第十話 少年の涙
翌日。水族館に着く前から、ステラの様子がおかしかった。
「パパ、ステラ……熱い」
額に手を当てている。熱い。風邪か? 僕が引いた時みたいな、ただの——
「大丈夫?」
ステラが頷いた。でも、顔が赤い。とりあえず館内のカフェに入った。少し休めば良くなるかもしれない。
ソファにステラを座らせて、冷たい水を買ってくる。
「ほら、飲んで」
「ん……」
ステラがゆっくり水を口にする。でも、すぐに咳き込んだ。咳が落ち着くと、ステラはそのまま僕の腕に額を押しつけてきた。重い。熱が、じわりと伝わってくる。
時間が経っても、熱は下がらない。それどころか、咳が悪化してきた。息が荒い。肩が上下している。
まずい。
「ステラ、もう少しだけ我慢して」
か細い声。目が半分しか開いていない。それでも、ステラは僕から離れなかった。
これ以上は危険だ。ポケットからスマホを取り出して、救急車を——
「待ってください」
アリマの手が、僕の手首を掴んだ。指に力がある。
「アリマさん、何を——」
「牡丹さん、各務です」
アリマは僕を無視して、どこかへ電話し始めた。
「先ほどメッセージで送った住所まで、車を一台お願いします」
何やってるんだ?
「エマージェンシーコード・レッド、U012——お姉様です」
U012?
「今からそちらへ向かいますので、先生方にコールを入れてください。牡丹さんに連絡して——……人形を」
人形? 意味が分からない。でも、今はそれどころじゃない。
「アリマさん、スマホ返してください。救急車を——」
「必要ありません」
アリマが電話を切る。
「もう動いてます。救急車より、ずっと早い」
「何を——」
「信じてください」
その目は、真剣だった。
今は、ステラだ。近くの自動販売機で缶コーラを買い、ハンカチに包んでステラの脇の下に当てた。
「スズしい……」
ステラが小さく呟いた。
頼む、熱を下げてくれ。
五分後、アリマの電話が鳴った。
「はい。――分かりました。すぐ向かいます」
アリマが電話を切り、僕の方を振り向いた。
「車が到着しました。行きましょう」
ステラを背負って、階段を駆け下りる。ステラの荒い息が、首元で聞こえる。熱い。まだ熱が下がっていない。
アリマは――慣れている。その冷静さが、不気味だった。一度も足を止めず、振り返りもしない。
駐車場に出ると、黒い車が三台、一列に並んでいた。
三つ又の銀色のマーク――ベンツだ。運転手が三人、ほぼ同時に車から降りてくる。揃って深々とお辞儀をし、全員がアリマの指示を待っている。
「出発してください。着替えるまで暗幕の配置もお願いします」
着替え? 誰が——考える暇もなく、真ん中の車のドアが開いた。
「頭、お気をつけください」
運転手が僕の頭に手を添えて、車内へ誘導してくれる。ステラを背負ったままの僕に、自然と手を貸してくれた。
「失礼いたします」
丁寧な声。それだけ言って、あとは何も言わなかった。
車内に滑り込む。ステラをシートに横たえ、僕も隣に座った。ステラの額に手を当てる。まだ熱い。息も荒いままだ。
「ステラ、大丈夫?」
「……うん」
声だけ返ってきた。目は、もう閉じていた。目を開けるのも辛そうだ。僕の手を握ろうとして、でも力が入らない。指だけが微かに動いた。
ドアが閉まる音。アリマが助手席に乗り込んだ。運転手が無言でウインカーを出す。
車が動き出す。前後の車も、ぴったり同じタイミングで発進した。三台が、一つの生き物みたいに動いている。
窓の外を見る。高速道路へ向かっている。
「アリマさん、どこに行くんですか?」
助手席のアリマは、前を向いたまま答えた。
「病院です」
「どこの?」
「……お姉様を診られる、唯一の病院です」
唯一?
