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第十三話 炭に咲いた春の花

 飯田橋の駅近くに、バベルを祀る大神宮がある。一般人には縁結びの神社として知られているが、関係者の間では地上からバベルに入る唯一の入口だ。


 「ここからは徒歩で移動します。全員、車から降りてください」


 降りる前に、藁製の編笠を被らされた。顔を完全に覆う円錐形。縁が視界を塞ぎ、足元しか見えない。


 それでも、街は匂いで分かった。雪と石畳と、やがて灯油の香り。


 足元の影が赤く染まった。顔を上げなくても分かった——道の両側に、春日灯籠と石段が現れたことが。八十八段。昨夜からの雪が朱色の光を吸い込み、石段の輪郭を柔らかく溶かしている。


 コンクリートのビル街と、雪に包まれた石段。手錠と首輪をかけられたまま、僕は立ち止まった。


 ここが、バベルへの入口か。話には聞いていた。それでも——実際に目の前に立つと、足が止まりそうになった。


 ――アリマは、まだここにいるのだろうか。


 「止まるな。転んでも知らないぞ」


 背後から押しつけるような声が来た。足を速めた。


 「薬が効くまでは無理をしない方がいい」


 隣に並んだ香月が、声を落として言った。視線は前を向いたまま、口だけが動いている。


 「少しでも副作用があれば、すぐに私に言いなさい」


 「そこ、罪人と距離を取れ。余計な会話は禁止だ」


 香月の肩が、わずかに強張った。それでも足は止めず、前を向いたまま静かに口を開いた。


 「主治医として患者に注意事項を伝えただけです」


 今度は、顔ごと相手の方へ向けた。


 「それとも、この悪天候の中で患者を歩かせることの方が、医療上の問題にならないとでも?」


 返事はなかった。


 僕は深く息を吐いた。雪の積もった石段を、黙々と上がる。編笠の下、周囲の人間が同じ円錐形の笠を被っているのが足元の影で分かった。顔も性別も分からない。黒い群れが一列になって進み、やがて神社に着いた。


 境内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 狭い。人いきれと線香の残り香が、雪の冷気と混ざり合っている。五十人を超える人間が押し込められているのに、誰も声を出さない。その沈黙が、ここが何をする場所なのかを告げていた。


 僕は顔を伏せて、後ろで目立たないよう気を配った。


 「時間になりました」


 誰かが息を呑んだ。それきり、音が死んだ。


 「全員一列に並んで、階段を上がりましょう」


 空が、裂けた。


 ——千本の鳥居が、降りてきた。


 朱色のトンネルが地面に根を張るように広がり、吊り灯籠から柔らかい光が次々と灯る。昼間の陽射しのような明るさなのに、耳は何も捉えない。光だけが生きている空間だった。


 足元に透明な階段が現れた。踏み出すと、足の裏から冷たさが這い上がってくる。手錠が皮膚に食い込み、一段ごとに痛みが肩まで届いた。前を行く黒い人影が、朱の中へ溶けていく。


 怖い——ただ、死が怖いのとは少し違う気がした。うまく言えないが。


 その感覚を飲み込んで、雲の中を歩いた。外の雪風が嘘のように、鳥居の中は息が詰まるほど静かだった。その静寂が、逆に不気味だった。


 空気が薄い。肺が小さく痙攣する。高度が東京タワーを超えた頃、街並みが遠い地平線の向こうに沈んだ。雲の層が厚くなり、前を行く人影の輪郭が滲んだ。


 編笠の縁をわずかに持ち上げた。それだけで、視界が開いた。


 雲が、割れていた。


 足が、止まった。


 石造建築物が、日本列島上空を覆う雲から姿を現した——逆さまに。一階が天辺、最上階が底。途中で建設を止めたビルのように、いつ地上に落ちるか分からない危うい均衡を保っている。一つ一つの石材が心臓のように膨らんでは縮み、表面を血管めいた亀裂が走っている。継ぎ目から熱が漏れた。生温い。湿っている。下から上へ、崩れ落ちるはずの石が空に向かって舞い上がる。


