第一話 黄色の野花
受験当日の朝に、雪が降っていた。
春を告げる三月だというのに、灰色がかった雪が冷え込んだ朝の空気とともに、街中に少しずつ積もっていく。
普段なら街を一望できる坂道も、今日は滑りやすく、駅にたどり着くまでの時間が倍近くかかりそうだった。スマートフォンから乗換アプリを開くと、数分の遅延が表示されている。
仕方がない、と思いながら、雪に覆われた街を眺めた。
前方には高層ビルが林立し、振り返ると、都心に巨大な桜の樹がそびえていた。
見上げている場合じゃない。僕は駅前のコンビニに駆け込んだ。
「いらっしゃいませ——」
眠そうなアルバイト店員の声を背中に聞きながら、僕は店内に足を踏み入れた。レジ横の壁には、ガーデンズ学園の受験案内ポスターが貼られている。一週間前から何度も目にしてきた紙だ。
ガーデンズ学園の受験案内ポスターには「共に創る未来」と書いてある。
でも、能力者の受験生がこの季節に行方不明になることは、どこにも載っていない。
「パゥパあぁ——」
子供の声が聞こえた。
ドリンクコーナーのガラス扉に、ある少女が顔を押し付けて中を眺めていた。親らしい大人の姿は周りには見当たらない。
僕は少女の隣に行き、しばらく様子を見た。
ボロボロになった服。靴も履いていない素足は赤紫色に腫れ上がっている。頬はあかぎれを起こし、爪は血の気を失って白く濁っていた。数日間洗っていない髪に汚れと雪が混じって、鼻をつく臭いが漂う。あばら骨が薄い布の上からでも見えるほど痩せている。足元には青あざ、背中には暴力の痕。
まだ薄暗い朝の時間帯に、子供が一人でコンビニの中を歩き回っている。上着を着ている僕でさえ、寒さが骨に染みる天気だ。なのに誰も助けない。誰も見ようともしない。
——迷子。
親に捨てられた子供の呼び名だ。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の中で二つの声がぶつかり合った。
「関わるな。今日はガーデンズ学園の受験日だぞ。お前の未来がかかってる」
でも、別の声が湧き上がってくる。
「この子を見捨てるのか?」
足が、動かない。
「行け」と理性が命じるたび、胸の奥が「待て」と叫ぶ。
どれくらい見つめていたんだろう。
その子と、目が合った。青緑色の瞳。薄く光ってる。珍しい色だ——じゃない。そうじゃない。
その奥に、何か見えた。希望でも絶望でもない——ただ、そこに『いる』。それだけだった。
息が、止まった。心臓が不規則に跳ねる。この子は何も訴えてない。何も求めてない。それなのに——その無言の存在そのものが、胸を締め付けてくる。
だめだ。
せっかく休みもらって準備したガーデンズ学園の受験なんだぞ。余計な仕事を増やして、本末転倒じゃないか。
分かってる。分かってるのに。
なのに——足が動かない。
「すみません、何か問題でも?」
レジに立っていた若いアルバイト店員が、在庫のチェックリストを手にして、僕の方に近づいてきた。制服のネームプレートには『星野』と書かれている。
「ノバナが店内にいます。かなり前からいたようですが、何か対応した方がいいでしょうか?」
「あー、ネコちゃんだ。また来ちゃったんだ」
星野は困ったような、それでいてどこか優しい表情でノバナに声をかけた。
「ね、ネコちゃん。これ以上はうちも面倒見られないって、昨日も言ったよね? 店長に見つかったら、もう私も庇えないよ?」
野良猫に話しかけるような口調。星野の言葉が終わっても、僕は返事ができなかった。手の中で、交通系カードの角が掌に食い込んでいた。
ただ同時に、僕は理解していた。星野もまた、この状況の犠牲者なのだということを。
「お知り合いのノバナのようですね」
「ええ、まあ……三日前から、私のシフトの時間に来るようになっちゃって。二日前なんて店の中を走り回って大騒ぎで。店長が警察呼ぶ寸前だったんです」
星野は疲れたような笑みを浮かべた。
「TGCに連絡したんですけどね、満員だって断られて。可哀想だから、シフト終わりに余り物あげてたんですけど……」
語尾を濁らせ、声が小さくなった。
「お願い。店長にバレたら、私も終わりなの」
その目には、憐れみと無力感が混じっていた。
すでに半分は関わってしまっている状況だった。しかし、今手を差し伸べるとすれば、正式にこの問題に関わることになる。
受験か、この子か。
選択肢は二つ。でも、本当は選択肢なんてなかった。
見捨てた未来で、僕は生きていけない。
仕方がない。
その三文字が、今日だけは違う重さを持っていた。
僕は連絡先から『小泉』を検索して通話ボタンを押した。
「もしもし、だれですか?」
「朝早くからすみません、小泉さん。炭咲です。急で申し訳ありません」
「炭咲くん? あれ、今日は休みじゃなかったっけ?」
まだ寝ぼけている様子なので、現場の説明から始めた。
「船堀駅近くで、ノバナを発見しました。十歳未満の女の子、一週間以上放置されています。他の班に確保される前に、小泉さんの班で保護していただけませんか?」
店員に小声で住所を聞き、小泉に伝えた。
「了解。今から出発して……四十分ほどかかるかな」
少しの間、沈黙が流れた。
「……よく考えたら、今日ガーデンズの試験日だよね? 間に合うの?」
間に合わないかもしれない。でも——今は、間に合わせたくない。
「大丈夫です。安全運転でお願いします」
言われなくても気をつけるよ、と軽く笑われた。
「あの、すみません。まだ勤務時間中なので……」
「長くなってすみませんでした。もうすぐセンターから人が来ます。それまでこの子を預かっていただけますか?」
星野は小泉の情報をメモした紙を受け取り、ノバナをスタッフ専用の休憩室に連れて行った。その前に、僕は自分の赤いマフラーをノバナに巻いてあげた。冷たく固まった小さな肩に触れた時、指先に伝わったのは、骨ばった脆さだった。
少女の青緑色の瞳が僕を見つめた。そこには疑問も、感謝も、何もなかった。ただ、純粋な存在の重みだけがあった。マフラーは母の形見だった。でも、後悔はなかった。
気がつけば一人になっていた。
急に静かになった店内で、僕は自分の呼吸音を聞いていた。手が震えている。さっきまでの緊張が、今になって体を駆け抜けていく。
不思議なことに、頭に浮かんだのはおにぎりのことだった。今起きたことを、まだ考えたくなかったのかもしれない。
最近の唯一の楽しみは、『大きな鮭はらみおにぎり』と牛乳だった。脂の乗った鮭はらみともっちりした米を牛乳で流し込む瞬間が、受験のプレッシャーから僕を解放してくれていた。
おにぎりコーナーは空っぽだった。
TGCとも呼ばれる東京庭園管理センターは、トゲと呼ばれる異能を持って生まれた子供たちを守るための機関だ。正式名称を知っている市民は少ない。僕も仕事を始めてからフルネームを知った。
本来なら、今日の帰り道には小泉さんへの報告書を書くつもりだった。
様式第九号──能力者保護届。今月だけで七件目だ。この調子だと、来月は十件を超える。
仕方がない、と呟きながら、残っていた卵サンドを手に取ってかごに入れた。レジで会計を済ませ、次の電車に遅れないよう急いで駅に向かった。
雪の中を走りながら、赤いマフラーの温もりが、まだかすかに残っていた。