でも、アリマは何も説明してくれない。前を向いたまま、微動だにしない。窓の外の景色だけが、流れていく。
ただ、握ることしかできない。
車は走り続けた。
――
車はあっという間に東京市内に入った。窓の外、高層ビル群が次々と通り過ぎていく。景色が、だんだん見慣れたものに変わっていった。
あれ、この辺――
車が減速した。左折して、地下へ降りていく。照明が薄暗い。壁が両側から迫ってくる。
車が停まった。
ここ、病院の地下駐車場――?
運転手がドアを開けた。外には白衣を着た男性が立っていた。僕たちを見るなり、深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました、各務様」
各務様? アリマのことか?
男性はアリマだけを見て、僕のことは一瞥もしない。
「ご指示いただいた通り、各センターから協力を得て——隔離用カプセルのご用意が完了しております」
カプセル? 何の?
アリマがすっと車から降りた。白衣の男性が一歩下がって、道を開ける。誰も、僕を見ない。ステラを抱いたまま、その場に立っていた。
「花園の先生方からはまだ連絡が届いていませんか?」
「申し訳ございません」
白衣の男性が、また頭を下げる。アリマの表情が、ほんの一瞬だけ曇った。
「もう一度連絡を入れてみますので、少々お待ちください」
男性が小走りで去っていく。
僕はステラを抱き直して、ゆっくり車から降りた。靴底が地面につく。視線を上げて――息を呑んだ。
黒いスーツを着た人たちが、ずらりと並んでいた。病院のゲートまで、一列に。数えるのをやめた。全員、背筋をピンと伸ばして、深々と頭を下げている。
アリマに向かって。
誰一人、顔を上げようとしない。誰一人、動こうとしない。足音一つ、立てない。
ふと、目に入った。全員のスーツの左襟に、小さな社章。金色に光っている。
タンポポ――?
いや、そんなこと考えている場合じゃない。
ステラを抱き直す。腕の中のステラが、ぐったりしている。体重が、やけに重く感じる。力が完全に抜けている。
病院の入口へ急いだ。黒いスーツの列が、僕が通ると同時に左右へ割れた。
アリマが先を歩いている。その背中を追いかける。
「もう少しだけ、もう少しだけだから」
ステラの耳元で、小さく言った。
入口に近づくと、ボディガードの一人が前に出た。見上げるほど背が高かった。両手を前で組んだまま、こちらを見ていた。
「ここからは関係者以外は立ち入り禁止です」
片手を広げて、中に入ろうとする僕を遮った。
足が止まる。
「恐れ入りますが、被験者はこちらでお預かりいたします」
被験者——? 腕の中のステラを、見下ろした。
荒い息。紅潮した頬。半分閉じた目。唇が、かすかに動いた。何か言おうとしている。
でも、声が出ない。
「……ちょっと待ってください」
喉が、カラカラに渇いていた。
「この子は被験者なんかじゃありません。僕の——」
僕の何だ。娘?
