第四話 罠と拉致
部屋に戻ると、すでに宴会の準備が整っていた。畳のテーブルには、見たこともない豪華な料理が並んでいる。
サーモンの刺身、色とりどりの前菜、香ばしい鶏の炙り焼き——どれも美味しそうで、何から手をつけるか迷うほどだった。
僕はテーブルの端に座り、オレンジジュースをすすった。ステラは皆に囲まれて可愛がられている。
あの輪の中なら――たぶん、今だけは。
僕が抜けても、崩れない。
「パパ、ステラのおくち、ひりひりする!」
ステラが涙をぽろぽろ流しながら抱きついてきた。何が起こったのか分からず、鼻水を拭いてあげる。
「ステラ、わさび入りのお寿司食べた?」
ツンとした匂いが口から漂っている。わさびはまだ早かったか。苦しそうなステラにオレンジジュースを飲ませた。
「もうやだ! ステラ、おスシきらい」
サーモンの刺身を差し出しても、ステラは顔を横に向けた。わさびが入っていない寿司さえ拒否して、僕の懐に顔を埋める。『羹に懲りて膾を吹く』とはこのことか。ステーキも舌で味わっただけで、すぐに口を閉じてしまった。
……笑えない。子どもの『嫌い』は、意外と長引く。
「姉さん、急用で今日の定期検査をずらしたいって、さっき先生から連絡があったのよ。どうしましょう」
他の姉妹からの報告を聞いたこひなが、一升瓶の日本酒を持って隣の席に座った。『千光』のラベルがある黒い瓶を開けて、檜の枡に立てられた枝垂桜のグラスに酒を注ぐ。
馨しいアルコールの香りが部屋に広がり、嗅いだだけで酔いそうになった。落ち込んでいたステラも匂いに興味を示し、好奇心に満ちた瞳で身を乗り出そうとする。
「無理を言って約束を取ったのは私たちですもの、来週でも構わないとお伝えしておきますわ」
こひなは枡を天井に向かって持ち上げた。
「みんな、席に着いて乾杯しましょう。今日は私たちの食事会に初めてお客様をお迎えしたのですから、もっと楽しくいただきましょう——乾杯!」
賑やかな雰囲気の中、僕はサラダを一口食べた。元気を取り戻したステラは、わさびのことを謝りに来たお姉さんたちから逃げるように部屋の中を走り回っている。
他の人たちはカラオケ機器の前で仲良く歌を歌っている。楽しくも混沌としたディナーパーティーだと、ジュースを飲みながら思った。
「首、まだ痛む?」
こひなが話しかけてくると、日本酒の香りがほのかに漂った。目は半ば恍惚としており、力の抜けた体をテーブルに寄せかけて、僕に向かって優しく微笑んでいる。色白の頬が紅潮するまで、酔いが回っていた。
この目――言葉を投げても、返ってくるのは泡みたいな笑いだけだろう。
氷を入れた水をこひなに渡した。
「あら、気にしてくれるの? 優しいのね——」
こひなは冷えた水を一気に飲み干すと、そのままテーブルに突っ伏した。かえって酔いを加速させてしまった。軽く肩を揺さぶったが、反応がない。耳を傾けると、すでに深い眠りに落ちて寝言を呟いている。
「お姉さまに馴れ馴れしく触らないで」
酔っ払っていても怒った顔は変わらない奈緒美が、いつの間にか同じテーブルの前に座っていた。
「今、居眠りしているお姉さまに手を出そうとしたでしょう。このド変態野郎」
「眠ってしまったこひなの様子を確認しただけです」
「優しさを装えば、胸を揉んだのも帳消し?」
「……違います」
「じゃあ土下座して。今すぐ」
奈緒美は笑みを浮かべていたが、その声はどこか震えていた。
「全部、あんたのせいだよ」
奈緒美が僕を見据えた。
「あなたが私たちの平凡な日々を壊したのよ。なぜ来たの? なぜ私たちにあなたの世界を見せたの? 永遠に知らない方がよかったのに」
