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第九話 残像の末裔

 家に帰った僕は、ステラをベッドに寝かせてから、アリマと二人で家の近くのカフェに向かった。ぼろぼろの服では外を歩けないので、とりあえず上着だけ着替えて出た。


 店内の最も奥にある、三方を壁に囲まれた小さなテーブル席に座った。柔らかな照明の下で、僕たちは暖かいコーヒーを二つ注文した。


 他に客はいない。小さく流れるジャズと淹れたてのコーヒーの香りが、静かな店内を満たしていた。


 「ステラについて、僕に何か話したいことがあるのですか?」


 僕は迷わず本題を切り出した。


 「順を追って話します」


 アリマが軽く頭を下げる。


 「ガーデンズ学園でお姉様を助けていただき、ありがとうございました」


 アリマの視線が、こちらから動かなかった。


 「炭咲さんのおかげで、お姉様の行方を把握できました」


 夜明けに誰かと電話していたアリマの声を、思い出した。


 「事件が起きた現場で、バベルの関係者から樹の一族について話を聞きましたか?」


 自分の膝の上で、指が少し動いた。


 「人を収穫するとか、罪人扱いしたことは覚えていますが——一族の正体については聞いていません」


 アリマは一度だけ、小さく頷いた。


 「樹の一族とは、巨樹から生まれた末裔です。文献では絶滅したとされています」


 テーブルの木目に、視線が落ちた。


 「ですが、巨樹の呼び声を直接聞いたという記録が残っています。実際にどのようなトゲを持っていたかは、分かっていません」


 「少なくとも、僕は樹の一族ではありません」


 アリマはその答えを聞いて、静かに頷いた。


 「もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」


 指先が、テーブルの端に軽く触れた。


 「樹の一族と関係のある研究所に、ご家族や知人が勤めていましたか?」


 「特にいないと思い——」


 言葉が、途中で死んだ。


 香月の顔が出てきた。病院の廊下。父親の名前を口にした瞬間、香月は何か言いかけて——僕の顔を見て、やめた。


 アリマの顔の上に、病院の廊下が重なった。


 「なるほど……分かった」


 あの言葉が今になって、喉に刺さる。


 七年前のあの夜。いつもなら父親と並んで研究室に残っているはずの母親が、その夜だけ早く帰ってきた。布団に入ってきて、僕の手を握って、注射を打った。棚に並んでいたどの薬とも、違った。


 ——母親も、研究員だった。


 なぜ今まで、そこに気づかなかったのか。頭の中で、父親だけがずっと中心にいた。母親の輪郭を、自分でどこかに押しやっていた。


 「その反応、誰かいるのですね」


 椅子が、静かに軋んだ。


 「最初にお会いした時は緑埜社長かと思いましたが、彼が本格的に活動したのは緑埜家に入ってからでした」


 「待ってください。まだ僕はその質問に答えていません」


 アリマが背もたれに体を預けた。細い指が、膝の上で静かに重なった。目を閉じた。


 「今の沈黙が答えです。何かを隠したいなら、せめて間の取り方くらい意識した方がいいでしょう」


 奥歯を噛んだ。


 「あいつが——父親が実験をしたから、僕の家族は亡くなったんです」


 話が白熱する中、店員が注文の品をテーブルまで運んできた。


 小さなショートケーキが添えられていたので尋ねると、今日最初のお客様へのサービスだという。甘いものが苦手な僕は、それをアリマに譲って、自分の前にはコーヒーだけを置いた。


 「各務コーポレーションは十年前から、ダイアモンドクラブのメンバーと共同で、ある研究を進めていました。巨樹の遺伝子から——トゲを、人工的に発現させる薬剤の開発です」


 アリマはコーヒーを一口飲んで話を続けた。


「研究開始から三年目の三月——ある夜、メンバーの一人が巨樹の冬芽から特殊なサンプルを抽出しました。通称『青薔薇アオバナ』。それは現代人には発現しない、樹の一族のトゲだと判明したんです」


 話を聞いて、ふとあいつの書斎で見た研究資料を思い出した。英語だらけで内容は理解できなかったが、細胞のイラストだけは妙に印象に残っている。


 「問題は、青薔薇を定着させる条件でした。巨樹から取り出した青薔薇を体内に移植すると、どんな生物でも必ず拒絶反応を起こす。ネズミも、猿も——イルカでさえ、最後は同じでした」


