第三話 日陰に咲く花(下)
「ちょ、ちょっと待ってください。ステラと一緒に女湯には入れません。ここに男湯はないですか?」
僕は慌てて言葉を詰まらせた。
「男湯?」奈緒美が僕を冷たく見る。「あのね、私たち全員、何年も『子供』のままなの。男も女もないわ」
その言葉の重みが、胸に沈んだ。僕は何も言い返せなかった。
「それに、今は誰も風呂場使ってないから。さっさと入りなさいよ」
「あの、僕は服を着たまま外で待ってます。ステラが出るまで——」
「は? 何を言っているの? 先にステラを入れさせてからあなたが風呂に入ればいい話でしょう?」
ルールより先に「恥ずかしい」を教えたい。そう訴えたかったが、奈緒美に急かされ、僕は仕方なくステラと風呂場へ向かうしかなかった。
「お邪魔します」
念のため外から丁寧にノックをし、声をかけてから扉を開ける。中は思ったより広く、洗面台には数多くのスキンケア用品が並んでいた。
僕は脱衣所の隅に腰を下ろし、壁に背を預けた。Tシャツの袖から見える両腕には、七年前の火傷の痕が黒く残っている。木炭化した皮膚は、どんな治療でも元に戻らない。
残された時間で、この子を守れるだろうか。守らなければならない。でも僕は——
深いため息をつき、立ち上がる。洗面台の鏡が目の前にあった。
顔を洗い、鏡に映った自分の顔を眺める。
首が斬られる感触は確かにあった。「確定死亡」——一度そこまで陥った僕が、こうして生きている。違和感しかない。もしかすると本物の僕は死んで、鏡の中にいるこいつが体を乗っ取ったのかもしれない。
そんなことを考えながら顔を確かめていると、首の辺りに黒い一線を見つけた。曇った鏡を水で洗い流し、目を凝らす。
傷跡は首輪のように、後ろまで繋がっていた。試しに石鹸で洗ってみる。指先に力を込めて擦ってみる。消えない。両腕と同じだ——七年前の火傷の痕と。
「なるほど、そういうことか」
首まで広がった。七年前は両腕だけだった木炭化が、今は首を一周している。細胞の再生力が、皮肉にも僕の体を内側から炭に変えていく。手術でも治らない。止められない。
残された時間は、さらに短くなった。
「ステラ、僕は廊下で待ってるから終わったら着替えてから出てね」
「えぇぇ、パパも一緒に入ろう!」
ステラは少し不満そうだったが、頷いて浴室の奥へ向かった。
しばらくすると、ステラの笑い声が外まで響いてきた。水遊びを楽しんでいるようだ。その声を聞きながら、僕は天井を見上げた。今みたいに誰かを待つ時間は久しぶりだった。
しばらくしてステラが廊下に顔を出した。
「パパ、お風呂すごく気持ちよかった!」
服は着ているけど、濡れた髪から水滴が滴り落ちている。
僕は中に入って近くにあったタオルを取り、ステラの頭を優しく拭いてやった。
「パパ、くすぐったい」
「じっとしてないと、風邪ひくぞ」
小さな頭をタオルで包み込むように拭く。ステラが嬉しそうに笑った。
「はい、もう大丈夫。服着て、部屋で待っててね」
ステラが部屋へ駆けていくのを見送って、浴室へ向かった。
ようやく一人になった。これで一安心できる。
そう思った僕は冷たい水で泡を流して、アヒル天国と名付けられた湯船に足を入れた。期限が短くなっただけだ。やることは変わらない。
湯に身を沈めながら、僕は目を閉じる。
まだ体が動くうちに、ステラの親に連絡しなければ。困難を考えると気が遠くなるが、共通テストが延期になった今、時間だけはある。余った時間をステラのために使うのは、そう悪くない。この体が完全に壊れてしまう前に——
風呂に入ってからも落ち着かず、様々な雑念が頭を巡る。
そんな時、扉が開く音がした。誰かが入ってくる気配。
「ステラ、忘れ物でも合ったか? 床が滑りやすいから、僕が上がるまで外で待ちなさい」
「はい、パパ。気をつけます」
穏やかな口調で返事が返ってきた。
——敬語?