僕の世界が奈緒美の大切な日常を壊したという自覚も、その理由も思い当たらなかった。何か言い返すべきなのだろうが、言葉が出てこなかった。気まずさを紛らわすように、テーブルの上のおにぎりを一つ手に取る。中には鮭の腹身が入っていた。
「奈緒美ちゃん、嫉妬は程々になさい」
こひなの声に驚いて、ご飯が喉に詰まった。寝落ちしたと思ったこひなが、テーブルに伏せたまま、ぼんやりした横顔で奈緒美を睨んでいる。酔っていた目は元通りに生き生きとして、脳裏に深い印象を残した。
奈緒美の顔が、ぐしゃっと歪んだ。
「……お姉ちゃんに嫌われた」
小さな声だった。それから、泣いた。
「泣かないの、泣かないでね」
ついでに眠りから起きたステラも啜り泣きを始める。ステラの泣き声に狼狽えて、僕は背中を撫でて落ち着かせた。
「うちもそれ欲しい」
奈緒美は僕の左手を自分の頭に乗せて、自ら撫でる真似をした。どうしようもない状況で、隣にいたこひなは黙って口を結んでいたが、眼差しに微かな笑みを交えていた。
「女たらし」という目だった。
気づいた時には、奈緒美は誰かに連れられて消えていた。
ステラは泣き疲れて、僕の袖を掴んだまま眠った。
テーブルに、ようやく静けさが戻った。
「悪くは思わないでちょうだい?」
こひなが話を切り出した。
「みんなは今まで——四角い部屋で眠って、目を覚ましたら昨日と同じ化粧を施して。そうやって毎日を生きてきたの」
彼女はジュースの入ったグラスの縁を、人差し指でそっと撫でた。
「ところがある日——まったく違う形の人生を持った炭咲とステラちゃんが、私たちの世界を訪れた」
グラスを見つめたまま、唇だけが動く。
「その日、華奢なみんなの世界は——壊れてしまったのよ」
微弱な振動がグラスに伝わり、細い笛の音が鳴り響いた。
撫でたはずの指先が、逆に撫で返されるみたいで――
グラスが、薄く泣いた。
その涙の跡を辿るように――やがて、罅が入った。
「女の子は認めたくない時、主体となる存在に憧れて、そのうち嫉妬してしまうものよ。奈緒美ちゃんを除いて、他の姉妹たちが炭咲を歓迎しても名前は教えない理由も、きっとそれが原因だと思うわ」
「複雑ですね、女の子は」
僕は食べ終わったおにぎりを皿に置いた。
「そうね。でも、それが女の子よ」
気だるそうな口調で話を終わらせたこひなの口元に、苦笑いがかすめた。
「こひなは強い女性だと思います」
「あたしが?」
こひなは疑問を呈した。
「案山子と戦った時のことを話している?」
僕はしばらく沈黙して、それからわざとらしく咳払いをした。
「こひなの話の通りなら、僕は皆さんにとって——気まずい相手ですよね」
少し、時間を空いた。
「同じノバナである他人のステラが、僕を『パパ』と呼ぶ。その存在は、相対的に『剥奪』された感情を呼び起こすトリガーになると思います」
こひなの表情を窺う。
「それなのに、こひなは気にせず僕と会話を続けている。もちろん、隠してる本音は違うかもしれない——けれど、少なくとも僕にはそう見えます」
その中で、こひなはよく耐えている。彼女の過去は知らないが、同じノバナとして尊敬できる心構えを持った人だ。
「あたし、今、炭咲からすごく褒められたのね? な、なんか照れちゃう……ありがとう」
照れるこひなは珍しかったが、小声で次の話題に移った。
「そうだ、炭咲もあたしたちと一緒に共通テストの準備しない? 週明けの月曜か火曜、予定空いてる? 場所は新宿の知り合いのカフェなんだけど」
