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第ニ話 収穫祭(下)

 「共通テスト管理局から、ガーデンズ学園の受験生の皆さんへお願いを申し上げます。館内での喫煙、客席内での飲食、および他の受験生への録音、録画、写真撮影はご遠慮ください。また、試験場への出入りの際は、携帯電話など音の出る電子機器の電源を必ずお切りください」


 構内に若い女性の声でアナウンスが流れた。それに気づいた人々が、僕を含めて、ポケットからスマホを取り出す。画面の右上に「圏外」と表示されている。


 いよいよ共通テストが始まるのかと思い、周りを見回した。ほとんどの人が慌てた様子で、壊れてもいない携帯を叩き始めている。


 「ただいまより選別テストを十分間、実行いたします」


 再びチャイムが鳴った。選別テストが始まる。


 「周りの人や構内の施設に害を与えないよう、ご注意ください」


 一瞬の静寂。


 「間もなく選別テストが終了いたします。構内の受験生の皆様は、その場で次のご案内までお待ちください」


 その瞬間——僕とステラ以外の全員が、一斉に地面に倒れた。


 糸を切られた人形のように、揃って。


 異常な状況に戸惑いながらも、横たわった人たちの様子を確認する。呼吸は安定している。死んではいない。ただ深い眠りについているだけのようだ。


 倒れた者の受験票だけが、黒く濡れていた。


 選別は、既に終わっていた。


 安堵すると同時に、疑問が湧く。なぜ僕とステラだけが無事なのか。


 身の危険を感じてステラを抱き上げる。見渡す限り、意識のある人はいない。誰も起きない静寂の中で、次のアナウンスを待つしかなかった。


 やがて深い霧が、白いベールのように地上を覆い始めた。視界が確保できない。不安が増す。考えてみれば、テストが始まってから監視官もスタッフも姿を見ていない。それも不自然だ。


 怪しい状況の中、警戒しながら校門へ向かう。もうテストの合否なんてどうでもいい。僕とステラだけが残されたこの状況は、どう考えても異常だった。


 「パパ、あれ」


 ステラが指差した霧の向こうから、人の形をした何かの影が薄く姿を現した。他にも生存者がいる——そう思い、僕たちは前へ進んだ。


 だが一歩踏み出した時、視界の先に一点の紅い光が尾を引いて駆け抜け、煌めいて消えた。急に気温が下がったように、全身に鳥肌が立つ。一点だった光は二点に増え、同時に錆びた刃物が軋む嫌な音が響いた。


 心臓が、これまで経験したことのないスピードで鼓動し始めた。


 幻覚じゃない。夢でもない。


 足が、床に根を張った。


 突然、霧の中から奇妙な鳴き声が聞こえた。それとともに、視界を妨げていた厚い霧が薄くなり、向こうに人ではない何かの輪郭が浮かび上がった。


 「パパ、あれ、何?」


 ステラの質問に、何も答えられなかった。


 麦わらで造られた案山子が、すぐ近くに立っている。虚ろな目でこちらを見つめたまま、動かない。ボロボロになった紳士服を着て、背中には大きな刃物を担いでいる。


 その姿を見た瞬間——「庭師」という言葉が頭に浮かんだ。


 庭師?


 なぜそんな言葉がいきなり蘇ったか自分すら分からない。薄れた記憶の奥から、過去の一場面を必死に探る。


 『未だに——の炎を抑える力は庭師には……』


 断片的に、誰かの声が聞こえる。


 そうだ。誰かが崩れた棚の下から僕を引き出して、命を救ってくれた時の——


 カチ、カチ。


 時計の針が刻む音が記憶を遮った。案山子の内部からだ。その耳障りな音は、心臓の鼓動よりも大きく頭の中に響く。


 霧が消えた園内は暖かかったが、もはや軽やかな空気はなかった。すべてが静止し、辺りは死のような静寂に包まれている。


 深呼吸をして、再び案山子を見据えた。うつろな両目は渇いて周辺の光を吸い込んでいる。しばし視線を交わしただけで、体が金縛りにあったように動けなくなった。


 立ち尽くしていると、ステラが頬をつねった。目を瞑る。重い緊張に包まれる中、疲れと悪寒が体を駆け巡った。


 案山子を刺激するような大きな動きは避けた方がいい。飾り物に近い無生物に、人間の常識が通用するとは思えない。


 しかし、相手が動かない限り、僕から先に仕掛けるのは危険すぎる。


 「パパ?」


 ——しまった。


 慌ててステラの口を押さえたが、既に案山子は姿を消していた。


 案山子の次の動きを警戒していた時、一瞬の隙を突いて刃物が首筋に迫った。反射的に左腕で刃を受け流す。首を斬られる寸前——腕に深い裂傷を負う程度で済んだ。


 僕はステラの目をマフラーで隠し、次の攻撃に備えた。案山子が振り下ろしたハサミを腕で受け止めた時、手応えは感じられなかった。


 麦わらの体で自由自在に振り回すには、ハサミは重すぎる。つまり、相手の動きには物理的な常識が通用しないということだ。


 正面から案山子の攻撃に立ち向かえば、生身の体が無残に切り刻まれるだろう。僕は両腕を前に構えた。


 後方から風を切る音が聞こえ、右側に身を躱した。足音はしないが、鉄の鈍い音で案山子の動きを察知できた。僕は体のバランスを崩した隙を狙い、案山子を蹴り倒した。そのままハサミを両手で掴んだ。


