第三話 日陰に咲く花(上)
何もない空間に僕一人が立っている。
漆黒の天井に不慣れな光が漂い、暗い色の壁が周りの灯りを吸い込んでいる。その代わりのように、扉の隙間を縁取る赤い燐光が部屋の陰に混じって、ほのかに揺蕩っている。
朦朧とした意識の中で、ふいに目の前の景色をより黒い影が光を遮った。扉の前で執拗に部屋へ入ろうとしていたが、やがて断念したように姿を消した。
心の中で生じる不安にドアノブを握り締めた途端、手のひらが焼かれる痛みを感じ、すぐ手を放した。肌は黒く変色し、血の気が引いていく。
しばらくして、火の面影が立ち上がった。
蟻が這うように——心が蝕まれていく。
感情が沸き立った瞬間、目の前の扉に体をぶつけた。憂いに沈んだ心は、いても立ってもいられない感情で満たされ、心臓の鼓動は高まっていく。
自らの頭脳の延長上に新しい幻覚を築き、そこに偽りの息を吹き込んだ。
暗澹たる気持ちとともに差し迫った危険を感じる。感情が沸き立った瞬間、目の前の扉に体をぶつけた。
だが、確かにそこにあった扉は、僕の体が触れた途端に石の壁へ変わり、同時に背後から軋む音が聞こえた。
振り返ると、さっきまで何もなかった場所に、錆に侵された白いドアが音もなく現れていた。僕は後ろに現れたドアまで全力で走り、消える前にノブを回した。
ドアの向こうの世界は、どんよりした空模様の下、雪が積もった荒野が広がっていた。厚い雪雲が次々と空を覆い、僕が開けたドア以外に足跡は見えなかった。
地平線との間に、鉛色の空だけが残っている。
僕は何気なくドアの向こうの世界に足を踏み入れ、当てもなく歩き回った。不自然だ──足元に違和感を覚え、目を向けると、汚れた素足が周りの雪を次第に濃い黒に染めていた。
慌ててドアまで戻ろうとした。しかし、振り返るたびに足跡の黒い汚れは広がり続けている。最初は細い線だった染みが、時間が経つにつれて幅を増し、やがて隣り合う足跡同士が繋がり始めた。
黒い染みは雪原を侵食するように広がり、ついには一面の黒い海となって、地面の白さを飲み込んだ。
「──」
何かの音が、空ろな荒野に響いた。哀れな小羊が親を呼ぶようだった。
二回目の泣き声を聞いて、それが人の赤ん坊だと気づいた。赤ん坊の命が危ない──そう判断した僕は、躊躇する暇もなく、必死に声のする方へ走った。
空が地平線に沈むように迫った頃、半径百メートルほどの窪地が現れた。泣き声は穴の中心から聞こえてくる。しかし、窪地の底は雪に覆われていて、下手に動けば戻れなくなる危険があった。
案の定、僕が躊躇っていると、また赤ん坊が声を高めて泣き始めた。今はとにかく赤ん坊を救い出すことが最優先だ──そう思い、窪地の内側がゆるやかな傾斜になっていることを確認して、下まで滑り降りた。
底の地面は上と違って、雪の下が柔らかいもので埋まっていた。足を一歩踏み出すたびに膝まで沈み、まるで沼の中を歩いているようだった。
「アァ──」
窪地の中心部に近づくほど、赤ん坊の金切り声と呻き声が混じり合い、僕の耳を切り裂いた。耳を塞いでも頭に響く声は人を狂わせる。それでも、赤ん坊を一人にすることはできなかった。
ようやく泣き声の元まで辿り着いたと思った途端、ふいに周りが静まり返った。僕は慌ててその辺を駆け回り、赤ん坊を探した。しかし、どこにも見つからなかった。
再び赤ん坊の泣き声が窪地の真ん中から聞こえた。今度は小さな声で泣いている。もしかすると見逃したのかもしれない──そう思い、足元を素手で掘り始めた。
