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第十話 少年の涙

 翌日。水族館に着く前から、ステラの様子がおかしかった。


 「パパ、ステラ……熱い」


 額に手を当てている。熱い。風邪か? 僕が引いた時みたいな、ただの——


 「大丈夫?」


 ステラが頷いた。でも、顔が赤い。とりあえず館内のカフェに入った。少し休めば良くなるかもしれない。


 ソファにステラを座らせて、冷たい水を買ってくる。


 「ほら、飲んで」


 「ん……」


 ステラがゆっくり水を口にする。でも、すぐに咳き込んだ。咳が落ち着くと、ステラはそのまま僕の腕に額を押しつけてきた。重い。熱が、じわりと伝わってくる。


 時間が経っても、熱は下がらない。それどころか、咳が悪化してきた。息が荒い。肩が上下している。


 まずい。


 「ステラ、もう少しだけ我慢して」


 か細い声。目が半分しか開いていない。それでも、ステラは僕から離れなかった。


 これ以上は危険だ。ポケットからスマホを取り出して、救急車を——


 「待ってください」


 アリマの手が、僕の手首を掴んだ。指に力がある。


 「アリマさん、何を——」


 「牡丹さん、各務です」


 アリマは僕を無視して、どこかへ電話し始めた。


 「先ほどメッセージで送った住所まで、車を一台お願いします」


 何やってるんだ?


 「エマージェンシーコード・レッド、U012——お姉様です」


 U012?


 「今からそちらへ向かいますので、先生方にコールを入れてください。牡丹さんに連絡して——……人形を」


 人形? 意味が分からない。でも、今はそれどころじゃない。


 「アリマさん、スマホ返してください。救急車を——」


 「必要ありません」


 アリマが電話を切る。


 「もう動いてます。救急車より、ずっと早い」


 「何を——」


 「信じてください」


 その目は、真剣だった。


 今は、ステラだ。近くの自動販売機で缶コーラを買い、ハンカチに包んでステラの脇の下に当てた。


 「スズしい……」


 ステラが小さく呟いた。


 頼む、熱を下げてくれ。


 五分後、アリマの電話が鳴った。


 「はい。――分かりました。すぐ向かいます」


 アリマが電話を切り、僕の方を振り向いた。


 「車が到着しました。行きましょう」


 ステラを背負って、階段を駆け下りる。ステラの荒い息が、首元で聞こえる。熱い。まだ熱が下がっていない。


 アリマは――慣れている。その冷静さが、不気味だった。一度も足を止めず、振り返りもしない。


 駐車場に出ると、黒い車が三台、一列に並んでいた。


 三つ又の銀色のマーク――ベンツだ。運転手が三人、ほぼ同時に車から降りてくる。揃って深々とお辞儀をし、全員がアリマの指示を待っている。


 「出発してください。着替えるまで暗幕の配置もお願いします」


 着替え? 誰が——考える暇もなく、真ん中の車のドアが開いた。


 「頭、お気をつけください」


 運転手が僕の頭に手を添えて、車内へ誘導してくれる。ステラを背負ったままの僕に、自然と手を貸してくれた。


 「失礼いたします」


 丁寧な声。それだけ言って、あとは何も言わなかった。


 車内に滑り込む。ステラをシートに横たえ、僕も隣に座った。ステラの額に手を当てる。まだ熱い。息も荒いままだ。


 「ステラ、大丈夫?」


 「……うん」


 声だけ返ってきた。目は、もう閉じていた。目を開けるのも辛そうだ。僕の手を握ろうとして、でも力が入らない。指だけが微かに動いた。


 ドアが閉まる音。アリマが助手席に乗り込んだ。運転手が無言でウインカーを出す。


 車が動き出す。前後の車も、ぴったり同じタイミングで発進した。三台が、一つの生き物みたいに動いている。


 窓の外を見る。高速道路へ向かっている。


 「アリマさん、どこに行くんですか?」


 助手席のアリマは、前を向いたまま答えた。


 「病院です」


 「どこの?」


 「……お姉様を診られる、唯一の病院です」


 唯一?


