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第ニ話 収穫祭(上)

 「ガーデンズ学園に訪問してくれた受験生の皆さんは、各自の受験番号を確認し、先生の案内に従って入場をお願いいたします」


 電車の遅れで、僕は骨抜きにされたような状態でガーデンズ学園の最寄り駅に着いた。狭い車内で缶詰のように圧迫され、時間ぎりぎりまで満員電車に揺られた。駅に降りた時には、歩く気力すら残っていなかった。


 しかし、地獄はここからだった。


 駅の改札からガーデンズ学園までの広場は、蟻の行列のような人波で埋め尽くされていた。前へ進むのもひと苦労だ。


 立ち尽くしていると、後ろの三人家族の会話が耳に入った。


 「すごいな、相変わらず人が多いね。ここで記念写真でも撮ろうか?」


 「正気? 嫌よ、絶対撮りたくない。撮りたければお父さん一人で撮ってよ」


 「冷たいな。ここから校門まで、途中で止まれないぞ」


 「それでも嫌。もういい、お母さんと先行くね」


 母娘おやこは父親を残して改札を通った。仲の良い家族だと思いながら、僕も流れに乗って駅を出た。


 外は予想以上の混雑だった。足を踏み入れる隙もないほど受験生とその家族で埋まっている。自分の意思で歩くことなどできず、ただ流れに身を任せるしかない。気がつけば、ガーデンズ学園の校門に向かってのろのろと進んでいた。


 「ガーデンズ学園は毎年行方不明になる受験生をリスト化して公開しろ! 進学を悪用して罪のない学生を誘拐する行為はやめろ!」


 ぼんやりしていると、見知らぬ中年女性がチラシを押し付けてきた。紙には過去に共通テストを受けた学生の顔写真と名前が載っている。裏には連絡先と謎のマークが印刷されていた。


 「君も気をつけてね。ガーデンズ学園は一人で来た受験生を狙っているから」


 深刻な表情で僕を見つめる女性からは、子供を失った悲しみが滲み出ていた。みんなが受験生を応援するこの場で、彼女たちは警告を囁いている。


 その気持ちが分かる。僕は渡されたチラシを捨てず、鞄にしまった。


 ガーデンズ学園が失踪事件に関わっているという話は、最近ネット上で炎上している都市伝説だ。ほとんどの人は笑い飛ばすが、実際にここ二年の間、かなりの人数が行方不明になっている。


 TGCの問い合わせ窓口にも、毎年この時期になると捜索願が届く。一般生徒から、将来を嘱望しょくぼうされた特殊能力トゲ持ちの受験生まで。様々な子供たちが、同じ日に姿を消している。


 依頼はいつも失敗で終わる。そして失踪者の両親に頭を下げる。まるで犯人の代わりに謝るように、何度も何度も謝罪を繰り返す。すべての恨みを、全く無関係な僕たちが受け継いだ。


 当時を振り返ると、あれは犯人を捜すレベルではなかった。神の手が子供たちを隠したかのように、遺留品も痕跡も、何一つ残っていなかった。


 ある日、仕事帰りに奇妙な錯覚に襲われた。


 最初からこの世に存在しなかった相手を探しているのではないか——


 そんな忌まわしい想像が頭をよぎった。だから三月になると、憂鬱な日が増える。


 政府機関バベルはこの件について、未だに公式なコメントを出していない。結局、責任を負う者のいない世界で、被害者だけがあの日に縛られ、苦しみ続けている。


 「あれ? なんで赤ちゃん一人でここに来たの? パパとママはどこ?」


 鼻に馴染んだ匂いを感じると同時に、スマホが鳴った。父親アイツからだ。着信名を確認し、そのまま終了ボタンを押す。数秒後、メッセージが届いた。


 『試験が終わったら電話すること。近いうちに本社まで来ること。断る場合は来月から実家に戻ること』


 目的がはっきりした短いメッセージを、無関心に見つめる。


 人波に押されながら、それでも視線が文字の上で止まった。


 まだ施設にいた頃、月に一回の研究目的での採血が嫌で、反抗的な態度を取った時期があった。反抗といっても、注射針が火傷の跡に刺される痛みが嫌だからやめてほしいと頼んだだけだ。


