第七話 束の間の幸せ(下)
「パパ、起きて! 朝だよ」
久しぶりに夢のない夜を過ごし、ステラの声で目が覚めた。しばらく天井を見つめたまま何度か瞬きをし、「うーん」と唸りながら台所へ顔を向けた。
「炭咲さん、初日から寝坊ですか? 示しがつきません」
アリマが監督のような口調で僕を叱る。その手元では、こんがりと焼けた卵焼きが皿に乗っていた。まさか、と思いながら枕元の携帯を探す。布団の中を手で掻き回して、ようやく端末の角に触れた。
半分しか開かない目でデジタル表示を確かめると、午前八時を少し過ぎていた。
「ネネ、パパが何も喋らないの。どうしよう」
ステラの声が耳に届いて、ようやく頭が動き始めた。体を起こすと、寝癖のついた髪が額に垂れてきた。
窓から差し込む朝日が眩しい。まだ重い瞼を瞬かせながら、「おはよう、ステラ」と寝ぼけた声で返した。
「おはよう、パパ」
ぱっと顔を上げた拍子に、えくぼが浮かんだ。駆け寄ってきた小さな手が、僕の袖をぎゅっと掴む。
「ネネが朝ごはんを作ってくれたの。ステラも手伝ったんだよ!」
今度は胸を張った。袖を掴んだまま、上目遣いでこちらを見上げてくる。
「ねえパパ、ステラは良い子?」
「ああ、すごく良い子だ」
そう言いながら頭に手を乗せると、ステラは目を細めて受け入れた。出会ってまだ数日だというのに、以前は固く結んでいた口元が、今はこんなにも緩む。この子が僕に懐いているのか、それとも僕がこの子に慣れてしまったのか、もうよくわからなかった。
「お姉様、部屋の中では走らないでください」
それだけ言ってから、アリマの視線がこちらへ流れてきた。
「炭咲さんも、いい加減に起きてもらえますか。朝食が冷めます」
憤るアリマを眺めながら、昨晩の出来事を思い出した。
玄関ドアのロックが外れる音で目を覚ましたのは、深夜過ぎだった。横を見ると、ステラの隣で寝ていたアリマがいなかった。布団の端がまだ温かかった。
外に何か用事があるのだろうと思いつつ、再び眠ろうとした時、外から話し声が聞こえた。静かに玄関へ近づき、ドアに耳を押し当てた。
「……には来週まで回収できると……ください。その……はボタンさんにお任せします」
声の主はアリマだった。小さな声で、名前も分からない相手と真剣な話を、明け方近くまで続けていた。足が痺れても立ち続けた。はっきり聞き取れたのは、『回収』という単語だけだった。息を殺したまま、じっとドアに手をついていた。
「三十分後には家を出ます。今日からは電車で行きますので」
五日間という猶予が、誰かに向けて約束された期限なのだとしたら。その考えが頭の隅に引っかかったまま、うまく消えなかった。
「昨日は車で行くはずではなかったんですか?」
「追跡が厄介なので変えました。分かりましたら、さっさと起きてください」
追跡、という言葉だけが耳に残った。アリマの視線が一瞬だけ窓の外へ流れ、すぐに戻ってきた。
アリマの言葉を聞きながら寝床を畳み、洗面台へ向かった。
歯を磨こうとしていると、ステラが声をかけてきた。
「朝ごはんの準備ができたよ」
「もう少し待って」と言いかけたが、彼女はもう台所に戻っていた。
仕方なく軽く口をすすいでから、テーブルの前に座った。アリマが作った卵焼きを一口食べた。箸が、自然ともう一切れ伸びていた。
急かされるように家を出て、乗り換えを二度繰り返した。
電車の中でもアリマは緊張した様子で、タブレットから手を離さず、乗り換えアプリを一分ごとに更新していた。隣に座ったステラが窓の外を眺めているのを横目に、声をかけた。
「電車が少し遅れているみたいですが、余裕はあります」
アリマは画面から目を上げなかった。
「……平日ですし、混雑する心配もないですよ」
九時を過ぎても車内は出勤客で混雑していた。僕と各務家の二人姉妹という組み合わせは、周りの目には珍しく映ったようだ。
しばらくすると、前に座っていた中年の男性が立ち上がり、声をかけてきた。
「お疲れさま。よろしければどうぞ」
「お気持ちだけで十分です」と丁寧に断ったが、「遠慮しなくていいよ」と言われた。
結局、ステラを膝の上に座らせ、隣にはアリマが座った。男性は満足そうに頷き、吊り革につかまった。
「炭咲さんは上野動物園に行ったことがありますか?」
「僕も今日が初めてです」
アリマはため息をついた。それ以上話しかけてこなかった。膝の上のステラが、アリマと僕の顔を交互に見上げた。
上野公園に着くと、動物園の入り口に続く長い列が目に入った。十一時過ぎに到着したからといって、人が少ないと思ったのが甘かった。
列に並んでいるのは大半が家族連れで、何かのイベントでもあるかのような賑わいだ。この人数だと、全体を回るまでかなり時間がかかりそうだった。
「ありえないわ」
アリマが呆然とした声で言った。しばらく列の先を眺めてから、独り言のように続けた。
「データが古かった」
気まずい沈黙を破るように、ステラに明るい声で話しかけた。