 武器を奪い取ろうと考えたのだ。しかし、貧弱な麦わらの手に握られているハサミを奪うことは困難だった。力が足りないわけではなく、最初から僕の手には負えないもののように微動だにしなかった。


 動揺している間に、案山子が隙に乗じてハサミの片方で攻め込んだ。重傷は避けたものの、切り傷を負った。このまま長期戦になれば、生身の僕に勝ち目はない。


 その時——


 腹部の奥に、錆びたハサミが深く突き刺さった。


 何を考える間もなく、内臓を貫く激痛。口から血が溢れ出る。痛みが脳を支配し、意識が遠のいていった。


 「おい、くそバケモノ——ようやく捕まえたぞ」


 両腕の包帯から黒い煙が這い出し、人の肉が焼ける臭いが霧に混じって漂った。


 血管を駆け巡る熱が、溶けた鉛のように体の奥深くまで染み渡る。既に負った傷口が一斉に疼き始めた。火傷の痛みが、神経を通じて脳に鋭い信号を送り続ける。


 そして——呪いが発動した。


 腹の傷口が、内側から塞がれていく。皮膚の下で何かが這い回る感触。肉が盛り上がり、血管が繋がり、臓器の輪郭が戻ってくる——ここまでは、いい。


 問題はその先だ。


 再生した細胞が、次の瞬間には焦げ始める。生まれた端から燃える。修復と破壊が同じ速度で、同じ場所で起きている。痛みは二重だ——傷の痛みと、治る痛みが、重なって来る。