 父親は僕の願いにこう答えた。


 「お前にしかできないことを他人に押し付けるな」


 それを聞いた僕は自分を責めた。


 ——馬鹿だ。お父さんはみんなを助ける仕事をしている。きっと、何か大きな計画があるんだ。


 言うまでもなく、そんな計画は初めからなかった。七年前の火事で母親と華栄カエが亡くなったのも、元を正せば、あいつの野望が引き起こした事件だった。結局、骨の髄まで自分のことしか考えない人間だ。


 最近の連絡も同じ理由だろう。既に他の女性と再婚し、苗字も緑埜に変えた人間だ。何の目的もなく過去の汚点を人前に晒すほど、あいつは馬鹿じゃない。今回も僕の能力トゲが目当てに違いない。


 前の人間の背中にぶつかった。人の流れに乗り遅れていた。


 考えるのをやめた。今は、前に進む方が先だ。


 「パッ、ハ!」


 幼い女の子の声が聞こえる。


 振り返ると——コンビニで会ったノバナが、もみじのような小さな手で僕のズボンを引っ張っていた。


 瞳の色。見覚えのある傷跡。僕があげたマフラー。


 間違いない。ついさっきコンビニで会った、あのノバナだ。


 小泉に連絡しても、来るまで待つ時間はない。共通テストが始まってしまう。


 さらに困ったことに——ノバナのみすぼらしい格好を見て、周りがざわめいている。


 まずい。下手をすれば通報されて、受験できなくなる。


 僕は急いで自分の上着をノバナに着せ、濡れた髪を余った包帯で軽く拭いてあげた。


 念のため、小泉にノバナの所在について連絡を入れる。


 また同じ状況だ。情けないけど——今は子供と一緒に試験場へ入る方法しか思いつかない。


 「パッ、パッ!」


 ノバナが両手を広げて抱っこを求める。冷静に考えれば、学園内には先生たちが常駐しているはずだ。共通テストの間だけでも預けられるかもしれない。


 「お前も運がいいな」


 冗談半分で言う。


 「お願いだから、大人しくしてくれよ」


 実際、子連れの受験生は僕以外にも何人かいるようだ。これなら受験できそうだ。


 朝九時を知らせるチャイムが園内に響いた。校門が重い音を立てて閉まり始める。急ぎ足で園内へ入った。


 校門を通ってからは、皆が黙々と前へ進んでいる。誰一人文句を言わず、じりじりと歩く姿は、無意識に秩序ちつじょを守ろうとしているようだった。


 ただ、遅れた人々の絶叫が容赦なく踏みにじられる光景は、少し歪んでいる。運に見放された者は、来年の春か秋入学を目指すしかない。


 「パッパ、パッパ!」


 ノバナが片手で僕の服の襟を掴み、強い意志を持ってどこかを指さした。


 先頭に立った人の背中に遮られて、視野が確保できない。それなのにノバナは、前へ進みたいと駄々をこねる。


 何度落ち着かせようとしても、言うことを聞かない。このまま泣き出されても困る。


 深くため息をついて、ノバナを下に降ろした。


 親代わりになりたいわけじゃない。最低限の礼儀を教えるだけだ。


 「子供だからって、自分勝手な行動は許されない」


 しゃがみ込んで目線を合わせる。


 「分かったか? 欲しいものがあるときは、まずお願いすること。周りに迷惑をかけないこと」


 僕は一文字ずつ、丁寧に自分の名前をノバナに教えることにした。


 「あと、僕の名前は炭咲千春だ。た・ん・さ・き、ち・は・る」


 指を折りながら。


 「しばらくお前の面倒を見る人だ。名前くらいは覚えなさい」


 ノバナは真面目に聞いているふりをして、自由に動ける状態になった途端、注意された内容を完全に忘れた。猫のような動きで人込みの間を走り回り始める。


 出会って僅か一時間で、子育ての壁を感じた。案外、子供という生き物は自分に素直なのかもしれない。