 でも、アリマは何も説明してくれない。前を向いたまま、微動だにしない。窓の外の景色だけが、流れていく。


 ただ、握ることしかできない。


 車は走り続けた。


 ――


 車はあっという間に東京市内に入った。窓の外、高層ビル群が次々と通り過ぎていく。景色が、だんだん見慣れたものに変わっていった。


 あれ、この辺――


 車が減速した。左折して、地下へ降りていく。照明が薄暗い。壁が両側から迫ってくる。


 車が停まった。


 ここ、病院の地下駐車場――?


 運転手がドアを開けた。外には白衣を着た男性が立っていた。僕たちを見るなり、深々と頭を下げる。


 「お待ちしておりました、各務様」


 各務様? アリマのことか?


 男性はアリマだけを見て、僕のことは一瞥もしない。


 「ご指示いただいた通り、各センターから協力を得て——隔離用カプセルのご用意が完了しております」


 カプセル? 何の?


 アリマがすっと車から降りた。白衣の男性が一歩下がって、道を開ける。誰も、僕を見ない。ステラを抱いたまま、その場に立っていた。


 「花園の先生方からはまだ連絡が届いていませんか?」


 「申し訳ございません」


 白衣の男性が、また頭を下げる。アリマの表情が、ほんの一瞬だけ曇った。


 「もう一度連絡を入れてみますので、少々お待ちください」


 男性が小走りで去っていく。


 僕はステラを抱き直して、ゆっくり車から降りた。靴底が地面につく。視線を上げて――息を呑んだ。


 黒いスーツを着た人たちが、ずらりと並んでいた。病院のゲートまで、一列に。数えるのをやめた。全員、背筋をピンと伸ばして、深々と頭を下げている。


 アリマに向かって。


 誰一人、顔を上げようとしない。誰一人、動こうとしない。足音一つ、立てない。


 ふと、目に入った。全員のスーツの左襟に、小さな社章。金色に光っている。


 タンポポ――?


 いや、そんなこと考えている場合じゃない。


 ステラを抱き直す。腕の中のステラが、ぐったりしている。体重が、やけに重く感じる。力が完全に抜けている。


 病院の入口へ急いだ。黒いスーツの列が、僕が通ると同時に左右へ割れた。


 アリマが先を歩いている。その背中を追いかける。


 「もう少しだけ、もう少しだけだから」


 ステラの耳元で、小さく言った。


 入口に近づくと、ボディガードの一人が前に出た。見上げるほど背が高かった。両手を前で組んだまま、こちらを見ていた。


 「ここからは関係者以外は立ち入り禁止です」


 片手を広げて、中に入ろうとする僕を遮った。


 足が止まる。


 「恐れ入りますが、被験者はこちらでお預かりいたします」


 被験者——? 腕の中のステラを、見下ろした。


 荒い息。紅潮した頬。半分閉じた目。唇が、かすかに動いた。何か言おうとしている。


 でも、声が出ない。


 「……ちょっと待ってください」


 喉が、カラカラに渇いていた。


 「この子は被験者なんかじゃありません。僕の——」


 僕の何だ。娘?


 言葉が、喉に詰まった。


 「弥蛇山みだやまさんのところに見慣れない方がいらっしゃいますね。新人さんですか?」


 「大変失礼いたしました。おい、君、各務家のお連れ様に何と無礼な真似だ。すぐに道を開けろ」


 「いえ、大丈夫です。マニュアル通りに対応したので問題ありません。ただ——」


 着替えを終えたアリマが改めて皆の前に姿を現した。白衣でも、スーツでもない。深い紺色のジャケットに、細いラインのパンツ。各務家の紋章が、左胸にさりげなく刺繍されている。病院の中にいるのに、ここだけ空気が違った。