なんか顔が赤い。目も合わせてくれない。
「……どう? 来られる?」
「一人で勉強したんですか?」
「常連さんの秘書にお願いして、色々手伝ってもらったの。共通テストの対策用の参考書も買ってもらったり、白花を第一志望に決めて面接の練習もしたのよ。案外、テストの成績は他の受験生に比べて高い点数をもらえたと思うわ」
久しぶりに話し相手を見つけたかのように、こひなは次々と僕が志望した花道について尋ねてきた。
「赤花です。実技試験がメインで行われる花道で、白花よりハードルが低いんです」
「赤花だったんだ。トゲの種類を聞いたら、失礼?」
僕は自分の両腕を前に出して見せた。
「特別なトゲではありません。ただの再生力がチートレベルの体を持っています。ただ、ここには事情が——」
そう言いかけた時、大量の鼻血が畳に流れ落ちて、話が途中で止まった。昨日、無理して体を動かしたせいで副反応が出始めたのだ。
テーブルにある紙ナプキンで応急処置をして、携帯の連絡先から『香月』の名前を検索したが、突然電波の受信状態が圏外と表示された。
「よくあることなので、心配しないでください。血はすぐ止まります」
こひなを安心させようと笑顔を作り、小鼻をつまんで圧迫した。
出血はなかなか収まらなかった。鼻に詰めた紙ナプキンが血で赤く染まり、その先から小さな血の雫が畳の上に滴り落ちた。
「ここ、電話が使える場所はありませんか?」
僕は慌てるこひなに向けて聞いた。
「外に――外に繋がるものが要る。電話でも、パソコンでも、なんでもいい」
「内線はあるけど、新吉原の半径百メートル以内は通信妨害がかけられているから、外との通信は繋がらないの」
こひなはすぐに冷静さを取り戻して、対案を出した。
「裏の通路があるわ。でも急がなきゃ——ほら、ついてきて!」
眠ってしまったステラを部屋に残し、僕はこひなと一緒に廊下を駆け抜けた。止まらない鼻血が、廊下に点々と滴り落ちる。けれど、もう気を遣う余裕はなかった。
壁に囲まれた迷路のような通路。その先に、ブロンズ製の時計針式フロアインジケーターとエレベーターの扉があった。
ガラス張りの外扉と蛇腹式の内扉——二重になった扉を手で押し開けて乗り込む。こひなが何も書かれていないボタンを素早く押して、レバーハンドルを操作した。
古いエレベーターが静かに動き出す。錆びた機械音とともに、下降していく。扉の外には木造の壁が迫り、下の階は見えなかった。
やがてこひながレバーハンドルを下ろして——黒い廊下がある階で、エレベーターを停止させた。ここも上の階と同じ構造だ。
「さっき連絡しようとした人って、東京都内にいる? それとも関西の方?」
僕は鼻を押さえて答えた。
「花園大学医学部附属病院にいます」
「名前は?」
「小児科の香月モネと言います」
名前の情報を聞いたこひなは、今度は後ろにある東京地図から病院がある文京区を指で押して、再びレバーハンドルを上に上げた。
「落ちるみたいに揺れるから、掴まって――離さないで」
鉄がぶつかる音が、耳を塞いでも奥まで差し込まれるように聞こえてくる。不安定な状態の中で、僕は片手で安全バーを握り、なるべく壁側に体を密着させた。五分ほど移動した後、エレベーターが停止すると、外扉の向こうにもう一つの扉が現れた。
どこかで見覚えのあるドアだった。僕は恐る恐るドアを軽くノックした。
「午後は休診だ」
ドアを開けると、下着姿の香月がいる診察室だった。新吉原から病院までの所要時間は分からないが、五分で来られる距離ではないことだけはよく知っている。
