第八話 親娘喧嘩
「お前も、この家から出ていけ」
冷たい声が部屋に響いた。
僕の声だった。取り返しのつかない言葉が、口をついて出てしまった。
三人での生活が始まって四日目の朝だった。三日目は、映画館で笑って、帰って、眠っただけの一日だった。その代償だろうか。朝、熱と咳で目が覚めた。
起き上がろうとして、やめた。喉が焼けるようで、水を口に運ぶだけで精一杯だった。枕に頭を戻すと、天井がぼんやりと滲んだ。
アリマさん……今日は、無理です。ステラと二人で行ってもらえますか」
今日の予定は葛西臨海水族館だった。タクシーでの移動をアリマが提案したが、そこまでする必要はないと断った。
「いけません。一緒に行かないと意味がありません」
アリマの声は有無を言わさない調子だった。
「午後に出発しますので、それまでに体を休めて治してください。お願いします」
「午前中に治る病気じゃない」
布団を顎まで引き上げた。それでも寒かった。
しかし、頑固なアリマは一歩も譲らなかった。
「午後の予定を変更して、まず病院に行きます。薬を処方してもらって、水族館にはタクシーで向かいます」
アリマは淡々と着替えの準備を始めた。引き出しを開ける音が、頭に響いた。
「お姉様にインフルエンザが移らないよう、室内でもマスクを着けてください。タクシーが到着次第、予定通りに動きます」
口を挟む隙がなかった。
「今日は休みます。あとは僕抜きで好きにしてください」
「契約を放棄するおつもりですか?」
アリマが舌打ちをした。
「あなたは父親役を何だと思って契約したのですか?」
一段低くなったアリマの声が、静かに刺さった。
「父親とは、子供が生まれた瞬間から責任を負う存在です。自分より子供を優先する。自分を犠牲にしても守る。それが親なのです」
言葉が返せなかった。布団の端をぎゅっと握った。
ステラが二人の間に入ってきた。すでに外出の準備を整えている。僕とアリマの顔を交互に見上げた。
さっきまで平和だった雰囲気が、なぜこんなに張り詰めているのか。小さな顔に戸惑いが浮かんでいた。
アリマの声が遠い。熱のせいか、言葉が耳の表面を滑っていく。
「炭咲さん」
アリマが一呼吸置いた。
「あなたは今、お姉様の父親です」
義務とは何だろう——その一言だけが、ふと引っかかった。
何度も自問したが、答えは見つからない。腹の底が熱くなるのに、向ける相手が見当たらない。気づけば、拳を握っていた。
「怖いパパはダメ。ネネに優しくして」
隣で話を聞いていたステラが、軽くパンチを繰り出した。
奥歯を固く噛み合わせ、肩で息を吐いて背筋を伸ばす。涙の跡が残る顔が目の前に迫った。拳を握ったまま、息を一つ吐いた。
「うるさい。邪魔だ、退け」
右腕を上げ、ステラの肩を押し退けようとした。
「ネネ——!」
アリマの声で、手が止まった。
僕の手は、予想以上に強くステラを押していた。指先が、じわりと冷たくなった。
「いや、僕は——」
ステラと目が合った。激しいショックを受けて、泣きそうな顔で僕を見つめている。
喉の奥が、きつく締まった。何か言おうとして、言葉が出なかった。
「パパなんて——大嫌い」
それだけ言い残して、ステラは素足のまま外に飛び出した。
鉄の階段を駆け降りる足音が響く。呼び止めようと手を伸ばしたが、壁から不吉な音がした。
視線を移す。
ステラの足に絡まった赤い糸が、壁の写真を次々と引き剥がしていく。
写真が床に散乱し、玄関のドアには糸に絡まった紙がぶら下がっている。
しばらく、その場に立ったまま動けなかった。
長い沈黙を破って、僕は口を開いた。
「お前も、この家から出ていけ」
アリマが僕を一瞥した。
「このまま、お姉様がまた行方不明になったら、ただでは済まないと思ってください」
アリマは僕のコートを借り、玄関のドアを開けっ放しにしたまま、ステラを探しに出て行った。
足音が遠ざかった。
破れた関係図を見上げ、くすくすと笑った。
大いに空振りをした気分だ。ジェットコースターのような感情に振り回されて、幼い子供に八つ当たりした。