「みんな、パンダさんが好きなんだね。ステラ、あれ見て。パンダさんだよ。可愛いでしょう」
ステラが僕を見上げる。
「パンダさん、怖い。パパ、抱っこ」
「いやいや、パンダさんは可愛いよ。ふわふわでぷよぷよだから、ステラも見たら好きになるって」
「パンダさん、触れる?」
熊は人を襲うこともある——とは言えなかった。曖昧に答える。
「実はパンダさんって皆のアイドルで、ファンがすごく多いんだ。もし一対一で会えたら、大勢の人が集まってパンダさんが疲れちゃうから、ステラまで順番が回らないと思う」
会えないと聞いて、ステラが泣きそうな顔になった。
「その代わり、パンダさんの親衛隊が動物園を貸し切ってコンサートを開くから、今日は遠くから応援しようね」
「そうなんだ。パンダさん人気だね。ステラもパンダさんみたいになれる?」
「もちろん。ステラはパンダさんより可愛いから、有名なアイドルになれるよ」
「じゃあ、パパがステラの護衛になって守ってね。約束!」
約束の小指を差し出したステラが明るく笑った。その笑顔に、僕も小指を差し出す。これで動物園に入るまで時間がかかっても、ステラは理解してくれるだろう。
問題は、さっきから爪を噛んで落ち着かないアリマだった。
「まだ大丈夫。パンダを見るまで……時間がある」
押し殺したような声だった。顔に手をかざして表情を隠しながら、アリマは呟き続けている。隣に立つアリマの肩が、かすかに震えていた。
僕はチケットの列を眺めるふりをして、そちらから目を逸らした。
当日券の列に並び、チケット三枚を購入して動物園に入るまで、およそ一時間かかった。
入って、三十秒。次。三十秒。次。——気づけば出口だった。
僕はパンダの可愛い仕草より、浮かれてギャンギャン喋る子供たちの声に疲れていた。隣を見ると、アリマも同じ顔をしていた。そう思ったところで、ステラが口を開いた。
「パパ、ゾウさんも観に行きたい」
東園にいるゾウを見るには、もう一度いそっぷ橋を渡って反対側に行く必要があった。僕はため息を吐いて、ステラの頭を撫でた。
「ゾウさん以外にも観たい動物はいる?」
橋を渡る前に、まとめて聞いておきたかった。
「ううん、白いパンダさんと猫さんも観たい!」
上野動物園のマップから顔を上げて、ステラが聞いた。
「パパは?」
「パパはもう大丈夫かな」
「ええ、何それ。つまらない。パパも選んでよ」
しつこく付きまとうステラには敵わない。適当に西園で子供が一番嫌がりそうな動物を指差した。アリマがこちらを一瞥したが、何も言わなかった。
「カ・メ・レ・オ・ン?」
一文字ずつ発音したステラは眉根を寄せた。
「変な名前。可愛くない」
狙い通りだった。ステラの眉根がまだ寄ったままなのを確認して、努めて真剣な顔を作った。
「カメレオンはね、近づくと色が変わるんだよ。突然だから、びっくりするかもしれないけど」
ステラが僕の手をぎゅっと握った。
「……色、変わるの?」
「そう。赤くなったり、緑になったり」
「……見たい」
怖いのか見たいのか、自分でも決めかねているような声だった。
このまま東園の動物だけで今日を終わらせられる——そう踏んでいた。
「でも、パパも好きな動物を見ていいよ」
ステラが決心したようにベンチから身を起こした。
「行こうよ、パパ。カメレオンが待ってるよ」
引かれた手に、逆らえなかった。
親切なステラのおかげで、僕はカメレオンのいるビバリウムに行き、中にいる爬虫類と対面し、東園でステラが見たかった動物たちを次々に訪れた。パンダに比べて人は少なかった。
カメレオンまで見終わると正午になった。お腹が空いてきたステラの手を繋いで、池の近くのカフェに寄った。ホットドッグとオレンジジュースを注文し、テーブルに座ってしばらく休憩した。
アリマはトレーを受け取ると、ステラの分を先に並べた。
「パパ、次はここだよ!」
広げたマップを指で叩きながら、ステラが言った。午前に回れなかったエリアだった。
「お姉様、今日はもう十分回りました」
アリマが静かに口を開いた。
「でも——」
「また来ればいいんです。今日じゃなくても」
珍しく穏やかな声だった。ステラはしばらくマップを見つめてから、折り畳んでポケットに入れた。
足の裏が熱を持っていた。箸の動きも鈍い。それでもステラは食べ終わると同時に立ち上がり、僕の袖を引いた。アリマは黙ってトレーを片付け、先に立った。
午後の営業時間いっぱいまで、動物園で過ごすことになった。
空を見上げる。灰色だ。冷たい風が頬を撫でて、首元に入り込んだ。
ようやくスマホを触る余裕ができた。何となくヘルスケアアプリを開いて、歩数を確認する。
——一万歩超え。ふくらはぎが痛いわけだ。
「私が立てた計画って、どうしていつも上手くいかないんでしょう」
帰りの電車。眠ったステラを背負って座席に座る。ぼんやりと窓の外の夕焼けを眺めていると——アリマがしくしく泣き始めた。
え?