 「今のは、一線を越えてます」


 緊張した数分間を過ごした後。アリマはボディーガードを見下ろした。


 その眼差しは、感情が伝わらなかった。人を軽蔑するような——そんな目だ。


 「今日までお疲れ様でした」


 淡々とした声。周囲が、息を呑んだ。


 「あなたは今から解雇です」


 パチン、と音がした。隣に立っていたもう一人が、無言で仲間の首から入館証を切り離した。


 「はい――、はい?」


 「二度と各務家が運営する会社には就職できません。ご理解ください」


 「い、いや、いきなり何の仕業――」


 「ご不満があれば法務チームまで連絡してください」


 アリマは一切の感情を見せなかった。男は弁解する暇もなく、地上へ追い出された。


 初日に会った時と同じだ。


 「それでは、参りましょう」


 アリマが振り返る。


 「研究室には私も同行します」


 冷静な声。


 僕はアリマの後を追った。関係者と共にエレベーターに乗る。


 地上三階――第三研究室。


 扉の前で足を止めた瞬間、既視感が襲う。


 「ここは……」


 見覚えがある、と言いたかった。この廊下の作り、案内板の配置。よく見回してみると――


 「花園大学医学部附属病院……?」


 先日訪れた、あの病院だった。


 「お子様をお預かりしてもよろしいでしょうか」


 名札を見る。虎徹こてつ――医者らしい。


 「今朝、熱を出して動けなくなって……」


 言葉が途中で止まる。虎徹がカルテにペンを走らせた。僕の声なんて、最初から聞こえていないみたいに。


 「失礼します」


 虎徹が手を伸ばした。僕の言葉を遮るように――ステラを腕から受け取る。


 移動式ベッドに寝かせた。素早く、でも丁寧に。聴診器を当てる。瞼を開いて瞳孔を確認して、脈を測る。


 一連の動作に、無駄がない。手元の紙カルテには、何かを書き込んでいく。


 虎徹がアリマの方を向いた。カルテを見せながら、何かを伝えている。


 声が小さくて聞こえない。


 でも、虎徹の表情が——深刻だ。アリマがカルテを受け取った。


 目を通す。その顔色が、みるみる悪くなった。


 唇を噛んでいる。


 「あの、ステラは——」


 「申し訳ございません。ここからは関係者以外、立ち入り禁止です」


 白衣の男性が、僕の前に立ちはだかった。


 「いや、でも——」


 「こちらでお待ちください」


 虎徹がステラを乗せたベッドを押して、研究室の中へ入っていく。


 その瞬間、ベッドの上のステラが目を開けた。うっすらと。焦点が定まっていない目が、僕を探すように動いた。口が、かすかに開く。声は出なかった。それでも、その唇が何かを作ろうとしていた。