言葉が、喉に詰まった。
「弥蛇山さんのところに見慣れない方がいらっしゃいますね。新人さんですか?」
「大変失礼いたしました。おい、君、各務家のお連れ様に何と無礼な真似だ。すぐに道を開けろ」
「いえ、大丈夫です。マニュアル通りに対応したので問題ありません。ただ——」
着替えを終えたアリマが改めて皆の前に姿を現した。白衣でも、スーツでもない。深い紺色のジャケットに、細いラインのパンツ。各務家の紋章が、左胸にさりげなく刺繍されている。病院の中にいるのに、ここだけ空気が違った。
「今のは、一線を越えてます」
緊張した数分間を過ごした後。アリマはボディーガードを見下ろした。
その眼差しは、感情が伝わらなかった。人を軽蔑するような——そんな目だ。
「今日までお疲れ様でした」
淡々とした声。周囲が、息を呑んだ。
「あなたは今から解雇です」
パチン、と音がした。隣に立っていたもう一人が、無言で仲間の首から入館証を切り離した。
「はい――、はい?」
「二度と各務家が運営する会社には就職できません。ご理解ください」
「い、いや、いきなり何の仕業――」
「ご不満があれば法務チームまで連絡してください」
アリマは一切の感情を見せなかった。男は弁解する暇もなく、地上へ追い出された。
初日に会った時と同じだ。
「それでは、参りましょう」
アリマが振り返る。
「研究室には私も同行します」
冷静な声。
僕はアリマの後を追った。関係者と共にエレベーターに乗る。
地上三階――第三研究室。
扉の前で足を止めた瞬間、既視感が襲う。
「ここは……」
見覚えがある、と言いたかった。この廊下の作り、案内板の配置。よく見回してみると――
「花園大学医学部附属病院……?」
先日訪れた、あの病院だった。
「お子様をお預かりしてもよろしいでしょうか」
名札を見る。虎徹――医者らしい。
「今朝、熱を出して動けなくなって……」
言葉が途中で止まる。虎徹がカルテにペンを走らせた。僕の声なんて、最初から聞こえていないみたいに。
「失礼します」
虎徹が手を伸ばした。僕の言葉を遮るように――ステラを腕から受け取る。
移動式ベッドに寝かせた。素早く、でも丁寧に。聴診器を当てる。瞼を開いて瞳孔を確認して、脈を測る。
一連の動作に、無駄がない。手元の紙カルテには、何かを書き込んでいく。
虎徹がアリマの方を向いた。カルテを見せながら、何かを伝えている。
声が小さくて聞こえない。
でも、虎徹の表情が——深刻だ。アリマがカルテを受け取った。
目を通す。その顔色が、みるみる悪くなった。
唇を噛んでいる。
「あの、ステラは——」
「申し訳ございません。ここからは関係者以外、立ち入り禁止です」
白衣の男性が、僕の前に立ちはだかった。
「いや、でも——」
「こちらでお待ちください」
虎徹がステラを乗せたベッドを押して、研究室の中へ入っていく。
その瞬間、ベッドの上のステラが目を開けた。うっすらと。焦点が定まっていない目が、僕を探すように動いた。口が、かすかに開く。声は出なかった。それでも、その唇が何かを作ろうとしていた。
パパ、と。
アリマも、その後に続いた。
振り返りもせずに。扉が、閉まった。
カチャリ、と鍵がかかる音。一人、廊下に取り残された。
力が、抜けていく。近くのベンチまで歩いて、座り込んだ。
壁の時計を見上げる。午後三時。どれくらい待てばいいんだろう。
——気がついたら、窓の外が暗くなっていた。
夕闇が、降りていた。街灯が、一つ、また一つと灯っていく。空には紫がかった雲が広がっていた。
廊下の空気が、重くなっていた。
窓の隙間から吹き込む風が、肌を刺す。膝まで冷えが這い上がってきた。それでも、立つ気になれなかった。
グーッ。
腹が鳴った。
ああ、そういえば――昼から、何も食べてない。
朝も食べてなかった。
ベンチから立ち上がる。足が少し痺れていた。