地面を掘ると、既視感に襲われた。散々踏みつけていたものは、ただの地面ではなく、無数の人形のパーツだった。ここで違和感を覚えた。自らの手で胸に触れ、疲れない鼓動を確かめる。
今の自分は死んでいるのか? ──そんな疑問を抱いた時、足元から幼い女の子が顔を出して声をかけてきた。
「パパ」
眼球を失ったその顔は、感情の宿らない清い笑顔を浮かべ、禍々しく口だけで「パパ」と呼んだ。危険を感じた時には既に壊れた人形たちに囲まれ、その手で脚を掴まれていた。
急いでその場から離れようと体を動かすほど、僕の体は下へ、下へ、下へと沈み、周りの人形たちとともに地下へ葬られてゆく。
「パパ」
虚空のどこかで、僕をいらだたせる呼び声が微かに耳に届いた。それを皮切りに、捨てられた人形たちがそれぞれの口で泣き叫び、朧げな記憶にパパの言葉が刻まれるまで呼びかけ続けた。
意識が遠のく前に見上げた空は、飽きもせず雪を降らせていた。雪はうずたかく積もり始め、薄れゆく視界の中で、光が点になるまでじっと見つめた。
「お父さま、私は、ここにいます」
誰かが僕を人形の墓場から引き出した。見知らぬ少女は、潤んだ声で僕を「お父さま」と呼んだ。しかし、安堵よりも困惑が勝った。なぜこの少女が僕を知っているのか、なぜ「お父さま」と呼ぶのか。
涙ぐんだ栗色の目には複雑な感情が見え隠れしていた。僕は恐る恐る手を伸ばし、涙を拭った。
「君は……、誰だ?」
名前を聞こうとした寸前に——目が覚めた。
聞こえない。暗い。ここはどこだ。
闇に目が慣れるまで待った。指先に、畳が伝わってくる。
どうやら荒野の雪の中でも、受験生で溢れた道端でもなく、見知らぬ場所に運ばれたようだ。
隣に誰かがいる──そう思った時、小さな寝言を聞き、その辺りを避けてゆっくりと壁に手が当たるまで這った。しばらく行くと、不意に柔らかな人肌が手のひらに触れた。
「……嫌だ、まだやりたいの? もう今日は無理だってば」
「いや、あの、その」
頭の中が、空になった。謝るべきか、それすら判断できなかった。とにかく、このままでは誤解を招く。相手の胸から慌てて手を離し、体を後ろに引いた。
「逃げてももう遅いの、もう起きちゃったから」
お互い何も見えない闇の中で、相手は僕の顔を両手で掴んで懐に引き寄せた。暖かい体温が伝わってくるとともに、掌は少しずつ汗ばみ、鼻先で触れ合う人肌の香りが感覚をくすぐった。
これ以上は後で気まずくなる──そう思って離れようとしても、相手の太腿に挟まれて体に力が入らなかった。動けば動くほど二人の間に荒い息遣いが響き、首を抱かれてからは顔の距離もどんどん近くなった。
危険だ──そう思って必死に首に力を入れ、相手の顔から離れようとした。
「パパ、起きた?」
部屋の外からステラの声が聞こえた。子供が自由に歩き回れる場所は、僕の知る限りTGCの施設しかない。TGCの施設は必ず男女別に部屋を割り当てているし、窓のない部屋なんて聞いたことがない。
「あらら、もう降参?」
気を取られた隙に、体がひっくり返され、僕と彼女の位置が逆転していた。そのまま馬乗りになった彼女は、暗闇の中でニヤリと笑った。抵抗しようとしても膝で両腕を押さえられて身動きが取れない。
顔が近づくたびに髪からシャンプーの香りが漂い、混乱した。
「あの、人違いだと思います」
なるべく落ち着いた声で、相手に話しかけた。
それを聞いた彼女が驚いて悲鳴を上げた。
「あんた、誰?」
何と答えればいい?