 パパ、と。


 アリマも、その後に続いた。


 振り返りもせずに。扉が、閉まった。


 カチャリ、と鍵がかかる音。一人、廊下に取り残された。


 力が、抜けていく。近くのベンチまで歩いて、座り込んだ。


 壁の時計を見上げる。午後三時。どれくらい待てばいいんだろう。


 ——気がついたら、窓の外が暗くなっていた。


 夕闇が、降りていた。街灯が、一つ、また一つと灯っていく。空には紫がかった雲が広がっていた。


 廊下の空気が、重くなっていた。


 窓の隙間から吹き込む風が、肌を刺す。膝まで冷えが這い上がってきた。それでも、立つ気になれなかった。


 グーッ。


 腹が鳴った。


 ああ、そういえば――昼から、何も食べてない。


 朝も食べてなかった。


 ベンチから立ち上がる。足が少し痺れていた。


 近くの自動販売機へ向かって、天然水のボタンを押す。


 ガタン。


 落ちてくる音。取り出して、キャップを開ける。


 水を一口飲む。喉を通って、胃に落ちていく。


 空っぽの胃袋に、水だけが流れ込んだ。


 なのに、食欲がない。


 ベンチに戻って、また座る。


 病院の白い壁を、ぼんやりと見つめた。


 扉の向こうで、今、ステラはどうしているんだろう。泣いていないか。怖がっていないか。パパ、と呼んでいないか。


 答えは、どこからも返ってこない。


 「——誰もいない廊下で一人で何をしているんだ?」


 声がして、顔を上げた。


 香月が私服姿で立っている。


 白い開襟シャツに度の入っていない黒縁の伊達メガネという姿が、仕事帰りに飲みに行く社会人のようだった。


 「……香月さん」


 それだけしか、出てこなかった。言い訳も、説明も、謝罪も——全部、どこかへいってしまった。ただ、知っている顔がそこにある、それだけで、少し、息ができた気がした。


 香月は何も聞かなかった。僕の隣に腰を下ろして、同じ壁を見た。


 しばらく、二人とも黙っていた。廊下の蛍光灯が、低くうなっている。


 「元気そうで何よりだ」


 唐突だった。でも、不思議と嫌じゃなかった。


 「……すみません」


 声が出たのは、自分でも意外だった。


 「この間は、色々ご迷惑をおかけしました」


 壁を見たまま言った。香月は少しの間、黙っていた。


 「俺に堅苦しいことは言わなくてもいいぞ。——家族だし」


 香月はバッグからメモを取り出して僕に渡した。


 「これ、春くんが起こした爆発に巻き込まれた人たちの連絡先リスト。タイミングを見て連絡しておけ」


 受け取ったリストを上から順に確認すると、こひなの名前を見つけた。こんなところで本名を見ることになるとは思わなかった。連絡先の欄は空欄になっている。


 指が、その空欄の上で止まった。


 「彼女さん?」

 

 「違います」


 少し、早口になった。


 「最近、意外なところで春くんの意外な一面を見ている気がする」


 興味深そうな様子の香月は話を続けた。


 「その子から携帯電話を預かっている。ちょうど充電が終わったばかりだから、電源を入れてすぐ使えると思う」


 「ありがとうございます。すぐ電話してみます」


 「それと、薬もちゃんと飲みなさい。若い時から体を大事にしないと後で後悔するぞ」


 香月を見送って、僕はガラケーの電源を入れた。廊下に、また一人になった。さっきより、静かだった。


 まず連絡先に目を通した。保存されている電話番号は一つだけだった。「本邸」と記入されている。このタイミングで電話をかけても、言い訳を聞かされるだけで終わりそうだった。


 通話ボタンを押した。呼び出し音が続く。


 「はい、ナオミです。どちらの方でしょうか」


 「すみません、炭咲ですが、こひなから電話を——」


 「ねぇさん!あの男から電話が来た。どうする?」


 遠くにいる誰かに向かって大声で僕からの電話を伝えた。


 「分かった。もしもし? 悪いけれど、ねぇさんが五分後に折り返し電話するって言っているから、ここで一旦切らせてもらうわね」


 電話が切れた。ベンチに戻って、ガラケーを膝の上に置いた。五分。さっきまでの五時間に比べれば、短いはずだった。


 本邸から着信が入った。息を吐いて、電話に出た。


 「炭咲です。先日はお世話になりました」


 短い挨拶から会話を始めた。


 「今、ステラの調子が悪くなって病院に来ています」


 反応はないが、受話器の向こうから息遣いが聞こえてくる。


 「はあ、ずるいわよ、炭咲。嘘でもステラちゃんを盾にして逃げないでくれる?」


 「いえ、そういうつもりではありませんでした。今朝、ステラの調子が急に悪くなって——水族館から病院まで来ました。ステラの家族と一緒です」


 「へぇ、デートしたのね。あたしはそれっきり新吉原に連絡でもすると思ったのに、すっかり忘れられていたわけね」


 言葉が出なかった。謝るつもりで言ったことが、逆に刺さってしまった。どう返すか迷っているうちに、こひなが先に口を開いてくれた。


 「で? 結局、本当の家族を探したんだ。ステラは喜んでいる?」


 「喜びました。でも、実は少し心配事に悩んでいます」


 「あら、何かあったみたいね。言ってごらん。男の悩み事はあたしの専門だから、真面目に聞いてあげる」


 「こひなに正直に言ってもいいですか?」


 答えを待たずに、口が動いた。


 「ステラのことが怖いです」


 「ええと、ステラちゃんを失うのが怖いの? それとも、まだあなた自身への自信がないから?」


 「後者の理由で前者の結果になるのが怖いです」


 受話器の向こうで、こひなが息を吸う音がした。


 「……炭咲って、怖い時も報告書みたいに喋るのね」


 「今それを言うんですか」


 「色々あったみたいね。ステラの家族と何かあった?」


 僕は父親との会話からアリマと交わした契約の話まで、この四日間に起きたことをこひなに話した。ただし、ステラが暴走したことと樹の一族については秘密にして、それ以外はできるだけ全部話した。