近くの自動販売機へ向かって、天然水のボタンを押す。
ガタン。
落ちてくる音。取り出して、キャップを開ける。
水を一口飲む。喉を通って、胃に落ちていく。
空っぽの胃袋に、水だけが流れ込んだ。
なのに、食欲がない。
ベンチに戻って、また座る。
病院の白い壁を、ぼんやりと見つめた。
扉の向こうで、今、ステラはどうしているんだろう。泣いていないか。怖がっていないか。パパ、と呼んでいないか。
答えは、どこからも返ってこない。
「——誰もいない廊下で一人で何をしているんだ?」
声がして、顔を上げた。
香月が私服姿で立っている。
白い開襟シャツに度の入っていない黒縁の伊達メガネという姿が、仕事帰りに飲みに行く社会人のようだった。
「……香月さん」
それだけしか、出てこなかった。言い訳も、説明も、謝罪も——全部、どこかへいってしまった。ただ、知っている顔がそこにある、それだけで、少し、息ができた気がした。
香月は何も聞かなかった。僕の隣に腰を下ろして、同じ壁を見た。
しばらく、二人とも黙っていた。廊下の蛍光灯が、低くうなっている。
「元気そうで何よりだ」
唐突だった。でも、不思議と嫌じゃなかった。
「……すみません」
声が出たのは、自分でも意外だった。
「この間は、色々ご迷惑をおかけしました」
壁を見たまま言った。香月は少しの間、黙っていた。
「俺に堅苦しいことは言わなくてもいいぞ。——家族だし」
香月はバッグからメモを取り出して僕に渡した。
「これ、春くんが起こした爆発に巻き込まれた人たちの連絡先リスト。タイミングを見て連絡しておけ」
受け取ったリストを上から順に確認すると、こひなの名前を見つけた。こんなところで本名を見ることになるとは思わなかった。連絡先の欄は空欄になっている。
指が、その空欄の上で止まった。
「彼女さん?」
「違います」
少し、早口になった。
「最近、意外なところで春くんの意外な一面を見ている気がする」
興味深そうな様子の香月は話を続けた。
「その子から携帯電話を預かっている。ちょうど充電が終わったばかりだから、電源を入れてすぐ使えると思う」
「ありがとうございます。すぐ電話してみます」
「それと、薬もちゃんと飲みなさい。若い時から体を大事にしないと後で後悔するぞ」
香月を見送って、僕はガラケーの電源を入れた。廊下に、また一人になった。さっきより、静かだった。
まず連絡先に目を通した。保存されている電話番号は一つだけだった。「本邸」と記入されている。このタイミングで電話をかけても、言い訳を聞かされるだけで終わりそうだった。
通話ボタンを押した。呼び出し音が続く。
「はい、ナオミです。どちらの方でしょうか」
「すみません、炭咲ですが、こひなから電話を——」
「ねぇさん!あの男から電話が来た。どうする?」
遠くにいる誰かに向かって大声で僕からの電話を伝えた。
「分かった。もしもし? 悪いけれど、ねぇさんが五分後に折り返し電話するって言っているから、ここで一旦切らせてもらうわね」
電話が切れた。ベンチに戻って、ガラケーを膝の上に置いた。五分。さっきまでの五時間に比べれば、短いはずだった。
本邸から着信が入った。息を吐いて、電話に出た。
「炭咲です。先日はお世話になりました」
短い挨拶から会話を始めた。
「今、ステラの調子が悪くなって病院に来ています」
反応はないが、受話器の向こうから息遣いが聞こえてくる。
「はあ、ずるいわよ、炭咲。嘘でもステラちゃんを盾にして逃げないでくれる?」
「いえ、そういうつもりではありませんでした。今朝、ステラの調子が急に悪くなって——水族館から病院まで来ました。ステラの家族と一緒です」
「へぇ、デートしたのね。あたしはそれっきり新吉原に連絡でもすると思ったのに、すっかり忘れられていたわけね」