 人間が積んだものじゃない。


 胃の奥が締まった。冷や汗が首筋を伝う。それでも目が離せなかった。


 後ろから誰かがぶつかった。よろけて、手錠を繋いだ鎖が鳴った。体が動かなかった。


 鳥居の隙間に広がるバベルを、僕はただ見ていた。


 美しかった。だから——余計に、息ができなかった。


 「到着しました」


 鳥居のトンネルを抜けると、荒野が広がっていた。東京ドームより広い。花も、生き物の気配もない。足元は乾いた砂利で、一歩踏み出すたびにじゃりじゃりと音が響く。


 空気がひどく乾いている。喉が痛い——風が吹くたびに砂埃が舞い、目の奥にじりじりと沁みる。


 ただ砂埃を舞い上がらせるだけだった。


 「各自、検問所で指定された席に案内してもらい、会場まで進んでください」


 周囲がざわめき始めた。アイマスクをつけた何人かが、小声で言葉を交わしている。


 「これが、陽様の楽園なのか」


 大部分は黙っていた。何かに怯えているように。


 整然と並ぶ黒い人影を見ながら、現場にいた頃の小泉の言葉が浮かんだ。


 「エス団には、関わるな」


 バベルを宗教として信奉する集団。ヨウ様と呼ばれる存在が現れ、その後を追った者たちが作った。知的エリートも芸術家も混じっていると聞く。指示もなく、抵抗もなく、ただ従う——目の前の光景が、その言葉の意味を静かに証明していた。