午後は休診――そのはずだ。
手首の時計が指す日付を見た瞬間、胃の奥が冷えた。
火曜のはずが、金曜になっている。
新吉原に一晩泊まっただけなのに、外では三日が経っていた。
三日。
僕はもう一度、時計の日付を見た。
「突然お邪魔してしまって、本当に申し訳ありません。私、新吉原で働いておりますこひなと申します。こちらの炭咲様のお体に異変が起きて、急いで参りました」
こひなが丁寧な仕草で頭を下げて謝罪を申し込んだ。
「お手数をおかけしますが、休診やのに申し訳ないんですけど、一度だけ診てもらえませんでしょうか」
「おい、ちょっと待て。鍵をかけたはずなんだが、どうやって入った?」
気まずい。
とりあえず挨拶を交わして、鼻の状態を遠目に見せた。深刻さを察したのか、香月はハンガーラックから白衣を取り出すと机の前に座り、刺々しい表情で僕を睨んだ。説教の準備万端、といった様子だ。
「えらい怒られそうね。昔からの知り合い?」
「僕の叔母です」
ため息をつく。
「本来なら自分で何とかしたいところなんですけど……今は仕方ありません」
「家族なのに、どうしてそんなこと言うの?」
こひなの声音は静かだった。まるで関心がないかのように、淡々としている。
「借りを作りたくないからです」
こひなは「一時間後に迎えに来るわ」とだけ言い残して、ドアを閉じた。
静かになった。
ドアの小さなガラス窓から、廊下を行き交う人々の影が見えた。
「何突っ立ってるんだ。さっさとこっち座れ」
厳しい声に、思わずビクッとする。
文句を言う隙もなく、香月の言葉に従って患者用の丸椅子に座った。
香月はさっそく引き出しから鼻血ストッパーを取り出すと、赤く腫れた鼻の穴にグイッと差し込んだ。
「ちょ——」
小型冷蔵庫から氷嚢を取り出して、僕の首の後ろにポンと乗せる。
続いて、鼻血をサンプル容器に採取し、机上の顕微鏡で観察し始めた。
「あの火災、お前がやったのか?」
顕微鏡から目を離して、ペンライトで僕の眼球を右と左の順で確認した。
「それとも偶然が重なった事故?」
僕は鼻が詰まった声で言い返した。
「信じないと思いますが、当日の朝、園内に怪しい者が侵入しました」
首に手を当てた。
「これはあの時の戦いで無理をして出来た傷です」
「つまりお前は無関係ってことか?」
「……分かりません。首を斬られて——その後の記憶がないんです」
相手が身を乗り出し、僕の首を覗き込んだ。
「嘘じゃなさそうだな」
相手は腕を組む。
「首の傷、七年前のと似てる」
立ち上がって引き出しを開けた。
「薬は左の二段目。水と一緒に飲め」
「ありがとうございます」
お礼を言って、引き出しの中からお薬を探した。まだ販売されていない試作品をピルパックから二個だけ取り出し、お水と一緒に飲み込んだ。お薬の効果は、胃袋の中で消化液に溶けるまでの五分後に現れる。
「成子さん、お疲れ」
香月が受話器を取りながら言った。
「第七研究室に連絡して、共有ラボのシート確認してくれ。今から一時間後だ」
電話の向こうからの返事を聞きながら、香月は疲れた様子で頷いている。
「空いてるか? そうか、ありがとう。じゃあ予約頼む」
少し声が柔らかくなる。
「駅前のパン屋、新作出るらしいから今度奢るよ。ああ、じゃあな」
受話器を置くと、香月は深いため息をついた。そして僕の方を振り返る。
「それをおとなしく着てついて来い」
ハンガーから私服のコートを投げてくる。
「まだ、さっきのお姉ちゃんが来るまで時間あるだろ? 今日こそ精密検査させるからな」
逃げ場はない。