一瞬、違和感が走る。ステラは僕にだけ特別に甘える子だ。他の人には人見知りするくせに、僕にだけは距離を置かない。そんな子が急に敬語を使うなんて。
その時、かぶっていた湯桶が取られた。
「えへへ、パパみ——つけた! パパも、かくれんぼする?」
明るいステラの顔が目の前に迫る。驚いて反射的に体を起こした——
ゴツン。
「いたいよぉぉぉ! パパのばか——!」
額同士がぶつかり、ステラが床に尻もちをついて涙を流した。慌てて体を起こそうとした瞬間、めまいが襲う。そのまま意識が飛んだ。温かいお湯の中で体が深く沈み、浴槽のタイルが背中に当たる感触だけが残った。
気を取り戻した時、風呂場の外に寝かされていた。
天井が見える。畳の匂いがする。ステラの声は——聞こえない。
起き上がろうとして、頭に痛みが走った。それほど時間は経っていないようだ。視界の先に、見慣れない顔があった。
「す、すみません。お世話になりました」
正確には、太ももを枕にされていた。花魁は目を閉じている。さすがに迷惑をかけたと思い、その場で土下座して謝った。
しかし花魁は何も反応しない。
一人で言い訳をぶつぶつ述べていると、ふと疑問が湧いた。これは誰のための謝罪なんだろう。そう思った頃、後ろからくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「炭咲、一人で何してるの?」
振り返ると赤髪の少女がいた。トレーにウーロン茶のグラスを三つ載せている。
僕の顔が一気に熱くなった。少女の髪より赤いかもしれない。慌てて床のタオルを拾い、体を隠して座り直した。
初対面で最悪の出会い方をしてしまった。顔も上げられない。
「恥ずかしがることないのよ。人がお湯で倒れることは普通ではないけど、事故だから仕方がない」
笑みを浮かべたまま褒め続ける彼女を見て、僕は慌てた。
「誤解です! 奈緒美さんが男湯はないからって——」
言い訳しようと顔を上げた瞬間、目が合う。
——この瞳、どこかで。
僕は人の顔を覚えるのが苦手だ。でもこのオレンジ色の瞳には覚えがある。
「ひょっとして……花魁さん?」
少女が目を丸くなった。そして何も言わず、背中に手を回した。
「今まで僕が対面したのは、人ではなく人形だったんですね」
僕は抜け殻のように座っている花魁を眺めた。
「驚いた? 一応、各務コーポレーションが作ったモデルの中で最も人間に近い人形だよ」
大人の体から出てきた彼女は、人形の半分ほどの大きさしかない。
大人になった花魁の姿は、まるで未来を予測したかのように完璧に再現されている。本物の人間と見分けがつかないほど精巧で、触れば体温すら感じられる。
「成長が止まった人のために開発された医療器具だと聞きました」
「普通の外見を手に入れたい人々のためにも販売はしているの。一体で二千万だけどね」
少女になった花魁は、苦い笑みを浮かべた。
「花魁を近くで見た感想はいかが?」
「感想ですか……」
困った顔で小さな花魁を見上げる。
「普通に可愛くて綺麗な方だと思います」
「でしょう? あたしもそう思うの。だからこっちの体はあまり好きじゃないのよ」
花魁の反応に驚いた。思わず言葉が続いた。
「あの、違います! 今のは生身の方の話で——」
「え? あたしのこと?」
「はい。顔がもともと可愛いから、人形の方も可愛く見えるんだと思います」
花魁の目がまた大きくなる。
「生身のあたしが可愛いって、変な褒め方ね」
床に座り込んだ彼女が、静かに顔をあげた。さっぱりとした、迷いのない表情だった。
「あ、あの! 生身っていうのは裸って意味じゃなくて、人形じゃない方って意味で——」
言い訳すればするほど墓穴を掘っている気がした。