言葉が出なかった。謝るつもりで言ったことが、逆に刺さってしまった。どう返すか迷っているうちに、こひなが先に口を開いてくれた。
「で? 結局、本当の家族を探したんだ。ステラは喜んでいる?」
「喜びました。でも、実は少し心配事に悩んでいます」
「あら、何かあったみたいね。言ってごらん。男の悩み事はあたしの専門だから、真面目に聞いてあげる」
「こひなに正直に言ってもいいですか?」
答えを待たずに、口が動いた。
「ステラのことが怖いです」
「ええと、ステラちゃんを失うのが怖いの? それとも、まだあなた自身への自信がないから?」
「後者の理由で前者の結果になるのが怖いです」
受話器の向こうで、こひなが息を吸う音がした。
「……炭咲って、怖い時も報告書みたいに喋るのね」
「今それを言うんですか」
「色々あったみたいね。ステラの家族と何かあった?」
僕は父親との会話からアリマと交わした契約の話まで、この四日間に起きたことをこひなに話した。ただし、ステラが暴走したことと樹の一族については秘密にして、それ以外はできるだけ全部話した。
「なるほどね、炭咲と仲良くなるなんて羨ましい。少し嫉妬するかも」
こひなは軽く笑った。受話器越しでも、それが分かった。こひなの笑い方は、いつも少しだけ意地悪だ。でも、嫌じゃない。
「二人で何か話したの? ステラちゃんを実家に連れて行くとか」
「……それが」
僕は言葉を探した。
「ステラが嫌がったの?」
「いや、そうじゃなくて」
こひなが相手だと、不思議と言葉が出てくる。なぜだろう。そんなことを考えながら、口が動いていた。
「身内の人に頼まれたんです。これからは実の父親として、ステラの面倒を見てくれって」
「うん」
「でも、僕もノバナ出身で……手本にできるような大人が周りにいなくて」
ガラケーを握る手に、力が入った。
こひなは黙って聞いている。電話口の沈黙が、妙に温かかった。
「自分がまともな大人になれる気がしないのに、いい父親になんてなれるわけないじゃないですか」
声が震えた。
大人を信じられない。
二度も裏切られた。
三度目の勇気なんて、もうない。
「誰かに相談するのも怖くて……また何か奪われるんじゃないかって」
「……うん」
「香月さんには悪いと思ってます。でも、親戚だろうと何だろうと、大人は大人で」
言葉が詰まる。
「きっと優先順位があって、僕なんて下の方なんだろうなって」
「……そっか」
こひなは相槌を打つだけだった。同い年だから。似たような場所で傷ついてきたから。握っていたガラケーの力が、少し抜けた。
「ただより怖いものはないって言うじゃないですか。だから大人には借りを作らない。傷つきたくないだけなんです」
自分の話なのにうまく言葉にできない。誰とここまで長く話したことは初めてだ。
「……要するに、炭咲って意外と頼りにされてるってことね」
こひなの声が、少し低くなった。
「炭咲は告白……されたの?」
何か大事なことを言い忘れた気がして、すぐに訂正した。
「あの、誤解です。ステラの姉の方から頼まれたことです。まだ返答はしていません」
「なあんだ、そうだったの? びっくりしたわ」
受話器の向こうで、ため息が聞こえた。
「ステラちゃんのお家って、ご両親が亡くなってるの? それともひとり親家庭なの?」
「いえ、親はいると思います。こひなと面識のある人です」
「あたしが知っている人の中でステラを捨てた家族がいた? 誰なの、その人は」
「各務家のアリマさんです。病院にも一緒に来て、今はステラの治療を手伝っています」
「えっ?」
こひなが思わず声を上げた。
「……炭咲、今、各務先生と言った? 本当にあたしが知っているあの各務先生がステラの家族だったの?」
「僕も最初は信じられなくて。でも、ステラが『ネネ』って呼んでいたんです」
こひなが黙っている。続けた。