「……炭咲、千春です。十五歳です」
「聞いてないことまで言わなくていい。姉さんたち! ここに変態侵入者がいるわよ。早くおいで」
会話で今の状況を乗り越えたいという希望は、あっさり却下された。
部屋の引き戸が開き、五、六人の子供たちが入ってきた。皆、小学生と変わらない体つきをしている。中でも僕が誤って触れてしまった女の子は、気が強そうだった。
子供たちは一斉に僕を見つめた。その視線には明らかな敵意と警戒心が込められていた。言い訳は通じないと判断し、早速土下座をした。
「大変失礼いたしました」
「よろしいの、よろしいの。お部屋に一緒にお通しした私どもにも責任がございますから」
そう言われても、僕への軽蔑の視線はまだ消えていない。そんな中、ステラはさっきから僕の隣で、理由は分からないが一緒に土下座をしている。
「ご紹介させていただきますわ。こちらは、今回の共通テストでお会いした方たち。お名前は炭咲さんでしたわね? 娘さんはステラちゃんとお呼びするそうですから、どうぞ仲良くしてくださいまし」
返答の代わりに軽く舌打ちされた。凛とした怒りで部屋に霜が降りそうだ。この状態では、容易く許されそうにない。
「それから、炭咲さん。ようこそ新吉原へいらっしゃいまし。ご挨拶代わりに、これをお納めくださいな」
小学生ほどの女の子からタオルと着替えの浴衣を渡され、僕は呆然とした顔で目の前の女の子たちを眺めた。それぞれ異なる顔立ちで、国籍も身長も違う。何人いるのか、数える気にもなれなかった。どうして自分がここにいるのかは後で聞くことにして、部屋に視線を向けた。
四十畳の部屋にクローゼットと鏡台が壁に並んでいた。化粧品は同じ商品を使っているようだ。それ以外は特に何もなく、強いて言えば窓がないことが不思議だった。大人のいない部屋で子供同士が生活している環境は少し変わっている。
「パパ、パパ。もう大丈夫?」
ステラが元気な声で僕に抱きついた。さっきの女と同じ香りがステラの髪から漂う。僕は時間を確認しようと周りを見回したが、時計が見当たらなかった。
「何かお探しでも?」
「いえ、時計を探していたのですが」
「ここには時計を置いていませんの。お食事の時間は私たちがお知らせしますから、ご安心を」
茶髪の女の子が軽く手を叩いた。
「よろしいけれど。奈緒美ちゃん、炭咲さんをお風呂場までご案内してくれる? お姉さんが戻るまでにお食事の支度をしますから、お手伝いしてもらえると嬉しいわ」
奈緒美は「何で私が?」と言いたげな顔で僕を睨みつけた。
「先ほどの一件で、お互いに誤解を解く必要があるのではなくて?」
「別にそれは、あの変態が勝手にナオミの──」
「必要が、あるのではなくて?」
微妙に語気を強めて言う相手に、奈緒美が渋々席を立った。その顔は、僕と関わることを明らかに嫌がっていた。僕も一瞬気まずい表情をしたが、相手と目が合い、笑顔に切り替えた。
先日、案山子との戦いで首を斬られた後の記憶がない。新吉原について把握できていない情報も多い。苦手でも、今はここの住民と感情的に対立するより、情報を収集し、友好的な関係を築く必要がある。
「ステラもパパと行く!」
力の入った自己表現だ。僕が寝ている間にお姉さんたちから教わったようで、言葉の使い方が前より豊かになっている。あるいは、元々優れた頭脳を持った子供なのかもしれない。
僕はステラの頭を撫でながら言った。
「ステラは必要ない」
「パパ、ステラはいらない? パパ、ステラのこと嫌い?」
子供を相手に言葉が足りなかった──浅はかだった。後悔してももう遅い。すでにステラは、僕の言葉に傷ついた顔でしくしく泣き始めている。
「すまん、すまん。その意味じゃない。ええと、僕と一緒に行ってもステラはやることがないから、部屋に残った方がいいって意味だった」
ついでに大事なことを言い忘れた。
「ステラのことは好きだ。だから、もう泣くな」
別に最後の言葉に特別な意味があったわけではない。先で待っている奈緒美から口の形で「最低」と言われる前に伝えようと、頭の中で考えていたセリフだった。
「ステラもパパが好き。ステラはパパと一緒にいたい。だから、一緒に行く」