起きたことに後悔しても無駄だ。
灰色のチェスターコートを羽織り、鍵をかけて外に出た。
普段より強い雪が降っている。
白い息が広がる。朝なのに、曇り空が街に影を落として夜より暗い。コートの襟を立てた。
まだ五分も経っていない。それでも足が勝手に速くなった。
「はあ、もうこの街を離れてしまったかもしれない」
足跡が雪で消え、立ち止まった。手袋のない指先が、すでに感覚を失いかけていた。その時、雪の上に何かを見つけた。
壁にピン留めした赤い糸と同じものだった。
しゃがんで指で触れた。間違いない。息を吐いて、立ち上がった。
外に出た時、糸が体に引っかかって地面に引きずられたようだ。雪の積もった住宅街で手がかりを追い、駆け出した。
道路の端で右に曲がり、小さな橋を渡る。足が止まったのは、帰り道にある工事現場だった。四月完成予定で、周りに人影はない。
赤い糸は入口のパネルゲートの奥まで続いている。入口近くの安全ヘルメットを被り、中に入った。こんな状況でも被るのか——と、自分でも少し可笑しかった。金属の冷たさが、指先に伝わった。
金属の板の足場と防護ネット、養生シートで囲まれた内側は、外からの光が遮られ、夕暮れに近い暗さだった。
雪風で単管パイプがぶつかり合い、甲高い音を鳴らす。思わず足を止めて、耳を澄ませた。
「ステラ」
小さく呼んでみた。返事はなかった。
暗闇が、足を奥へと向かわせた。
「……けて」
闇の奥から声が聞こえる。
「た……け」
湿気が濃くなった。一歩ずつ声の方向に近づくと、人の顔と片手が闇の中に浮かんでいた。力なくうめいている。赤い糸が片手にぶら下がっていた。
後ずさりしながら、前方への警戒を強める。足音を殺した。
「タスケテ——」
遺言のような言葉を最後に、闇に飲み込まれ、姿は消えた。
闇の向こうで何かが動いた。
骨が砕ける音がした。次いで、物足りなさそうな舌打ち。
しばらく待った。何も聞こえなくなった。
闇の向こうから姿を現したそれは、左右の眼球を別々に動かしている。大きく長い鼻、彫りの深い顔立ち。野生の威嚇が全身から滲み出ていた。
大きめの爬虫類らしき何かが、ぜいぜいと荒い息をつきながら近寄ってくる。暗闇で正体は確かめられない。
地面に残された見慣れない足跡——アルファベットのYのような形で、根本から二つに分かれ、その先がまた二本と三本の指に分かれていた。
二日前に動物園で見た生き物だ。ステラが怖いと言って、僕の手をぎゅっと握った、あの生き物だ。
次の瞬間、それが消えた。
音だけが残った。荒い息が、暗闇のどこかから聞こえてくる。近い。でも、どこにいるか分からない。
空気が動いた。右だ——振り向いた瞬間、何もいなかった。
また音がした。今度は左。
「……誰かが、持ち込んだのか」
一歩後ずさった。踵が金属の足場に当たった。
「バケモノじゃないか、おい」
首筋の毛が逆立った。呼吸の音さえ、出しすぎてはいけない気がした。動物園で見たカメレオンは、わずか二十分の一秒で舌を伸ばし、粘液で獲物を捕らえた。目にも止まらない速度——考えるより先に、体が反応する。
それでも、ステラがこの中にいるかもしれない。
息を殺したまま、その場に立ち尽くした。
「下手に動かない方がいいです」
隣から聞き慣れた声が響いた。
「お姉様がこの中にいます。先にお探しを」
「アリマさんは無事ですか?」
ステラが心配だったが、妹の安全も確認しないと——あの子に申し訳ない。
「今は私より、そっちです」
ステラの顔が頭をよぎった。
それだけで、足が動いた。カメレオンから視線を切って、アリマの方へ体を向けた。
「炭咲さん、直ちにその場から離れてください」
アリマの合図に合わせて、巨大な影が地面に伸びた。突然現れた爬虫類が地鳴りを起こし、僕と先ほどのカメレオンの間に割り込んだ。
二匹の間で空気が震えた。
黒みを帯びた緑色の体を持つ色違いのカメレオンが、激しくぶつかり合う。足場が揺れた。養生シートが風もないのにはためいた。
その隙に、暗い鉄骨の中を走った。足元の金属が鳴るたびに、舌打ちをしたくなった。