「炭咲は変わってるわね。でも悪くなかったわ。ありがとう」
花魁がウーロン茶を差し出した。
「飲んで。話はステラを連れてきてからね」
一人残された僕は、人形から距離を取りながらウーロン茶を飲んだ。二人が戻るまでじっと待つ。時計のない場所では一分がやけに長く感じる。暇つぶしに氷を口に放り込んだ。
「ね、ちょっとあたしのところに来てもらえる? 相談したいことがあるの」
呼ばれて向かうと、拗ねたステラに花魁が手こずっていた。床にはおもちゃが散らかっている。ステラは部屋の隅で背を向けたまま、僕の足音に気づいてちらっとこちらを見た。でもすぐに壁の方を向いてしまう。
原因は僕だ。だからおもちゃでもお菓子でも機嫌は直らなかったんだろう。
「ステラちゃん、聞いてくれる? 大好きなパパが話があるみたいよ」
花魁が片手でステラの背中を撫でながら、もう一方の手で僕を手招きした。
「炭咲、そうでしょう?」
僕は急いで花魁の隣に正座し、ステラの反応を待つ。
「……本当に?」
ステラが振り向いた。おでこには大きな絆創膏が貼られている。小さな手でそれを隠しながら、僕を見つめる瞳には涙が滲んでいた。
『嘘つき』
心の奥で、もう一人の僕が囁く。
『本当は謝りたくないくせに。ただの自己満足だろう?』
それでも、頭を下げた。
「本当にごめん。僕が気を抜いたせいで、ステラを傷つけた」
「パパもここ痛い?」
ステラが僕の額を撫でてくれた。
「パパにもあげる」
手のひらから取り出したのは、つぶれた絆創膏。動物のキャラクターが描かれている。
「パパもステラも一緒だね!」
ステラがテープを剥がし、僕の額に貼り付けてくれた。
「痛みを分け合うのか」
僕の呟きに、ステラが小首をかしげる。
「ありがとう。おかげで楽になった」
何も知らないステラが僕に抱きついて、幸せそうに笑った。
やはりタオル一枚では済まない。服が必要だ。僕は花魁にステラを任せ、着替えに向かった。
「着替えならここにあるわ。フリーサイズだから合うと思う」
用意された服は、黒地に格子柄の入った浴衣だった。フリーサイズでも袖と裾が余り、紐で固定する。着てから気づいたが、ステラの浴衣と同じ柄だった。
「うん、やっぱりあたしの目に狂いはなかったわ。ステラちゃんと並んでみて? すごくお似合いよ」
「この服、かなり高級品に見えますが、もらっても?」
「全然平気。むしろ着る人がいなくて捨てるところだったの。それより、スマホ持ってない? 二人の写真撮ってあげるから、早く持ってきなさい!」
急かされてキャビネットからスマホを取り出した。だが、昨日から充電していないせいで電源が切れている。
「充電してないんですか? もう……」
花魁がどこからか電源アダプターを持ってきて、充電を始めた。そして無事に、僕たち二人の写真を撮ってくれた。
「ここまでする必要が?」
花魁が撮った写真を選び、液晶画面を僕に見せた。
「あるわ、きっと。時間が経っても写真は残るから」
細い眉が微かに震える。
「大したことじゃないけれど、いつか今の記憶が、止まった時間を動かす力になる日が来るわ」
「でも……偽のパパ役が、勝手に名前を付けて、勝手に家族ごっこを続けたとしても。別れが決まっている関係を、写真で残しても意味がないんじゃないですか? 幼い頃の記憶なんて、一年経てば忘れます」
思わず口に出していた。
「すみません。失言でした」
花魁が右頬にえくぼを刻み、丁寧な仕草で目を伏せた。
「二人が本当の親子じゃないことくらい、とっくに気づいてるわ」
花魁が僕を見つめた。
「それが何だというの? 血が繋がっていても子を捨てる親は、星の数ほどいるわ」
彼女は再び目を伏せる。
「あたしの親も……そうだった」
静かな声だった。