結局、ステラを含めて三人で部屋を出た。引き戸を閉じた後、なぜか部屋の中が騒がしくなった。隣にいた奈緒美がため息をついた。何はともあれ、奈緒美の後について広い廊下を歩いた。
「パパ、ステラのこと見てね」
よほどぐっすり眠れたのか、ステラが元気を取り戻した。窓も人も何もない廊下を走り回る姿は、まるで普通の子供のようだった。
ノバナになった子供は大体、現実を否定して鬱に落ちる。僕もTGCの施設に入った初日、トイレに閉じこもって食事もせずに三日を過ごした。
施設の生活はさほど一般家庭と変わらなかった。優しい先生たちと健康的な食事が子供に良い環境を提供してくれた。しかし、子供たちの成長は小学校五年生で止まったまま、普通の思春期を迎えるノバナはいなかった。
そう、ちょうど部屋にいた女の子たちも、僕の知るノバナと同じ雰囲気がする。
「子供まで連れて新吉原には何しに来たの?」
奈緒美から先に質問が来た。
「別に僕の意思で来たわけではありません」
僕は本当のことを話した。
「ガーデンズ学園で気を失ってから記憶がないんです。目を覚ました時も、ここが新吉原だと知りませんでした」
記憶は、ガーデンズ学園で案山子と争い、最後に首を斬られた場面で止まっている。首が元に戻った理由も、新吉原に入った経緯も分からなかった。
「あら、そう? てっきり、お姉さんが外で作った新しい彼氏だと思った」
奈緒美が残念そうにため息をついた。「なあんだ。つまらない男だね。新吉原の花魁と二人きりでいる間に何もしなかったの? 私にしたように積極的にすればよかったのに」
「申し訳ございませんでした。あれは事故だと思ってください」
「まあ、別に謝らなくてもいいよ」
そう言って話題を変えた。
「でも、普通に考えても変だと思わない? 受験生しかいない共通テストの当日に、テロを起こして何の得になるの。今回の騒ぎで共通テストは秋まで延期になったし、その場にいた学生が被害を受けただけじゃない」
「テロって、何の話ですか?」
案山子の話が外では別の形になっている——そういうことか。
「今回の件は、七年前と同じく案山子の仕業ではなかったのですか?」
「七年前に何かあったの? それと、畑もない都内で案山子って何?」
奈緒美は共通テストの当日に起きたテロの記事が投稿されているサイトを見せてくれた。
「ほら、ここにちゃんと『東京都内でテロ事件が発生』と書いてあるでしょう。お姉さんの話を聞いてネット上の記事を調べたの。その他は知らない」
奈緒美の話は嘘ではなかった。テロの話ばかりがメディアに記事化されている。案山子の正体もバベルも、検索結果には引っかからなかった。まるで元々起きていない事件のように。
あり得る可能性を広げるために、奈緒美に他のことを訊いてみた。
「テロを起こした真犯人について、花魁さんから何か聞いていませんか?」
奈緒美は僕の質問にすぐには答えなかった。少し間を置いてから、鋭い視線を向けた。
「それを聞いて、あなたに何ができるの? まさか復讐でもするつもり?」
「いや、それは……」
「あなたがここに来る前の人生に興味はないし、知りたくもない。でも、姉さんと一度関わった以上、これから変なことはさせないわ。ステラちゃんも、私たちにとって大事な存在になったから、なるべく安全な生き方を選んでほしい。私が何を言いたいか分かる?」
黙って頷き、ステラの手を握った。奈緒美に協力を求めることはもう難しそうだ。仕方がない。また一人で整理するしかなかった。
バベルとガーデンズ学園が裏で結託している。花魁は案山子を僕と一緒に目撃したのに、なぜか身内にまで嘘をついている。案山子が起こした殺戮の現場は、謎のテロリストの仕業に変わっている。
どこから手をつければいいのか分からず、解決すべき課題が増えて軽い頭痛を感じた。
それでも、ステラが無事でよかった。
そう思いながら歩いていると——ふと、夢の中の声が耳に戻ってきた。
「お父さま」と呼んだあの声が、まだ消えていない。夢だ、と片付けるには、あまりにも確かな声だった。
温泉の前に着いた。入口には赤い暖簾が掛けられている。
「それじゃ、私は帰るから、終わったら中にある内線を使って部屋に電話して。多分、誰か迎えに来ると思うわ」
奈緒美は手を上げて言った。
「じゃあね」