「ステラ!」
声が鉄骨に反響して、すぐに消えた。
「ステラ、答えろ。どこだ」
「パパなんか来ないで。一人でいる」
反応は意外と上の方から聞こえてきた。
周りを見渡すと、作業用の仮設階段を発見した。階段は狭く、建物の壁に張り付いて歩かないと単管パイプに上着が引っかかってしまう。小さい子供ならちょうど自由に通れる幅だ。手すりを掴んで、一段ずつ確かめながら登り始めた。
「一緒に降りよう。アリマさんが待ってる」
上からだだだだ、と走る音が響き、階段全体が軽く揺れた。思わず手すりを握り直した。
「ステラ、動くな。今行く」
その瞬間、下からアリマの声が上がった。
「ネネ、危ない!」
顔を上げると、一匹のカメレオンが単管パイプを木の枝のように器用に伝って登っていた。さっきの二匹ではない。体が大きい。動きも速い。
カメレオンより先にステラの階へ——階段を諦め、工事用の鉄パイプを踏んで登り始めた。上着の袖が単管に引っかかり、構わず引き千切った。
「ステラから離れろ」
人の言葉を理解したかのように、ギョロリと目玉が反応した。
しかし、カメレオンは僕を見下ろしながら体を前後に揺らし、長い尻尾をくるりと巻いて腹に密着させた。一歩も退かない。
カメレオンとの距離を三分の一ほどに縮め、再び階段を駆け上がる。二、三段を一気に登ると、風邪の疲れなど感じる暇もなかった。
「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止だ」
深呼吸一つで体重を片足に乗せる。膝を内側に向けて腕を伸ばし、体をひねってカメレオンの腹にパンチを叩き込んだ。
爬虫類の皮膚は硬く、肩がずきずきと痛む。拳を開いて、もう一度握り直した。だが、カメレオンは体を膨らませ、威嚇音を発した。
「カメロンちゃんを傷つけないで」
ステラの声。顔を上げた瞬間、カメレオンの尻尾が僕の首に巻きつき、きつく締め付けた。
息が詰まる。体に力が入らない。
カメレオンの目の前まで運ばれた。自分より大きな爬虫類と目が合う。背筋にざわっと鳥肌が立った。爪先が宙に浮いていた。
自分より大きな爬虫類と目が合う。背筋にざわっと鳥肌が立った
「パパを食べちゃダメだよ。カメロンちゃん、こっちにおいで」
ステラが子供をあやすような口調で巨大な爬虫類に呼びかけた。カメレオンは素直に言うことを聞いて、僕をステラの前に降ろしてくれた。
ごほんごほんと咳き込み、ようやく息を整える。膝をついたまま、顔を上げた。
「ステラ?」
ステラの顔を見て、続けた。
「怪我は?」
「邪魔だって言ったのに、なんでステラのことを探したの?」
「ごめん。謝りに来た」
しばらく間があった。足元の鉄骨が、風で微かに鳴った。
「ここから降りながら、話そう」
ステラは首を横に振った。腕を胸の前で組んで、視線を逸らした。
「パパがステラの心を傷つけたから、一緒に帰らない。だから、別に謝らなくてもいい」
腰を落として、ステラの顔に目線を合わせた。
「本当にごめん。僕が悪かった。ステラは何も悪くない」
ステラの目尻が赤くなっていた。下唇をきゅっと噛んで、黙っていた。
「パパ、本当に反省してる?」
「している」
「じゃあ、今度は優しいパパになる?」
「なる。約束する」
ステラは小さくうなずいた。袖で目元を拭って、顔を上げた。
「カメロンちゃんも、ステラを守ってくれたの。だから、カメロンちゃんにもありがとうって言わなきゃ」
僕はカメレオンの方を向いて、頭を下げた。
「ありがとう、カメロン」
カメレオンは色を変えながら、満足そうに鳴いた。
ごほん、と咳が出た。両手に力が入らない。じわじわと、熱が這い上がってくる気がした。
「下に降りよう」
ステラは僕の手を取って、にっこりと笑った。
「うん。でも、パパの熱は大丈夫?」
「君が無事なら、もう何でも大丈夫だよ」
三人と一匹は、雪の降る工事現場から静かに家路についた。赤い糸が、雪の中に鮮やかに映えていた。
ステラは拗ねた顔をしていたが、繋いだ手はずっと離さなかった。時々、カメレオンの方を振り返って、ちゃんとついてきているか確かめていた。