受け取ったコートを着て、ポケットのマスクで顔を隠した。女性用だから袖が長いが——外から見れば、子供が姉のコートを借りてるように見えるはずだ。
病院の廊下に出る。
香月が先を歩いた。人の少ない通路を選んで、研究棟へ向かう。エスカレーターは避けて、階段から二階の連絡橋へ。
前回来た時、ここはまだ工事中だった。
今は完成している。セキュリティカードがあれば、誰でも出入りできる。
僕は訪問シートに名前を書き、一時的なカードを受け取った。
連絡橋のゲートを通る。警備員が一瞥したが——何も言わなかった。
共有ラボまでの廊下、香月は黙ったままだ。足音だけが響く。
だが、検査室に着くまで、何も言わなかった。
「最近、何かいいことでもあったか?」
カルテの内容を確認しながら、香月が訊いてきた。
「特に……何もないと思います」
ふと、ステラの顔が浮かんだ。
「三日前から、僕をパパだと慕っているノバナの面倒を見ています」
香月はカルテを机の上に置いて、かけていたメガネを布で拭いた。
「どうかしました?」
「カルテの結果、春くんはどう思う?」
「……去年よりは平均値に近い数値でしょうか?」
「ああ、見た通りだ。木炭化が進行した割合に対して、体の成長もある程度進んでいる。血液中の樹の一族を攻撃していた白血球の数値も下がって、去年より健康な状態だ」
再びメガネをかけた香月が、カルテをめくりながら話を続けた。
「話が変わるけど——まだ聖次郎のこと、恨んでる?」
香月が遠慮がちに訊いてくる。
診察室の白い壁に囲まれた空間で、その名前を口にするのは——古い傷口を再び開くような行為だった。
聖次郎。
父親が緑埜家の女と結婚して、婿養子になる前の旧姓。僕のかつての苗字でもある。
炭咲は、僕が施設に入って一年経った時、院長の提案で付けた苗字だ。火事から生き残った意味を込めて、付けてくれたらしい。名前だけは自分で決めたいと言って——母と同じ名前を、戸籍に載せた。
「ええ」
即答する。
「あいつはママと華栄を殺した真犯人です。しかも実の息子を実験体として扱って、最後は見捨てた——人間以下の奴です」
息を吸う。
「まだ恨んでいるかって訊きましたよね。答えは、はい。まだ恨んでます。一生恨み続けると思います」
しばらく視線を天井に向けて、小さく息を吐いた。
もう一度あいつのことを想像すると、血が沸いてくる。
「あいつが何を企んでるか知りませんけど、最近、僕の携帯に電話かけてくるんです。また、しょぼい研究の実績のために僕が必要なんでしょう」
「なるほど……分かった」
香月はそれだけ言って、口を閉じた。
何かほろ苦そうな表情で僕の顔を眺め、頬に手を添えてくる。
でも、僕はその優しさを受け取れなかった。
ただ棚の研究備品が、ガラス越しに放つ冷たい光を見つめ続けていた。
「診察室に戻るまでの間——一緒に暮らしてるノバナって子のこと、話してくれないか」
「ステラのことですか? 特に研究のネタにはならないと思いますが」
香月が僕の鼻を軽く掴んだ。
「医療報告書って名の退屈な書類に囲まれた生活を送ってると、時々まったく違う種類の話が聞きたくなる」
香月が肩を竦める。
「俺は今まさに、そんな気分だ」
香月が奢ってくれたカフェラテをテイクアウトして、ベンチに座る。久しぶりに香月と仕事以外の話ができて——なんだか、テンションが上がった。
ステラと最初に出会った時のこと。案山子との戦い。新吉原の花魁との出会い。
全部話した。
香月は特に案山子のことに興味を示した。どんな動きをするのか、心臓の代わりに懐中時計を原動力にした生物なのか機械なのか——そんな質問を次々と投げかけてくる。