両手が塞がったまま、どうすることもできなかった。
「アリマ、次の駅で降りよう」
ベンチに座らせた。アリマは周りの目も気にせず、声を上げて泣いた。
「私って、だめな人間です。全然、役に立たない」
垂れる鼻水をハンカチで拭いながら、アリマは続けた。
「炭咲さんもそう思いますよね?」
僕はアリマの隣に座った。発車した電車が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「今日、生まれて初めて動物園に行ったんです」
口を開く。
「六時間も歩いて、さすがに疲れましたけど――絵本でしか見たことなかった動物を、実際に見られて……楽しかったです」
子供の頃は外に出られなかった。施設に入ってからは監視される毎日で、独立してからはバイトで生活費を稼ぐだけで精一杯だった。動物園に行くという選択肢が、自分の人生に存在したことがなかった。
「僕は——自分の人生を、たった一人にフォーカスしてたんです」
風が止んだ。遠くで電車の走る音がした。アリマは何も言わず、ただ前を向いていた。
「昔からの復讐計画。それを実行に移すために、ずっと準備してきました。今年の春、ガーデンズ学園に入学しようとしたのも、その計画の一部で」
でも。
「三月の共通テストが延期になって、ステラに会ってから——何もかも変わった。自分が思ってた日常とは、全然違う人生を生きてるんです」
膝の上で手を組んだ。石畳の隙間に、枯れ葉が一枚挟まっていた。
「正直、よく分からないんです。今のままでも、悪くない——そう思う自分が、いる。でも、怖いんです。やり直すって、どこからすればいいのか」
そこから目を離せないまま、続けた。
「あの人は、僕が追いかけるたびに遠ざかる。それでもやめられなかった。七年間——」
言葉が止まった。背中で、ステラの重みがずしりと感じられた。
「最初からやり直せって言われても、無理なんです。今まで耐えてきた自分が、もったいなくて」
隣で、アリマが膝の上で手を握った。何も言わなかった。
ふと顔を上げると、アリマはいつの間にか涙を拭いて、じっと僕の話を聞いていた。
「でも——今日は違った」
自然と笑みがこぼれる。
「今日は、そんなこと忘れるくらい楽しかったんです。計画通りにならない人生でも、大丈夫かもって。初めてそう思えました」
ステラの小さな手が、背中越しにぎゅっと僕の肩を掴んでいた。
「だから、アリマ。人生初の動物園に連れて行ってくれて、本当にありがとう」
言葉を吐き出した途端、耳の裏が燃えるように熱かった。視線を逸らしたまま、続けた。
「また——また今度、一緒に行ってもいいですか?」
人を労う言葉なんて、慣れてない。言い終えてから、視線を地面に落とした。手のひらに汗が滲んでいた。
「あ」
とだけ言って、アリマの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「それってデートの誘い?」
僕は慌てて頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「ううん、違う」
アリマは泣きながら笑って見せた。袖で目元を拭った。
「気が楽になった。……なんで泣いてるんでしょう、私」
独り言のように呟いてから、こちらを見た。
「ありがとう」
泣き顔のまま、それでも笑っていた。
ああ——
アリマの笑顔が、雨上がりの空に似ていた。眩しかった。
僕はアリマの頭に手を伸ばしていた。
「よく頑張った」
ぽん、ぽん、と撫でる。アリマは何も言わずに、僕の胸に身を預けてきた。次の電車が来るまで、じっと。
まだ、二日目だ。
残りは四日。