「アリマさんも、こひなのことを知っていると言っていたので——間違いなく、同じ人だと思います」
返事がなかった。受話器の向こうが、静かだった。
しばらくして、こひなが口を開いた。
「……ねえ、炭咲。ステラちゃんって——各務家の、誰なの」
質問の意味が、よく分からなかった。
「……アリマさんが、お姉様って呼んでいたので。ステラの方が、家族の中では上なのかと思って」
「……そう」
それ以上は聞かなかった。でも、声から余裕が消えていた。
「こひな、何か気になる部分でも——」
そこまで話したところで、研究室の中から虎徹がマスクを外しながら廊下に出てきた。着ていた服に誰かの血が付いている。
僕は携帯電話を閉じた。パタン、と小さな音がした。さっきより、少しだけ、立ち上がれた気がした。自動販売機で缶コーヒーを買い、虎徹に近づいた。
目の下に隈ができ、唇が乾いていた。それでも体力はまだ残っているようだった。こんなに疲れ切った人に話しかけるのは気が引けた。
「失礼しますが、各務家の娘はどうなりましたか。大丈夫ですか」
気づけば、声が低く沈んでいた。
「病名だけでも、教えていただけますか」
虎徹は一度まぶたを閉じた。疲労が、その表情に刻まれていた。
「ナロコウイルスに感染した状態で、体内の力が大量に消耗されています。高熱と炎症が多発していて、有効なワクチンはまだ見つかっていない」
そこで、口が止まる。廊下の蛍光灯が、一瞬だけちらついた。
「明朝まで集中治療室《ICU》で様子を見ることにしました。各務先生の処置も、もうしばらくかかります」
先日の暴走が、頭の奥をよぎった。
「まだ学生だろ。どう見ても高校生くらいか」
虎徹は壁に肩を預け、缶コーヒーの口元に視線を落とした。
「各務先生から聞いた。あの子の保護者でいてくれたみたいだね」
保護者。その言葉が、どこか遠い場所に落ちていく気がした。僕は自分の手の甲に目を落とした。病院の消毒液の匂いが、今さらのように鼻をついた。
「詳しい事情は知らないが――」
缶を一口あおって、膝の上に戻す。それから、初めてまっすぐに僕を見た。目の端が切れ長で、光をあまり反射しない。
「覚悟を持てば、うまくやれると思うな」
虎徹の口元がわずかに動いた。次の言葉を測るように。
「育て方の本を全部読んだ親でも、現実の前では膝をつく。それくらい子育てというのは甘くない」
缶を床に置く音が、廊下に小さく響いた。僕はその音が消えるまで、何も言えなかった。
「まして、あの子の状況だ。君のような学生が背負うには――リスクが大きすぎる」
反論の言葉が、喉のあたりで形を失った。
僕は、斜め向かいの椅子に座るその男から目を逸らさなかった。傲慢と呼んでいい静けさがある。こちらの沈黙を、少しも急かさない。
「お説教、ありがとうございます」
皮肉で幕を引こうとした。
「ずいぶん乱暴な言い方をしたが」
虎徹が缶を傾ける。
「君も、誰かの口から聞きたかったんじゃないか。子供が子供を育てられるはずがない、と」
否定しようとした。でも、自動販売機のくすんだ反射に映った自分の顔を見た瞬間、口が静かに閉じた。指先が、膝の上でかすかに握られていた。
「まあ、缶コーヒーのお礼に一言だけ。聞くかどうかは、君が決めていい」
ふう、と息をつく。
「今回の件で、なにかを背負う重さは分かっただろう」
親の責任。その四文字が、棘になって刺さった。
「年若い君が、まだ形にもなっていない感情に突き動かされたところで――名前のない関係は、いつか必ず霧散する」
胸の奥が、じくりと痛んだ。視線を床に落とすと、虎徹の靴の爪先だけが視界に入った。その先には、ICUへ続く廊下がある。
「現実的には、あの娘の幸せを祈ることしかできないだろう」
缶コーヒーの甘い匂いが、消えていた。いつの間に。
涙が一滴、膝の上に落ちた。自分でも気づかなかった。