「『誘惑したのはお前だ』って。そんな言いがかりで、新吉原に売られた。八歳になった翌日にね」
一拍置いて、彼女の話は続いた。
「皮肉なことに、その『永遠の若さ』が売りになったの。不思議でしょう? 親に愛されないと育たない体を、彼らは不滅だと勝手に思い込んで崇めてくれる」
皺を寄せた顔に、笑みが浮かんでいた。まるで自分に嘲笑を浴びせるみたいだ。
「心だけは歳を重ねるのよ。体は八歳のまま、心は二十歳を超えて。人生の大半を——」
言葉が、そこで切れた。
「……一人で、過ごしてる」
小さな拳が、きつく握られていた。
「だから、炭咲。あなたとステラちゃんの関係が本物か偽物かなんて、どうでもいいの。あたしの目には、かけがえのない親子に映っている。それだけで十分よ」
彼女は息を吸った。
「どんなに辛い時が来ても、今この瞬間を心に刻んで、一人でも乗り越えられる力を……あたしは、そっと預けておきたい」
廊下の奥で、誰かの足音が遠ざかっていく。その音が消えた瞬間、世界から余計なものが消えた気がした。
彼女は一度だけ瞬きをして、ゆっくりと口を開いた。
「これは償いなのかしら。いえ、きっと違う。これは……あたしの、とても小さくて、とても愚かで、でも誰よりも真実な……祈りに近い想いだわ」
彼女の瞳に宿る諦めと、それでも消えない光が、肋骨の一本一本に刺さった。次の言葉が見つからないまま——息が、細く漏れた。
何か言おうとしても、言葉が出てこなかった。
「この話はここで終わり。写真は削除してないから、いつでも見てね」
しかし花魁の気まぐれはまだ続いた。
「でも、まだあれをするまで数日は残ってるのに、なんでこんなにセンシティブに反応してるのかしら。うふふっ、変よね」
より一層反応しづらくなり、僕は固まった。
「嘘よ、冗談。あれをするノバナなんていないって突っ込んでくれなきゃ困るわ。女を困らせないでよ、ステラちゃんのパパさん」
知らなかった。
成長が止まるという意味を、今初めて理解した。僕はステラに目を向ける。
今はまだ体と精神年齢が一致している。でも心が僕と同じ歳になっても、体は過去に取り残されたまま。周りは変わっていくのに、自分の体だけは変わらない。
そう思うと、彼女たちの心境が少しだけ分かるような気がした。
「ところで、炭咲。もうお互いの秘密に触れ合った仲なんだし、敬語で距離を取るより、名前で呼ばない?」
言いながら膝を抱き、ステラと顔を合わせた。
「ステラもあたしを名前で呼んでいいよ」
「名前? ステラも呼ぶ!」
「うふふ、分かったわ。じゃあ教えるね。あたしの名前は——」
花魁は末っ子を愛しむように笑い、はきはきとした声でひらがなを一文字ずつ教えた。
「パパ、ステラのお腹ぺこぺこ」
ステラが疲れた顔で僕にもたれかかる。
「お腹すいたのね。じゃあ、ご飯食べに行きましょうか」
どこで食べるんだろう。食べ物のある場所といえば、コンビニしか思い浮かばない。ステラと一緒に店で食事をした記憶もない。彼女が期待しているのも、きっとコンビニだろう。
「花魁さん、新吉原にもコンビニは?」
隣のステラの頭をそっと撫でる。拗ねさせてしまったことへの、謝罪を込めて。
「名前を教えてまだ五分も経ってないのに、もう忘れたの? それとも意地悪?」
下の名前で人を呼ぶことに慣れていない。頭の中で何度か発音を練習する。舌を噛まないように。
「こひな、食事の件をお願いできますか?」
僕の反応に満足したのか、こひなの眉間から、力がすっと抜けた。
「二人の前にいるあたしを誰だと思ってるの? 友達になった記念に、今まで味わったことのない料理を食べさせてあげるわ。もう準備できてるはずだから、部屋に戻りましょ」
上機嫌なこひなの後について、僕とステラは女湯を出て部屋へ向かった。