 歯を食いしばる。動ける。今だけは、動ける。


 もう後がない。これが最後のチャンスだ。案山子の顔面を片手で掴み、麦わらが破れるほど力を込める。


 「死ねえええ!」


 炭化した手のひらから爆発を起こし、麦わらに火の粉を放った。焼かれた顔が灰になる。


 有効な一撃を与えた——そう確信した時、案山子が僕の腹に刺さったハサミを抜き取った。


 大量の血が臓器の一部とともに腹から噴き出した。炭化した腕の燃焼も加速する。もはや痛みを感じる傷のレベルではない。


 しかし——これでバケモノを倒す条件は満たされた。


 案山子が不気味な剣舞を踊るような動きで、ハサミを僕の首へ振り回してくる。炭化した腕で弾いた後、神速で懐に潜り込み、燃え上がる拳で腹を突き抜いた。


 火は抑えようもなく、麦わらの体に広がった。


 息を切らしながら、一つ一つの藁が黒い灰となって風に消えていく光景を見届けた。地面に落ちた僕の肉片は、黒い燃えかすになっている。


 周りに散らばった案山子の残骸が、風に吹かれて消えていく。


 ステラは柱の影に隠れている。僕と案山子の間に、十分な距離がある。


 身を隠していたステラに声をかけた。


 「もう大丈夫だ。驚かせてごめんね」


 だが、まだ炭化した腕から火の粉が舞い上がる。ステラに危険が及ぶかもしれない。少し離れた場所から、彼女の様子を見守った。


 「パパ?」


 「違う。人を間違えるな。僕は一時的に君の保護役を務めるだけで、父親じゃない」


 「うう、パパ——!」


 ぐずつき、泣き出したステラが僕の懐に飛び込んできた。小さな体で、父親を頼りにしてくれている。炭化した腕を避けるように両手を上げ、ステラが落ち着くまで待った。


 早く血で汚れた服を着替えたい。


 「危険です! 後ろに気をつけてください!」


 どこからか、切迫した女性の声が響いた。誰かの勘違いか——そう思った瞬間、胸騒ぎが全身を駆け巡る。


 突然、止まっていたはずの時計の針が動き出す音が、耳元に聞こえてきた。


 「アブナ……い、キヲツケ……て」


 振り向くまでもなく、後ろの不吉な声の正体に薄々勘づいた。


 「パパ、あれ、ある」


 アンティークな懐中時計を中心に、一本一本の麦わらが絡み合い、少しずつ人の形を作り上げていく。蛇が地を這う音が、人の精神を蝕む。


 ステラは倒れた人々の背後、僕から三メートルほど離れた場所にいる。


 まだ安全圏だ。


 ステラから離れ、懐中時計に手を伸ばす。壊すつもりだ。


 しかし——予想外に邪魔が入った。


 気を失っていたはずの受験生が、一人、いや二人以上、上半身だけ動かして僕の炭化した腕を掴んだ。


 悲鳴も唸りも出さない。火傷の痛みを我慢してまで、麦わらの本体には行かせない。腕だけでなく、足と腰も動けなくなった。


 違和感を覚えた。目を凝らして人々の体にくっついた「何か」を掴み取る。


 蜘蛛の糸に似た細長い麦わらの織糸おりいと——人の身体を糸操り人形のように操作している。


 案山子の能力か。それとも自然の成り行きか。一体僕は何者と戦っているのか。


 「セイ——カ……?」


 案山子が呟く。


 「キヲツケ……て——おニイチャン」


 もやもやとした記憶の隅から、あの夜の記憶が蘇る。僕が命乞いで掴んだ足首は、七歳の子供の力では手に余るほど太かった。切ない嘆きは笑い事として扱われ、小さな手の甲を炎で熱した杖先で焦がされた。


 その記憶が、僕の血を再び沸かしている。


 「ふざけるな! お兄ちゃんって、てめぇの口で言うセリフじゃないだろう」


 父親が見捨てた僕の家族が火災で亡くなって以来、今日まで真犯人を探し続けた。孤軍奮闘の覚悟でTGCでバイトしながら、七年前の放火事件の情報を集めた。


 そして今——その手掛かりを手に入れた。


 絶句した。腕が震えている。脳内でエンドルフィンが滝のように分泌されている。


 思い切り舌を噛んだ。思ったより大量の血が出る。出血に続いて、傷口から再生と回復が始まった。


 炭化した腕の火力がだんだん高まり、腕を掴んだ人々が次々と目を覚ます。


 その瞬間——人々の体に絡みついていた麦わらの糸が、炎に触れて灰になった。


 焼け爛れた肉体の苦痛で、人々が悲鳴を上げた。


 これで邪魔者は消えた。


 「バケモノだ……た、助けて」


 笑ってしまった。


 嬉しいわけじゃない。怒りが痛みを押しのけて、顔の筋肉が勝手に引きつっただけだ。


 それを目撃した受験生が、僕を恐れて案山子の方へ這って逃げる。


 「嫌だ、助けて……助けてください!」


 震える声でそう言った後——再生途中の案山子に、体ごと飲み込まれた。


 一人が飲み込まれると、次々と受験生が麦わらの中に吸い込まれていく。最後の一人を飲み込んだ瞬間——案山子の姿が変わった。


 背が伸びる。輪郭が整う。声が、人のものになる。


 「おはようございます。自分、あのお方の花園を守護する案山子と申します」


 案山子が深々と頭を下げた。


 知能を持った案山子が、人のように自己紹介をする。中途半端な人間の声で自分を語る姿が、不自然で不愉快だった。


 「まずは——これより申し上げることの非礼を、お許しください」


 顔を上げる。


 「早速ではございますが、お二方をあのお方の花園から——排除、いえ、収穫させていただいてもよろしいでしょうか。できれば今すぐ、お願いしたいのですが」


 「図々しくも人を排除すると言い放つバケモノの話など聞けるか。それより、てめぇは何者だ。なぜあの夜に華栄が言った言葉を知っている」


 「自分が、でございますか? とんでもございません」


 案山子が顔を横に傾ける。


 「まず一つ——案山子である自分は、一が全であり、全が一」


 周囲の麦わらが、ざわめいた。


 「二つ——あれは庭師様があのお方から授けられた聖火ほのおで、樹の一族を浄化する聖なる行為でございました」


 喉が、焼ける。


 「そして三つ——あのお方から盗まれた樹の一族の遺産は」


 案山子の視線が——ステラに向いた。


 「そちらの小さな花が、二人目でございます」


 案山子が大きく口を開けた。その奥に、人の形をした影がうごめいている。


 「よって——いただきます」


 話を聞いた後、口を開く。


 「てめぇは、バベルの所属か? それともどこかの研究所で作られた実験体か?」


 「自分は汚れなきあのお方の庭に属する存在であり、忠実なしもべであります」


 「ああ、やはりバベル——それで十分だ」


 大きく拍手を叩き、火の粉を起こした。


 「とりあえず、てめぇもあの夜僕が感じたように——藁にもすがる気持ちを味わわせてやる」


 炭化した腕から清い鉄の音が校内に響き渡り、手のひらから火花が散った。身体中の細胞が焼かれる痛みが神経に伝わり、血流が一瞬で脳まで駆け巡る。


 手で前髪を持ち上げ、軽く後ろに流す。前方から案山子が駆け込んでくる。近くに錆びたハサミが落ちている。すかさずハサミを拾い上げ、近寄る案山子を斬るつもりで大きく横に振り回した。