アリマは何も言わなかった。ただ、僕の少し前を歩きながら、傘を差し出してきた。
「僕がどうすればいいか教えてくれない? 誠意が伝わるまで謝りたい」
「セイイ? ステラはムズカシい言葉は知らないの」
ステラが皮肉めいた口調で言い返した。
「さっきのステラが話したこと、全然聞いてないんだ。サビシい」
返す言葉が出なかった。口を開きかけて、閉じた。視線をステラの膝元に落としたまま、次の言葉を探した。
「分かった、アリマさんに怒ったからだ。そうだろう?」
ステラは言った。
「パパ、何を嬉しげな顔をしているの? ステラ、まだ怒ってるよ」
両腕でしっかりと膝を抱き、幼い顔に不機嫌な表情を浮かべている。ステラは僕から顔を背けた。
頭を下げた。畳の目を数えながら、言葉を選んだ。
「アリマさんに本当に申し訳ないことを言ってしまい、すみませんでした」
「違う、違うの。それじゃないの。なんでステラの前で嘘をつくの?」
頬が、じわりと熱くなった。口の中が乾いた。
「大丈夫、ステラはパパの話ぜんぶ聞いてあげる」
ステラが僕の頭を撫でながら慰めの言葉をかけてくれた。その手の温もりに触れて、父親が嫌いになった理由を思い出した。
僕は昔、父親——あいつを世界一尊敬していた。
書斎のドアが少し開いているとき、廊下まで音楽が漏れてきた。食卓に並ぶおかずが一品になっても、父親は本だけは惜しまなかった。六歳の僕は、その背表紙を指でなぞりながら、いつか全部読めるようになると信じていた。
知らない単語は父親に聞いた。父親は必ず答えた。それだけで十分だった。膝の上に乗せてもらえなくても、頭を撫でてもらえなくても。
だからこそ——あの日、父親の仮説を証明する実験台として手を挙げた時、迷いはなかった。僕を選んでくれた。それだけを考えていた。手を挙げた瞬間、父親が初めてこちらを見た。
手術は成功した、と後から香月に聞いた。
「君を育てるために俺の目標を諦めたくない。だから、君は俺に恩を返す必要がある」
父親の声は、書斎から漏れる音楽と同じ温度だった。
結果的に——父親は出世し、残りの二人は一握りの灰になった。
施設に入って一週間、僕は服を着替えなかった。父親が来た時、すぐに分かるように。毎日、入口に近い窓際の席に座った。
一ヶ月後、電話をかけて謝った。僕が何か悪いことをしたのだと、まだ思っていたから。
一年後、復讐を誓った。そうしなければ——自分がいつかあいつと同じになると、怖かったから。
父親一人のために、我を捨て、過去を捨て、家族も捨てた。
父親一人のせいで、名を捨て、未来を捨て、命まで——。
ステラが、じっとこちらを見ていた。
子供の目ではなかった。
この子は、知っている。どこまでかは分からない。ただ、知っている。
「アリマさんは正しかった。それは分かってる」
膝の上で、拳をゆっくりと開いた。
「なのに——あいつと同じことをした。ステラに、アリマさんに」
声が途切れた。手のひらを見つめたまま、動けなかった。
「パパの役割が、うまくできない」
アリマが、僕を見た。
「手本が——最悪だったから」
膝の上で、拳をゆっくりと開いた。
「もらったことがないから、あげ方が分からない」
雪が、静かに降っていた。
「最初から君の保護者にならない方が良かった」
ステラが顔を上げた。目尻が赤く濡れていた。
「パパはステラのパパなの。ステラが選んだの」
瞬きを、忘れた。
「ごめん、ステラ。僕は、君のパパには——」
「いやだ、いやだ、いやだ。聞きたくない、キキタクないない、ない!」
足場がビリビリと震えた。ステラの声が空気ごと揺らしていた。ステラの手が僕の袖をぎゅっと掴んだ。
「極めてセンシティブなお姉様です。それ以上は刺激しないでください」
背後から密かに忍び寄った声が僕の耳を打った。
「アリマさん?」
「説明は後からにします。今はお姉様を抱きしめて落ち着かせてください」
アリマの言葉が、かすかに乱れていた。
「ネネ!」
ステラの叫びに、アリマの肩が跳ねた。