 「なるほどね、炭咲と仲良くなるなんて羨ましい。少し嫉妬するかも」


 こひなは軽く笑った。受話器越しでも、それが分かった。こひなの笑い方は、いつも少しだけ意地悪だ。でも、嫌じゃない。


 「二人で何か話したの? ステラちゃんを実家に連れて行くとか」


 「……それが」


 僕は言葉を探した。


 「ステラが嫌がったの?」


 「いや、そうじゃなくて」


 こひなが相手だと、不思議と言葉が出てくる。なぜだろう。そんなことを考えながら、口が動いていた。


 「身内の人に頼まれたんです。これからは実の父親として、ステラの面倒を見てくれって」


 「うん」


 「でも、僕もノバナ出身で……手本にできるような大人が周りにいなくて」


 ガラケーを握る手に、力が入った。


 こひなは黙って聞いている。電話口の沈黙が、妙に温かかった。


 「自分がまともな大人になれる気がしないのに、いい父親になんてなれるわけないじゃないですか」


 声が震えた。


 大人を信じられない。


 二度も裏切られた。


 三度目の勇気なんて、もうない。


 「誰かに相談するのも怖くて……また何か奪われるんじゃないかって」


 「……うん」


 「香月さんには悪いと思ってます。でも、親戚だろうと何だろうと、大人は大人で」


 言葉が詰まる。


 「きっと優先順位があって、僕なんて下の方なんだろうなって」


 「……そっか」


 こひなは相槌を打つだけだった。同い年だから。似たような場所で傷ついてきたから。握っていたガラケーの力が、少し抜けた。


 「ただより怖いものはないって言うじゃないですか。だから大人には借りを作らない。傷つきたくないだけなんです」


 自分の話なのにうまく言葉にできない。誰とここまで長く話したことは初めてだ。


 「……要するに、炭咲って意外と頼りにされてるってことね」


 こひなの声が、少し低くなった。

 