 案山子は地面を軽く蹴り、華麗な足さばきで攻撃範囲外へ避ける。


 「失礼、これは取り返していただきます」


 空中から慣れた手つきでハサミのハンドルに指を入れ、僕からハサミを抜き取って反対側に着地した。相手の動きに体が反応したが、捕まえることはできなかった。


 体勢を立て直した案山子は、ハサミの刃を開いて二刀流として構えた。そして、案山子が僕から目を離して集中していないことに気づき、違和感を覚えた。ハサミの刃は僕の方に向いているが、もう片方の刃の向きは定まっていない。


 注意を引く目的とはいえ、獣に近い案山子が人間の観点で動くはずがない。何か大事なことを忘れたような嫌な予感がする。


 「樹の一族を二人も同時に収穫できる日は、珍しいです」


 ハサミが案山子の手を離れ、素早くステラへ向かった。


 息が、逆流した。


 「ステラ、逃げろ!」


 叫びに、ステラは笑顔で返事した。


 もう手遅れだ。間もなくあの小さな心臓に錆びた刃物が刺さり、僕は絶望に落ちる。あの夜と同じ恐怖——息を切らしてステラへ走った。


 「パパ、逃げる?」


 ステラは——視界の端で、じっと僕を見ている。


 逃げることもせず、ただ立ち尽くしている。


 片方の刃物が何者かによって弾かれ、空中で大きく回転した後、刃先から地面に突き刺さった。皆が眠りに落ちている中、他にも意識を取り戻した人がいた。僕は感謝を込めて手を振った。


 それを見たステラは元気そうにこちらに向かって手を振り返してくれた。


 「愛らしい娘さんに物騒なものをちらつかせるとは、父親としていかがなものでしょうか」


 ステラの命を助けてくれたのは、同じ受験生の花魁だった。着物の裾が太ももまで大きく裂けている以外は、それまでと変わらず元気そうに立っている。


 「すみません、助かりました。ありがとうございます」


 「まともにお勝ちになれる相手でもないのに、なぜ喧嘩をお売りに? まずは娘さんの安全をお考えくださいませ」


 「いや、まさか先に子供が狙われるとは。しかもこの子は僕とは無関係な——」


 「この愚か者が! お言葉の意図をお考えなさいませ。敵からすれば、一番弱い者から狙うのが道理でございましょう」


 言われてみれば筋が通る理屈だった。


 「何をぼんやりなさっていますの? さっさと娘さんの安全を最優先になさいませ!」


 花魁に叱られている間も、僕の目は案山子を追っていた。これで相手の動きを予測できないことはよく理解した。遠距離でステラを狙おうとしても、花魁がそばにいる限り安全だ。


 地面に刺さったハサミの片方は、案山子より僕の方が近い。案山子の心臓部にある懐中時計を潰すには時間が必要だ。案山子が油断するタイミングで火力を最大に上げ、体を燃やし尽くす——それが唯一の勝機。


 頭の中で案山子の動きをシミュレーションする。目で見てから反応していては遅い。相手の動きを予想して一撃を与えないと、一生やられ続ける。


 僕は相手が地面に刺さったハサミに目を向けた瞬間を狙って、一歩目の踏み込みから全速で駆け出した。倒れた人々を飛び越え、その距離を一気に詰める。そして、炎を込めた炭化した腕を相手の腹部に叩き込む——ここまでが僕の作戦だった。


 「あなた様であれば、そう来ると思いました」


 電光石火の速さで、いつの間にか案山子は二つに分かれていたハサミの刃を一つに戻し、僕の首へ迫っていた。さっきのように刃が合わさる部分に腕を入れようとしても、先に首が刃に触れる。かといって、速度のついた足を止めようとしても、加速した体はそのまま前へ進むだろう。


 「——パパ?」


 ステラの声が聞こえた。


 「悪くなかった」


 僕の首は——あっさりと錆びついたハサミの刃に斬られ、体から分離された。


 痛みのみは、なかった。


 音が消えた。ステラの声も、花魁の声も、案山子の声も——全部、遠くなった。


 代わりに、ずっと前に聞いた声が戻ってきた。


 『君は生きろ。ヨウの計画に君の死はまだ先のことである』


 七年前の記憶が、遠くなる。


 ステラには本当に悪いことをした。生への未練か、それとも虚しい死への後悔か——分からない。いずれにしても、僕には最後の祈りすら許されていないだろう。


 万が一奇跡が起きて、もう一度やり直せるなら——一生懸命ステラの親を探してあげよう。


 それだけが、最後まで消えなかった。

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