論理的に説明できない部分は、適当に誤魔化した。
会話を交わしてから、だいぶ時間が経った頃。
アナウンスが、流れた。
『コード名、ブルー——』
「炭咲!」
二階の連絡橋から僕の名前を叫ぶ声が一階まで響く。
顔を上げてみると、二階から顔を出したこひながいた。人形も纏っていない生身の姿で、何か急用があって訪ねてきたのかもしれない。
「ステラが、黒いスーツの男たちに連れ去られたわ。今一階に向かってる——絶対に逃がしちゃダメよ!」
一階を見渡す。
車椅子に乗った患者とそれを押している保護者。休憩中のスタッフ。走りまわる看護師たち。
その時——黒いスーツの男たちが、人混みの中から現れた。
奴らだ。
手にしていたコップを近くのゴミ箱に放り込み、前を歩く男性に声をかけた。
「鴉が昼間から病院に何の用だ?」
男たちがざわついた。僕の顔を知っている。だが、この男は違う。ステラを持っていない。
他にいる——
「パパ! ステラ、ここだよ!」
ステラの声。同時に物陰から老人が袋を取り出す。
「炭咲、その人が——」
影が、ステラを呑み込んだ。
老人が地面に手をつき、影へ引き込まれていく。僕は他のカラスを払いのけて、老人の首筋を掴んだ。
「ステラを出せ。今すぐだ」
有無を言わさぬ口調で相手を見下ろした。首筋や露わになった肌が、焼けて赤く染まってゆく。しかし、相手がいかに震えようとも、僕はその両腕も両脚も微動だにさせなかった。
「なるほど、噂に違わぬ」
血を吐きながら、老人は口元に苦笑いを浮かべた。
「敵と見なした者には容赦せぬ御坊ちゃんじゃのう」
言い終えると同時に、老人の体は砂のように崩れ、暗闇の中へと消えていった。
依頼主が、僕の存在を知っている。
その上で、目の前でステラを敢えて攫った。
罠か? いや、まだ確信はできない。
周りの皆が、僕を見ていた。
騒ぎに驚いて体をすくめる者、逃げ出す者。人混みが動く中で——動かない人間が八人。
一人だけ、他の七人に目を配っている。あの人が、リーダーだ。
「相手は一人だ。油断せずに一気に取り囲め」
リーダーの指示に従い、七人のカラスが武器を構えて迫ってくる。
最初の二人が左右から挟んだ。
半歩引いて腰を捻る——けれど三人目の足払いでバランスが崩れた。
四人目のトゲが、左の二の腕を浅く裂く。血が滴った瞬間、木炭化した傷口で火花が散った。
血は蒸発し、薄い煙になる。破壊と修復が、同じ呼吸で起きている。
残りの三人が一斉に距離を詰めてくる。
右に転がる——七人目が、既に回り込んでいた。
ズバッ。
右肩を掠めた刃が、また新しい煙を作った。
両腕に炎が宿った。灼熱の血が血管を駆け巡る。
紅蓮の光が、七人のカラスの顔を照らす。
「一人だけ——本拠地を吐け」
静かに告げる。
カラスたちが、互いに目を見合わせた。
「三秒待つ。そいつだけは、灰にしないでやる」
周囲の空気が、言葉と共に焼けた。
カラスたちの瞳に映るのは——暖炉の奥で燃える人影。
これは比喩じゃない。最初に飛び込んできたトゲが、僕の掌に触れた。
ジュッ。
音を立てて灰になる。
次の刃も、その次も——触れた瞬間に崩れた。後方にいた三人が、動きを止めている。仲間の悲鳴が、参戦を躊躇わせていた。
「時間だ」
地面に散らばった残骸を、掌に掬い取る。
木炭の手で握りつぶした——灰が零れる。喉の奥に、苦い味が張り付いた。
掌の灰を、リーダーらしい男に向けて——大きく、両手を打ち鳴らす。
火の種が、それと混ざる。