 アリマはそこで口を閉じ、カップをソーサーに戻した。


 一呼吸置いて、彼女は続けた。


 「研究が行き詰まっていたその時、意外なところから突破口が見つかったんです」


 黙ってアリマの話に耳を傾けた。


 各務家の話だと思っていた。なのに気づけば、僕の知らないどこかへと引き込まれていく。今まで信じてきたものが、足元からじわじわと崩れていく感覚があった。


 「青薔薇が反応を示す唯一の生物は——人間でした」


 「人間……まさか」


 「ええ。しかも、生きた人間の血液でなければ青薔薇は完全には開花しない。その条件が判明すると——」


 アリマは一瞬、目を伏せた。


 「研究チームの中から、自ら被験者を志願する者が現れました」


 「——誰なんですか。その研究員」


 喉が鳴った。視線がアリマから離せない。


 「名前までは……資料に、残っていないんです。ただ——」


 アリマが言葉を濁す。


 「最初の実験は、体の不自由な幼い子供を対象に行われたと記録されています」


 コーヒーカップが視界の端にある。湯気はもうない。


 話に出てくる幼い子供は体が不自由だったという。だが僕の身体に特別な問題はない。だから僕とは違うはず——


 体が不自由な子供。でも僕には、そんな過去はない。だから関係ない——


 関係、ない。


 そのはずなのに、なぜか手が、少し、震えていた。


 「実験は——大成功でした。続いて何人かの被験者を集め、第二、第三の実験を行った」


 アリマが僕を見つめる。


 「お姉様は——その中の、一人です」


 息が、止まりかけた。


 「案山子が僕たちを狙った理由も、樹の一族の遺伝子情報が体内にあるから?」


 「——わたしには、わかりません。案山子の背後にいる者から、直接聞くしかない」


 アリマが首を横に振る。


 「今までガーデンズ学園で行方不明になった受験生についても、バベルが公式に声明を発表したのは、今年の共通テスト以外にありません。バベルが隠している真実は——まだ他にもありそうです」


 「今回は違った?」


 「そうですね。テロという予期せぬ出来事で一般の人々にも知られてしまった。今まで通りの隠蔽いんぺいは、できなかったんでしょう」


 僕はコーヒーカップを両手で包んだ。温度はもうほとんど残っていない。


 「証拠はありませんが、ガーデンズ学園は毎年の共通テストに合わせて、受験生の中から樹の一族の血を引く子供を見つけ出し、バベルに引き渡していたと思われます」


 アリマの声が、少し低くなった。


 「七年前に取り逃がした子供たちを、今度こそ確実に捕らえるために」


 七年前。その言葉が、胸の中で妙な重さを持った。僕は視線をテーブルに落とし、少しの間、黙っていた。


 「実験に直接関わった大人がいれば、連絡先を教えてもらえませんか」


 「……当時のダイアモンドクラブのメンバーは、七年前に全員死んでいます。『庭師』というバベルの関係者によって、焼き殺されました」


 「一人残らず?」


 「はい。研究者も、それを指示したメンバーも——庭師の炎によって、灰になりました」


 アリマは窓の外に目をやった。通りを歩く人たちは、何も知らないまま行き交っている。


 返す言葉が見つからなかった。


 姉のことも、父親のことも、まだ何も終わっていない。それだけは、わかった。


 「僕からも一つ、質問があります」


 今になって根本的な話を切り出す。


 「一度捨てたステラを、再び本家に連れて行こうとする真意は?」


 「随分と回りくどい言い方をしますね」


 アリマが苦いコーヒーを一気に飲み干し、イチゴを口に入れた。


 「子供にとって大切な存在は誰だと思いますか?」


 「僕の質問に質問で返さないでください。真面目に答えるつもりがないなら、この場でTGCに連絡してステラの件をお願いすることも考えています」


 「炭咲さんはお姉様の代理保護者。私は実の妹。それだけでは、足りませんか?」


 「本当に大切に思うなら、子供を捨てたりしません」


 言葉が出た。


 「捨てた理由は聞きたくない。ただ——また同じことが起きないとは、誰も保証できない」


 それだけ言うと、アリマはしばらく口を閉ざした。


 自分らしくもない余計な世話を焼いて、怒らせてしまったか——そう思った。しかし目の前の相手の顔を見た瞬間、警戒心を強めた。


 微笑んでいる。


 ただそれだけだった。努めて微笑んでいるが、その無理な笑顔がかえって違和感を生んでいる。アリマはフォークで最後に残った一口分のケーキを静かに皿から持ち上げ、僕の方へ差し出した。