 僕は風になびく赤いマフラーを目で追っていた。


 その時だった。


 「皆さん、ご覧ください! 新吉原の女王様が、受験生として試験場を通っています!」


 誰かが叫んだ。人々がざわめき始める。


 噂の花魁おいらん——世間で最も話題の人物が、突然現れた。興奮した群衆が一斉に彼女を見ようと押し寄せる。


 やばい。このままでは人の流れに押し流されて——群衆に押し潰される。


 足元が不安定になった。前後左右から圧迫されて、身動きが取れない。押し込まれる時間が長くなるにつれ、息苦しさが増していく。


 倒れるな。必死に体勢を保った。


 「パッ?」


 ノバナが空いた隙間からモグラのように姿を現した。手には何故か高級そうな生地きじを持っている。僕を呆然と見上げていたが——


 「えへへ、パッパ」


 目が合った瞬間、満面の笑みを浮かべた。


 へらへらと笑っている場合じゃない。一刻も早くここから抜け出さないと、呼吸ができなくて気を失う。叫び声と押し合いが混ざり合い、人の波が生き物のように動いている。


 わずかな時間差で生と死が分かれる。


 気がつくと、ノバナが不満そうな表情をしていた。僕の冷ややかな態度が気に入らないらしい。赤いマフラーを僕の手首に結びつけ、思いきり下へ引き寄せた。


 その弱い力で、体のバランスが崩れた。地面に倒れ込む。自分の体がかなり危険な位置に挟まれていることは分かっていた。だが無防備なところへいきなり引っ張られ、体勢が崩れるとは思わなかった。


 「いい加減にしろ。今はお前の遊びに——」


 ノバナに怒鳴ろうとして、体の変化に気づいた。


 呼吸が楽になっている。まだ人波の中だが、上に比べれば足元には隙間がある。背の小さい僕でも動ける。この子はそれを知った上で、僕を下に引っ張り出したのだ。


 勘のいい子だ。僕はノバナの頭を撫でた。


 「あり——」


 大丈夫だと思ったのもつかだった。圧迫に苦しむ人々が、生きるために前の人を蹴ったり激しく押し合ったりし始める。ここも安全じゃない。うつ伏せの状態でノバナの後について移動した。ノバナは楽しそうに地面を這いつくばり、ゆっくり前へ進む。


 移動しながら、何度も背中と手の甲を踏まれた。痛みはない。制服が擦り切れることも気にしない。脚の森を通り抜ける——ただそれだけを考えて、両手足を激しく動かした。


 「申し訳ありませんが、安全のため距離を取ってください」


 人々が自然と作った人垣の中で、花魁道中おいらんどうちゅうが行われていた。中央を歩く花魁が外八文字そとはちもんじの歩きを披露し、その豪華絢爛な姿に周りの視線が釘付けになっている。


 僕も彼女の醸し出す洗練された雰囲気に魅了されていた。


 椿柄の豪華な着物、地面に引きずるほど長い裾、黒塗りの高下駄たかげたに映える白い素足——伝統的な花魁の装いが、幻想的な美しさを作り出している。


 息を呑んだ。


 絵日傘えひがさの影から、若い美人が僕たちに視線を向けていた。黒くふさふさとした髪、白い肌——その顔立ちは、言葉を失うほど美しかった。


 だが、絵日傘が傾いた瞬間、琥珀色こはくいろの瞳が、ノバナを捉えた。


 優雅な微笑みが、音もなく消えた。顔から血の気が引いていく——禁忌きんきに触れた者の顔だった。


 花魁は傍らの係員に目配せをし、静かに僕たちへ歩み寄ってきた。華やかな道中の雰囲気が一変し、張り詰めた緊張感が漂う。


 「誰か、この子の保護者をご存じでしょうか?」


 華やかな光景に見入っていると、不意に係員の声が響いた。慌てて振り返ると、ノバナが花魁の歩く道を遮るように走り回っている。花魁も困ったような表情を浮かべ、人垣がざわめき始めた。顔が燃えるように熱くなる。