 「炭咲は告白……されたの?」


 何か大事なことを言い忘れた気がして、すぐに訂正した。


 「あの、誤解です。ステラの姉の方から頼まれたことです。まだ返答はしていません」


 「なあんだ、そうだったの? びっくりしたわ」


 受話器の向こうで、ため息が聞こえた。


 「ステラちゃんのお家って、ご両親が亡くなってるの? それともひとり親家庭なの?」


 「いえ、親はいると思います。こひなと面識のある人です」


 「あたしが知っている人の中でステラを捨てた家族がいた? 誰なの、その人は」


 「各務家のアリマさんです。病院にも一緒に来て、今はステラの治療を手伝っています」


 「えっ?」


 こひなが思わず声を上げた。


 「……炭咲、今、各務先生と言った? 本当にあたしが知っているあの各務先生がステラの家族だったの?」


 「僕も最初は信じられなくて。でも、ステラが『ネネ』って呼んでいたんです」


 こひなが黙っている。続けた。


 「アリマさんも、こひなのことを知っていると言っていたので——間違いなく、同じ人だと思います」


 返事がなかった。受話器の向こうが、静かだった。


 しばらくして、こひなが口を開いた。


 「……ねえ、炭咲。ステラちゃんって——各務家の、誰なの」


 質問の意味が、よく分からなかった。


 「……アリマさんが、お姉様って呼んでいたので。ステラの方が、家族の中では上なのかと思って」


 「……そう」


 それ以上は聞かなかった。でも、声から余裕が消えていた。


 「こひな、何か気になる部分でも——」


 そこまで話したところで、研究室の中から虎徹がマスクを外しながら廊下に出てきた。着ていた服に誰かの血が付いている。


 僕は携帯電話を閉じた。パタン、と小さな音がした。さっきより、少しだけ、立ち上がれた気がした。自動販売機で缶コーヒーを買い、虎徹に近づいた。


 目の下に隈ができ、唇が乾いていた。それでも体力はまだ残っているようだった。こんなに疲れ切った人に話しかけるのは気が引けた。


 「失礼しますが、各務家の娘はどうなりましたか。大丈夫ですか」


 気づけば、声が低く沈んでいた。


 「病名だけでも、教えていただけますか」


 虎徹は一度まぶたを閉じた。疲労が、その表情に刻まれていた。


 「ナロコウイルスに感染した状態で、体内の力が大量に消耗されています。高熱と炎症が多発していて、有効なワクチンはまだ見つかっていない」


 そこで、口が止まる。廊下の蛍光灯が、一瞬だけちらついた。


 「明朝まで集中治療室《ICU》で様子を見ることにしました。各務先生の処置も、もうしばらくかかります」


 先日の暴走が、頭の奥をよぎった。


 「まだ学生だろ。どう見ても高校生くらいか」


 虎徹は壁に肩を預け、缶コーヒーの口元に視線を落とした。


 「各務先生から聞いた。あの子の保護者でいてくれたみたいだね」


 保護者。その言葉が、どこか遠い場所に落ちていく気がした。僕は自分の手の甲に目を落とした。病院の消毒液の匂いが、今さらのように鼻をついた。


 「詳しい事情は知らないが――」


 缶を一口あおって、膝の上に戻す。それから、初めてまっすぐに僕を見た。目の端が切れ長で、光をあまり反射しない。


 「覚悟を持てば、うまくやれると思うな」


 虎徹の口元がわずかに動いた。次の言葉を測るように。


 「育て方の本を全部読んだ親でも、現実の前では膝をつく。それくらい子育てというのは甘くない」


 缶を床に置く音が、廊下に小さく響いた。僕はその音が消えるまで、何も言えなかった。


「まして、あの子の状況だ。君のような学生が背負うには――リスクが大きすぎる」


 反論の言葉が、喉のあたりで形を失った。


 僕は、斜め向かいの椅子に座るその男から目を逸らさなかった。傲慢と呼んでいい静けさがある。こちらの沈黙を、少しも急かさない。


 「お説教、ありがとうございます」


 皮肉で幕を引こうとした。


 「ずいぶん乱暴な言い方をしたが」


 虎徹が缶を傾ける。


 「君も、誰かの口から聞きたかったんじゃないか。子供が子供を育てられるはずがない、と」


 否定しようとした。でも、自動販売機のくすんだ反射に映った自分の顔を見た瞬間、口が静かに閉じた。指先が、膝の上でかすかに握られていた。


 「まあ、缶コーヒーのお礼に一言だけ。聞くかどうかは、君が決めていい」


 ふう、と息をつく。


 「今回の件で、なにかを背負う重さは分かっただろう」


 親の責任。その四文字が、棘になって刺さった。


「年若い君が、まだ形にもなっていない感情に突き動かされたところで――名前のない関係は、いつか必ず霧散する」