 「失礼、前置きが長くなりました」


 彼女は当たり障りのない答えばかりをして、最後に残った一口分のケーキをフォークに載せ、僕に差し出した。


 「炭咲さん、お姉様の世話係としてではなく——本当の父親になってくれませんか?」


 フォークが、視界の中で止まったままだった。


 「今すぐ答えなくても構いません。二日後の朝までに」


 「正気ですか?」


 「と、言いますと?」


 「普通に考えれば、ステラを各務家に連れ戻すために僕を説得するんじゃ?」


 「私は契約の話を提案した時点で、炭咲さんにお姉様をお任せしようと決めていました」


 「いや、おかしい。それじゃ最初から——」


 言葉が続かなかった。アリマは僕の混乱をただ待つように、カップの縁に指を添えたまま動かない。


 「契約が終わるまであと二日ほどですが、その間にお姉様に良い父親の姿を見せてください」


 「いや、そういう問題じゃ——」


 両手を振って制止した。


 「一日二日で、父親になれるわけがない」


 「炭咲さん、私が軽い気持ちでお姉様を預けるような人に見えますか?」


 アリマの目が、まっすぐ僕から離れない。


 「それに、良い父親になるために求められるのは、子供を大切にする心構え——炭咲さんがご自分で言いましたよね。あれは、ただの言い捨てでしたか?」


 「いや、いくら何でも突然それは——」


 話し終えたアリマが、一層表情を引き締めた。少しきつく感じられる目を、窓から僕の方へ向ける。父親の会社で見た人形とそっくりだった。


 「私は姉様の妹である前に、一人前の起業家です」


 アリマは背筋を伸ばしたまま、答えを待った


 「炭咲さんであればお姉様を任せても問題ないと判断した根拠があります。お姉様には——あなたが必要なのです」


 「判断は尊重します。しかし、これはステラの人生にとって重要な分岐点です」


 言葉が止まらない。


 「僕は六年以上、親と離れて生活し、今でもあいつからの支援を断って一人で暮らしている。そのような僕が、父親らしくステラを育てることができると?」


 「では、父親らしい人物とは?」


 「それは……子供に優しく、経済的にも安定した大人です」


 「その基準なら、炭咲さんの家庭の事情や貧しい境遇が改善された場合——お姉様の父親になる資格を得られる、と?」


 アリマが首を傾ける。わずかな動作だったが、僕には追い詰められているように感じた。


 「僕から目を逸らしてください。僕は親の役割など初めて経験する、ただの十五歳の子供です。期待されても——」


 「何も期待していません」


 アリマが差し出したケーキを僕の口に入れ、にこりと笑った。


 「だからこそ、炭咲さんにお願いをしているのです」


 アリマはカップに視線を落とし、それから顔を上げた。


 「大人だって、父親になることは初めてです。炭咲さんは、その機会が他の人より早く訪れただけ」


 豆を挽く音に混じって、彼女の声が耳に届く。


 「その機会を掴むか掴まないかは——炭咲さん次第だと思います」


 アリマはそれを最後にフォークをテーブルに置いた。


 「理由も条件も、今は要りません。ただ——お姉様のために、考えてください」


 僕は口を閉ざした。アリマは静かにこちらを見ていた。


 「お姉様には——炭咲さんが必要なのです」


 窓の外で、風が木の枝を揺らした。


 親なんて、僕には不要な存在だと思っていた。父親の支援がなくても、バイトで生活費を稼いでいる。最初から一人だったみたいに、不便も不満もなかった。


 父親に振り回されて、荒れた人生を送ってきた。だから、自分の身を守ることには慣れている。


 でも——


 ステラの父親になる、というのは別の話だ。守るのは、もう自分だけじゃない。判断を間違えたら? プレッシャーに耐えられるのか?


 マグカップを両手で包んだ。ステラには、僕と同じ道を歩かせたくない。幸せな毎日を送ってほしい。


 ——それでも、不安は消えない。


 向かいのアリマが、静かに僕を待っていた。その表情に焦りはなく、答えを急かす気配もなかった。


 僕はマグカップを握ったまま、じっと考え続けた。


 「炭咲さん、何か甘い物でも注文しますか?」


 「——少し、考えさせてください」


 アリマが小さく頷いた。店員を呼んで、オレオクッキーミルクを注文した。


 アリマと一時間ほど明日の段取りを詰め、そのままスーパーで食材を選んで一緒に帰宅した。居間では、ステラがソファで丸くなってる。


 すう、すう、と寝息。頬に垂れた髪を、指でよけた。肌がほんのり温かい。明日は朝から水族館なんだよな。起こさないと——


 でも、この寝顔見てたら起こせない。


 まあいいか。あともうちょっとだけ。


 キッチンに立って、買ってきた袋から食材を出す。ネギをまな板に置いて、ざくざく切っていく。


 今夜は唐揚げだ。一人暮らし始めた頃、中華料理屋のおっちゃんに教わった。「これくらいできなきゃ一人前じゃねえぞ」って笑われながら、何度も練習させられたっけ。他の料理は微妙だけど、唐揚げだけは任せてくれ。


 フライパンに火をつけて、油を注ぐ。


 ジュワッ。


 「……パパ、うるさい」


 振り向くと、ステラが目をこすりながら睨んでた。寝癖がすごい。


 「あ、起こしちゃった? ごめん」


 「ん……何作ってんの?」


 ふらふらとこっちに近づいてくる。


 「唐揚げ」


 瞬間、ステラの目がキラッと輝いた。


 「唐揚げ!」


 ぱたぱた駆け寄ってきて、カウンター越しに背伸びして覗き込んでくる。さっきまで眠そうだったのに。


 「ステラ、危ないですから少し下がって」


 ステラの声と、油の匂い。アリマがステラの肩に手を置いて、静かに立っている。三人分の気配が、狭いキッチンに収まっていた。


 家族って、こういう感じなのかな。


 パックご飯をレンジに放り込んで、スタートボタンを押す。ステラがまた「早く食べたい」って言ってる。その声が、心地よかった。

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