「ステラのパパを返して!」
足場が崩れた。咄嗟に前へ飛び出し、右手でステラの頭を庇いながら懐に抱き寄せた。ステラの体が、思ったより軽かった。落下しながら、それだけを思った。
一本の単管パイプに指を食い込ませ、ぶら下がった。
パイプが、きしんだ。歯を食いしばった。足先でパイプを探りながら、体を引き上げた。
「アリマさん、ステラを頼みます」
最後の力を振り絞って、ステラをアリマがいる階まで押し上げた。アリマの手がステラを受け取るのを確認した。その直後、鉄のパイプが折れた。
ガラガラと音を立てて鉄骨が崩れ落ち、工事現場は砂煙に包まれた。風が耳を切り裂く。やがて静寂が訪れた。
心臓が、まだ動いている。
瓦礫の中で、指先を動かした。痛みより先に、眠気が来た。右手から順に、感覚が鈍くなっていく。
大きなあくびが出た。瓦礫に背を預けたまま、雪を見た。一粒が頬に触れて、溶けた。それだけが、妙にはっきりと分かった。目を閉じたら、そのまま眠れそうだった。
「なんだか——疲れた」
ステラの姿を探した。首だけを動かした。視界が、白く滲んだ。
「パパ、死んじゃだめ」
どこからか少女が泣き声を迸らせた。
ステラの声が、遠い。目を向けようとしたが、首が動かなかった。
寒い。喉が渇いた。息を吸うたび、喉の奥から血が込み上げて——ゴホッ、と咳が出る。
また咳が出た。鉄の味が広がって、息が細くなる。指先の感覚が、もうなかった。
ステラを助けた初日。初めて新吉原に泊まって、初めて父親に逆らって、初めて動物園にも行った。
全部、初めてだった。
悪くなかった。むしろ——白と灰色しかなかった僕の世界が、色づいていたんだ。瞼の裏に、ステラの笑顔が浮かんだ。
空に浮かぶ積乱雲を眺める。雪が、顔に落ちてきた。
足元が、もう一度うねった。腹の底まで、揺れが届く。
目を閉じた。
「パパはステラが救ってみせる」
崩れたコンクリートの地面から、太い樹の根が勢いよく伸び上がった。僕の体は暖かなオレンジ色の光に包まれ、生々しい何かが喉の奥に流れ込んでくる。
飲め。飲まないと死ぬ——!
全身の細胞が悲鳴を上げるように、光を貪り始めた。
目が、開いた。息を吸った。冷たい空気が、肺の奥まで入ってきた。
地面から生えた太い根が、崩れた瓦礫を支える壁になっていた。外へと続く通路を作り出している。
体を起こした。膝が、がくりと折れた。それでも立った。
僕は雨の匂いがする森のトンネルで、道の真ん中に倒れているステラとその隣のアリマを見つけた。
「ネネ、ネネ!」
「……何が起きた」
「全部あなたのせいです! お姉様を刺激するなって、あれほど言ったじゃないですか!」
アリマの声が震えている。
「お姉様が力を使ってしまいました。……最悪です」
そんなこと言われても、今はステラしか見えない。
ステラは汗びっしょりで、ふう、ふう、と荒い息を吐いている。体も小刻みに震えてる。手を伸ばしたが、触れていいのか分からなかった。気づいたら、ステラの手を握っていた。冷たかった。
「お姉様がまだ意識があるうちに、ここから出ましょう」
重いコンクリートの破片を支えていた樹の根が、軋むような音を立て始めた。砂埃が頭上から落ちてきた。
「一人で走れますか?」
頷いた。ステラを抱えて、アリマと一緒にトンネルを駆け抜ける。ステラの体が、さっきより重かった。
外に出た瞬間、アリマがステラの顔を覗き込んだ。何も言わなかった。それだけで、事態の深刻さが分かった。
工事現場が——崩れかけてる。
「離れましょう!」
僕らは走った。
ドオオオオン——!
振り返らなかった。それでも、背後で何かが崩れ落ちる音が、足元まで伝わってきた。アリマが僕の腕を掴んで、さらに速く走った。初めて、アリマの手が震えているのに気づいた。
家にいた人々が、それぞれ動きはじめた。窓を開けて様子を確認する者、消防車のサイレンを聞いて外に飛び出す者。
騒然とした光景に向かって、人々が足早に駆け寄っていく。その流れに逆らうように、僕だけが反対方向へ歩いていた。