 「おい!」


 叫んでもノバナは気づかない。代わりに四方から嫌な顔で睨まれた。言い訳もできず、思わず舌打ちをする。


 一方、ノバナは僕の立場など全く考えていない。花魁の着物の裾に隠れてみたり、追いかけてくる係員から逃げ回ったり。死化粧しにげしょうを施す手つきだった。


 あれほど楽しそうに遊んでいる様子を見ると、無理に止めるのは可哀想に思えてしまう。だがこのまま放っておくわけにもいかない。保護者として何とかしなければ——


 暴走したノバナをしばらく見守りながら、考えを巡らせた。そして一つの方法を思いついた。


 「迷惑ばかりかけないで、いい加減こっちに来い——ステラ!」


 周りのざわめきが一瞬で静まった。


 とはいえ、肝心のノバナはまだ花魁の側で遊んでいる。まだ自分の名前だと自覚していない様子だ。もう一度名前を呼ぶ。


 「ス——テ——ラ」


 名前で呼ぶまで——それは、ただの野花のばなに過ぎなかった。


 反応を示さない。動きを止めない。僕とは何の関係もない、道端の雑草。


 「ステラ! 今、君のことを呼んでいる」


 その名を三度目に呼んだ瞬間。


 ノバナが、動きを止めた。


 ゆっくりと振り返る。琥珀色の瞳が、僕を捉える。


 そして——駆け出した。


 小さな体が僕の懐に飛び込んでくる。


 捨てられた花は、僕のステラになった。


 「パパ、ステラ?」


 その一言が、胸に刺さった。「パッパ」が父親パパを呼ぶ声だったと、その時初めて気づいた。


 嬉しそうに僕を見上げるステラ。


 その笑顔を見た瞬間——


 周りの喧騒が、ふっと遠のいた。


 まるで音が水の中に沈むように、人々のざわめきが薄れていく。空気が冷たくなる。いや——冷たいのは、僕の腕の中だけだった。ステラを抱く腕から、氷が這い上がってくる。


 世界の温度が——ステラを中心に、落ちた。


 花魁が小さく息を吸い込む音が聞こえた。


 その瞳が僕を見据える。先ほどまでの優雅さはなく、ただ深刻な色が宿っていた。


 「お名前を授けられましたのね」


 花魁の声が低く響く。


 「TGC所属の炭咲千春です。この子は共通テストが終わり次第、施設に送る予定です」


 ポケットから身分証を出して見せる。


 「今朝、家の近くで知り合いました。訳があって、ノバナの方から僕を追いかけてきたんです」


 花魁は何も答えなかった。


 ただ、小さな草履バッグからハンカチを取り出し、唾で湿らせた。そして、ステラの顔を拭き始めた。


 止めるべきだと思った。でも、体が動かなかった。


 その手つきは丁寧だったが——急いでいた。優しさではなく、時間がないからこそ丁寧にしているような、そういう速さだった。


 まるで、最期の身支度を整えるように。


 ヘアバンドを使ってステラの髪も整える。たった五分で、見すぼらしかったステラが別人のように美しくなった。


 花魁がステラの頭を優しく撫でた。


 「愛らしい」


 そう呟いて——僕の耳元に顔を近づけた。


 周りには聞こえないほどの小さな声。しかし、確かな重みを持った言葉が、僕の鼓膜を震わせた。


 「……その子は、危険です」


 背筋が凍った。息が、音もなく喉に詰まった。


 「お名前を与えた瞬間、もう『親』になりました」


 花魁の声が、さらに低く沈む。


 「親になった者は——」


 言葉が、途切れた。


 花魁の目が、真っ直ぐに僕を射抜いていた。その奥に、言葉にしてはいけない恐怖が潜んでいた。


 「あなた様が死なれると、困る方がいらっしゃるのです」


 花魁の琥珀色の瞳が、一瞬だけ——氷のように冷たくなった。


 「離れなさい。今すぐに」


 優雅な口調が消え、冷たい命令だけが残った。


 花魁が一瞬、視線を伏せた。


 「——もう、遅いけれど」


 最後の言葉は、諦めに似ていた。


 「待って——」


 僕が声を上げる前に、花魁は身を翻して立ち去っていった。華やかな道中が再開され、群衆の歓声が、また波のように押し寄せた。


 僕は呆然と立ち尽くしていた。


 膝の上で無邪気に笑うステラを見下ろす。


 ——危険? 親になった者は、何?


 答えだけが、どこにもなかった。


 周りの視線に気づくまで、どれだけ時間が経っていたか分からなかった。膝の上のステラだけが、何も知らずに笑っていた。

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