後は必ず——僕を各務家の代理人がいる部屋に連れて行ってください」
父親は動かなかった。血色を失った顔で、ただ僕を見ていた。作り物の顔だと思った。昔からそうだった。怒る時も、笑う時も、どこか芝居がかっていた。
「お前と口論するのにもう疲れた。勝手にしろ」
椅子に深く座り直して、父親は続けた。
「だが、お前はあくまで熊捕の代理で参加することを忘れるな。独断で妨害するようなら——会社としてお前を相手に訴訟を起こす」
窓の外に目をやってから、こちらを向いた。
「返事は?」
「分かりました」
ソファに身を沈め直し、頬の血を拭った。布地に赤い跡が残った。気にしなかった。窓の外は、まだ白かった。冬の街が、音もなくそこにある。この部屋で何が起きても、外は何も変わらない。それが、少し羨ましかった。
ステラと離ればなれになってから、まだ半日も経っていない。
それなのに——半日しか経っていない。
熊捕から譲り受けた饅頭を、ポケットに忍ばせた。布越しに、温度が伝わってくる。早く、会いたかった。それだけだった。