ドォン。
爆発の轟音が、思考を吹き飛ばした。
爆発の衝撃で、僕は病院の外まで吹き飛ばされた。
アスファルトに叩きつけられる。
金属音が、耳の奥で鳴っている。口の中に何か転がった——自分の歯だ。
生きている。なら問題ない。
病院の階段を、一段ずつ上がる。肋骨の隙間に、赤い肉が戻ってくる。最後に顎が閉じられるようになった。
ロビーに戻ると、リーダーらしい男が肘で這っていた。灰を踏みながら近づく。男が振り返る——動きが、止まった。
つま先を、男の左脚に置く。
「本拠地を言いなさい」
「わ、分かった。おれが全部——」
男の体が、煙のように消えた。
背後から殺気。反射的に身を捻ろうとして——倒れた看護師が目に入る。
動きを止めた。
ズブリ。
背中に刃が刺さる。大量の血が、青い刀身を伝って滴り落ちた。
「人を殺しておきながら——今さら良心を見せて、何になる」
爆発を生き延びたカラスが、荒い息を吐いている。
血走った目で、こちらを睨んでいた。額から血が流れ、刀の柄を握る手が震えている。
相手の能力は、分からない。
分からないのに——身体だけが、勝てる形を探してしまう。
嫌な癖だ。
一瞬の躊躇が、ステラの命取りになりかねない。早く決着をつけて、彼女を見つけ出さないと。
体力の限界も近い。ここでカラスを、完全に無力化する必要があった。
「カラスにだけは、人聞きが悪いことを言ってもらいたくないな。それを言うならお互い様じゃないか? 僕だって、カラスのせいで散々な目に遭った」
「たとえ同じ目的で動いているとしても、人殺しのバケモノと私たちを同列に扱うことは論外だ」
「論外? 僕が体で刀を受けなければ、看護師が代わりに斬られていたと思うけど、これはどう説明する?」
「君に教える義理も義務もない」
男は呼吸を整えて、身を低く構えた。
突撃の姿勢。
相手は刃を扱うプロだ。距離を置いても、長いリーチとトゲの射程——僕には不利に働く。
一か八かの賭けに出るしかない。
僕はその懐に飛び込んだ。振り下ろされた刃を——左肩で受け止める。
ズシッ。
その一瞬の隙を突いて、武器を奪い取った。襟首を掴んで、全身で相手に密着する。
肌が焼ける。カラスが必死にもがき始めた。まるで狂ったように身を捩らせながら、絶叫し続ける。
「子供をどこに連れて行ったか——教えてください」
「……分かった、分かったから放してくれ」
「本拠地はどこにありますか?」
「と、虎ノ門だ。とらの――」
微かな声で駅名だけを言い残して、カラスは気を失った。虎ノ門にはバベル直下の機関があり、あいつが勤めている緑埜家の本社もある。
僕は倒れたカラスからスーツを脱がせて、肩にかけた。サイズが大きい部分は折り込んで着る。
靴も必要だ。床に落ちていたスリッパを拾って履いた。
「炭咲?」
人混みの中から、こひなの声が聞こえた。
僕は耳を塞いだ。
倒れたカラスに近づき、上着から業務用の携帯を抜き取った。
鼻血が垂れる。スーツの袖で拭いながら、病院を出た。
駅まで——一度も、振り返らなかった。
携帯の画面ロックを解除し、連絡用のアプリを開く。
グループチャットに、現状の報告を求めるメッセージが届いていた。
僕は高橋に代わって答えた。
「始末しました。本社に戻ります」
最初の送信時刻は約一時間前だった。
新吉原から病院に着いた直後——もう動いていた。
口の中の甘さが、消えた。
時間が合わない。
見つかってから攫われるまで——早すぎる。
追いかけてきたんじゃない。
最初から——ステラは、僕を呼び寄せる餌だった。