「あの人から何を吹き込まれたかは知らない。知ったところで意味もないが、各務家の思惑通りの話だろう」
虎徹が疲れた顔を軽くこすり上げる。
「各務家との関わりは今後控えた方がいい」
虎徹の口が動いているのは分かった。言葉も、聞こえていた。ただ蛍光灯の光が、なぜかひどく白く見えた。
「アレについては、本家の当主が治療を完了次第、直接回収に向かう予定になっている」
アレ――ね。
「そうなれば、君の出る幕はなくなるだろう。各務先生からは、それ以外に何か伝言があったか?」
虎徹を見つめた。唇が、かすかに引き結ばれたまま動かない。
「当主の話を知らないとは」
虎徹が呟く。
「やはり先生の一存か」
缶を口に運ぶ。
「各務先生が意図的に逃がした――そんな話も出ているがな」
アレ。ステラのことを、最後までそう呼ぶ。何かの物のように。
「真実かもしれん」
コーヒーを飲み干して、立ち上がる。その動作に迷いがなかった。
「まあ、私の知ったことではないが」
缶がゴミ箱に放られた。金属音が廊下に一度だけ響いて、消えた。
「君も引き上げろ。ここに留まっても、もうアレとは顔を合わせることはない」
それだけ言い残し、虎徹は廊下の奥へ歩いていった。白衣の背中が角を曲がり、蛍光灯の光の中に溶けるように消えた。
また一人だ。
廊下の椅子に座る。唇を噛んだ。
守れなかった――
膝が、笑っている。立てない。壁に手をついて、なんとか立ち上がった。
ステラ。
吐き気が込み上げてくる。トイレ。どこだ。
廊下を歩く。すれ違う人が顔をそむける。構うな。歩いて、歩いて、やっと個室に駆け込んだ。
便器に顔を突っ込んで、吐いた。
涙があふれる。心臓が暴れる。
吐け。全部。
――守ってやるって、言ったのに。
また吐く。
吐く。消えろ。
喉がひりひりする。胃が空になっても、体はまだ吐こうとする。塩辛いものが舌に残る。
苦い。何も残ってない。それでも体が吐こうとする。
最後の一滴まで。全部――捨ててしまえ。
壁に手をついて立ち上がる。足が震えた。
洗面台の前に立つ。蛇口をひねって、冷たい水を顔にあてた。何度も。何度も。
顔を上げた。
鏡の中に、見知った顔がいた。
蒼白で、唇は灰色で、目は充血している。それでも――分かった。誰の顔か。
父親だ。
あの日の、あの顔だ。
水が滴る。前髪が垂れる。拭わない。また見えるから。
アイツは、僕を実験台にした。結果が出れば十分だった。僕が何を思っているかは、関係なかった。
ステラを守りたかった。そう信じていた。
でも――本当にそうだったか。
あの子が泣くたびに、満たされていた。頼られるたびに、必要だと思えた。守っていたのではない——消費していたのだ。ステラの涙を。ステラの声を。
一度も、聞かなかった。
何を望んでいるか。たった一度も。
——アイツと、同じだ。
拳を、振り上げた。
鏡が砕ける。破片が飛んで、頬に熱いものが走った。
痛くない。
割れた鏡を見下ろす。床に散らばる破片。その一つ一つに、まだ僕の顔が映っている。
消えない。
膝が崩れた。洗面台にしがみつく。血が床に落ちる。赤い点が、静かに広がっていく。
外でドアを叩く音。「開けてください」複数の声。鍵が動く音がした。
立ち上がる。ドアを開けた。
白衣の人たちが集まっていた。みんな僕の手を見た。僕は見なかった。
通り抜けた。
「待って」誰かが腕を掴もうとした。振り払った。
廊下を歩く。人がよける。ざわめきが遠い。
外に出た。
日が落ちていた。
足が勝手に動いていた。どこへ向かっているのか、考えなかった。家に帰るのだろう。それ以外に行ける場所を、僕は知らない。
切った手が、じくじくと痛んだ。それだけが、妙にはっきりしていた。他のことは何も——ステラのことも、鏡のことも——もう遠かった。痛みだけが、今も僕がここにいると言い張っていた。
街灯だけが、やけに白く滲んでいた。