 胸の奥が、じくりと痛んだ。視線を床に落とすと、虎徹の靴の爪先だけが視界に入った。その先には、ICUへ続く廊下がある。


 「現実的には、あの娘の幸せを祈ることしかできないだろう」


 缶コーヒーの甘い匂いが、消えていた。いつの間に。


 涙が一滴、膝の上に落ちた。自分でも気づかなかった。


 「あの人から何を吹き込まれたかは知らない。知ったところで意味もないが、各務家の思惑通りの話だろう」


 虎徹が疲れた顔を軽くこすり上げる。


 「各務家との関わりは今後控えた方がいい」


 虎徹の口が動いているのは分かった。言葉も、聞こえていた。ただ蛍光灯の光が、なぜかひどく白く見えた。


 「アレについては、本家の当主が治療を完了次第、直接回収に向かう予定になっている」


 アレ――ね。


 「そうなれば、君の出る幕はなくなるだろう。各務先生からは、それ以外に何か伝言があったか?」


 虎徹を見つめた。唇が、かすかに引き結ばれたまま動かない。


 「当主の話を知らないとは」


 虎徹が呟く。


 「やはり先生の一存か」


 缶を口に運ぶ。


 「各務先生が意図的に逃がした――そんな話も出ているがな」


 アレ。ステラのことを、最後までそう呼ぶ。何かの物のように。


 「真実かもしれん」


 コーヒーを飲み干して、立ち上がる。その動作に迷いがなかった。


 「まあ、私の知ったことではないが」


 缶がゴミ箱に放られた。金属音が廊下に一度だけ響いて、消えた。


 「君も引き上げろ。ここに留まっても、もうアレとは顔を合わせることはない」


 それだけ言い残し、虎徹は廊下の奥へ歩いていった。白衣の背中が角を曲がり、蛍光灯の光の中に溶けるように消えた。


 また一人だ。


 廊下の椅子に座る。唇を噛んだ。


 守れなかった――


 膝が、笑っている。立てない。壁に手をついて、なんとか立ち上がった。


 ステラ。


 吐き気が込み上げてくる。トイレ。どこだ。


 廊下を歩く。すれ違う人が顔をそむける。構うな。歩いて、歩いて、やっと個室に駆け込んだ。


 便器に顔を突っ込んで、吐いた。


 涙があふれる。心臓が暴れる。


 吐け。全部。


 ――守ってやるって、言ったのに。


 また吐く。


 吐く。消えろ。


 喉がひりひりする。胃が空になっても、体はまだ吐こうとする。塩辛いものが舌に残る。


 苦い。何も残ってない。それでも体が吐こうとする。


 最後の一滴まで。全部――捨ててしまえ。


 壁に手をついて立ち上がる。足が震えた。


 洗面台の前に立つ。蛇口をひねって、冷たい水を顔にあてた。何度も。何度も。


 顔を上げた。


 鏡の中に、見知った顔がいた。


 蒼白で、唇は灰色で、目は充血している。それでも――分かった。誰の顔か。


 父親アイツだ。


 あの日の、あの顔だ。


 水が滴る。前髪が垂れる。拭わない。また見えるから。


 アイツは、僕を実験台にした。結果が出れば十分だった。僕が何を思っているかは、関係なかった。


 ステラを守りたかった。そう信じていた。


 でも――本当にそうだったか。


 あの子が泣くたびに、満たされていた。頼られるたびに、必要だと思えた。守っていたのではない——消費していたのだ。ステラの涙を。ステラの声を。


 一度も、聞かなかった。


 何を望んでいるか。たった一度も。


 ——アイツと、同じだ。


 拳を、振り上げた。


 鏡が砕ける。破片が飛んで、頬に熱いものが走った。


 痛くない。


 割れた鏡を見下ろす。床に散らばる破片。その一つ一つに、まだ僕の顔が映っている。


 消えない。


 膝が崩れた。洗面台にしがみつく。血が床に落ちる。赤い点が、静かに広がっていく。


 外でドアを叩く音。「開けてください」複数の声。鍵が動く音がした。


 立ち上がる。ドアを開けた。


 白衣の人たちが集まっていた。みんな僕の手を見た。僕は見なかった。


 通り抜けた。


 「待って」誰かが腕を掴もうとした。振り払った。


 廊下を歩く。人がよける。ざわめきが遠い。


 外に出た。


 日が落ちていた。


 足が勝手に動いていた。どこへ向かっているのか、考えなかった。家に帰るのだろう。それ以外に行ける場所を、僕は知らない。


 切った手が、じくじくと痛んだ。それだけが、妙にはっきりしていた。他のことは何も——ステラのことも、鏡のことも——もう遠かった。痛みだけが、今も僕がここにいると言い張っていた。


 街灯だけが、やけに白く滲んでいた。

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