 荒野の奥、壊れた大理石の柱とともに、円形の建物がぽつんと置かれていた。風雨に削られ、半分以上が原形を留めていない。古代の神殿のような形。


 建物の周りには朽ちた石の欠片が散らばっている。漂ってくるのは古さの匂いではなかった。昨日まで生きていた何かが突然消えたような、生温かい匂い。


 バベルの塔は、空に向かって積み上がっている。その足元には、何かが埋まっている気がした。


 検問所は簡素だった。木製のテーブルと椅子。制服を着た係員が数人、参加者を無言で振り分けている。


 香月が僕の手を軽く握り、係員の一人に近づいた。


 「罪人の主治医として同席予定の香月モネと申します。私たちの席まで案内していただけますか?」


 香月の声が、普段より少し高い。緊張している。


 係員は書類に目を通しながら、機械的に答えた。


 「恐れ入りますが、お受けいたしかねます。罪人の席と参加者の席は分かれておりますので、ルールに則ってご着席ください」


 香月の表情が強張る。深く息を吸い込んで、もう一度試みた。


「事前に話は通してあります。これ、地上で使っている電話番号です。必要であれば確認していただいても構いません」


 名刺を、係員は受け取らなかった。


 香月の頬が紅潮する。


 「地上からの話は、ここでは通用しません」


 周囲が静かになった。アイマスクをつけた何人かが、小さく舌打ちをする。


 香月が拳を握りしめ、声を低くした。


 「言い争いをするつもりはありません。龍崎家の人を呼んでください。中にいるでしょう?」


 係員の目が、一瞬だけ動いた。


 「下がりなさい。次は拘束します」


 警棒に手がかかる。会話は、そこで終わった。


 香月が一歩引いた。唇が動きかけて、止まった。


 僕は首を横に振った。


 「もういい」


 口の形だけで伝える。


 香月が唇を噛み、最後に一度だけ係員を睨みつけてから、僕から離れていった。


 一人になった僕は、係員に向き直った。手錠の音がかちゃりと響く。


 建物に向かって歩き始めてから、体感で十分ほど経っただろうか。ようやくアゴラが開催される建物の入口に着いた。身分証明書を提示し、ボディーチェックを受ける。


 問題は、その後だった。


 体調の優れない僕を気遣って、香月は入口で立ち止まり、スタッフと押し問答を続けている。


 その間、僕は周囲を見回した。空の上に人類が建てた文明。むっとする土の匂いが、壁から迫ってくる。


 一体誰が、これを建てたのか。


 「ネネはあそこにいるの」


 耳元で、ステラの声がした。


 香月に声をかけようとして——手を引かれた。


 ステラだ。


 冷たい。


 指が、冷たい。氷より冷たい。


 それでも僕は『温かい』と思い込んだ。そうしないと、この手を離してしまいそうで。


 陽炎の温もりが、幻が、僕を柱廊の奥へ連れていく。振り返りもせず、姉のもとへ、姉のもとへ。


 警備員たちがアゴラの内部への侵入を阻止しようとしたとき、僕は手錠を振り払って突き破った。


 光も入らない闇の通路。僕の両腕から赤い炎が軌跡を描き始めた。


 炎がうねる音。焦げた匂い。


 木炭のような腕から立ち上る炎が、立ちはだかる人々を次々と薙ぎ倒していく。叫び声が石壁に反響する。


 音の波紋、湿度の変化が、墨絵のように広がった。


 喉の奥から這い上がってくる、鉄錆のような味。


 炎が、人を舐めた。


 黒い灰になる。渦を巻いて、消える。


 手応えは、ない。


 焼いた感触も、骨を砕いた重みも。


 ただ——「いた」ものが「いない」。それだけが残った。


 鉄と灰の味が、舌に張り付く。


 埃のように。


 手が、震えていた。気づいたのは、炎が消えてからだった。


 通路の先に、光が見えた。


 色が、目に痛かった。


 広場の真ん中に跪く——形が、あった。


 アリマだった。


 足が、前に出た。


 「アリマ!」


 口が、動いた。止める理由が、なかった。


 届け。萎れた花まで。


 「君は——今日から、炭咲の有馬だ」


 アリマが、こちらを見上げた。


 言ってから、少し笑えた。


 死ぬつもりで来たのに、名字を渡していた。


 ——炭の中に、春を継がせていた。


 周囲が、ざわめく。


 アリマを僕の戸籍に入れる手続きは、香月の人脈を使って進めている。だが、アゴラ開始前に間に合うか——


 手錠の金属が、じわりと冷たくなった。


 「静まれ」


 僕は無意識に首をすくめた。


 石畳に足音が響く——いや、足音ではない。声だ。壁龕へきがんの奥から、空気そのものを押し動かすような低い声が、広場全体に染み渡っていく。


 周りの人々が、動きを止めた。


 湿った石の匂い。燃えるような香の匂い。


 ステージを扇形に取り囲むように、湾曲した木材の長椅子が七十台ほど並んでいる。顔を隠した人々。灰色の布が夕暮れの光の中で幽霊のように揺れている。時折、布の隙間から覗く目。僕を見詰めている。


 視線が、刺さる。好奇心じゃない——品定めだ。


 僕は老人に向かって会釈を返し、真ん中のステージに降りていった。


 罪人を低い場所に置いてアゴラを行う——そういう仕組みらしい。


 足を一歩踏み出すたびに、石段が軋む。老人の顔は壁龕の影に隠れて見えない。だが、その存在感だけで空間を支配している。


 古代の集会所のような構造。壁が音を飲み込まず、むしろ増幅させる。誰かが喉を鳴らした。それだけで、空間全体が反応した。


 ステージの中央に立つと、周囲の視線が一斉に注がれた。扇形の観客席から見下ろされる感覚——井戸の底にいるようだ。


 夕日が西の空に傾いている。長椅子の間から差し込む光が、顔を隠した人々の輪郭を浮かび上がらせている。


 「地上から来た小さな花よ、何の騒ぎだ」


 老人の声に、身を竦ませる。


 小さな花——僕を蔑むような、それでいて慈しむような響き。


 「地上から来た」という言葉が暗示しているのは、目の前の存在に常識が通用しないということだ。


 「僕の娘が皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません」


 深く頭を下げて、声を張り上げた。扇形の観客席がざわめいた。灰色の布が、一斉にこちらを向いた


 「僕の娘? まずは名を名乗れ、小さな花よ」


 アリマの手を、握り直した。


 「炭咲の千春と申します。今日からこの子の父親になる者です」


 風の音だけが、残った。


 観客席の人々は身じろぎひとつしない。老人でさえ、壁龕の奥で黙っていた。


 その沈黙の中で、理解した。何か取り返しのつかないことを口にしてしまったのだと。


 壁龕の奥で、燭台の炎が揺れた。


 「報告書に、そのような記載はなかった。嘘をついているのか」


 反論の声が響いた。老人の声に疑念が込められている。


 扇形の観客席からも、ざわめきが深くなった。


 深呼吸をする。この奇妙な法廷で、自分に課せられた役割を演じる覚悟を決めた。


 「はい、嘘ではありません。もう一人、僕の娘がいます」


 「その花は誰だ」


 「ステラと名付けた女の子です。世間では各務家の末井と呼ばれていた子供です」


 各務家の末井——その名前が、端の席まで届いた。


 「ふざけるな。末井は——俺の娘だ!」


 後席から声が飛んだ。各務家の当主だ。深い皺の刻まれたやつれた顔——しかし声だけは、まだ張っている。


 僕は彼の方を見なかった。


 「ノバナだったステラを僕が拾い、名前をつけました」


 石の空間に、声が吸い込まれていく。


 「調べればすぐ分かります。TGCに通報された時、保護者の情報欄に僕の名前が書いてあるはずです」


 観客席が動揺した。


 「実際、ステラは僕を父親と呼んでいました。しばらく、一緒に暮らしたんです」


 言い切った。


  壁龕の奥が、沈黙を続けていた。


 場の息が、止まっていた。


 「炭咲の千春という名前は、確かにTGCの資料で見たことがある」


 老人の声から、刃が消えた。


 だが次の瞬間、その声は冷たく突き放すように響いた。


 「しかし、小さな花よ、君の言葉には根拠も証拠もない。ここに集まった他の花を、それで説得できようか」


 足の裏が、冷えた。絶望は、案外と静かだった。——僕は、顔を上げた。


 だが、老人は続けた。


 「何よりも、君は発言権がないまま話を持ち出した。急ぐ気持ちは分かる。だが——席に戻れ」


 席が、どこか分からなかった。入ってきた方向すら、もう怪しかった。


 アゴラに入り込むことだけを考えていた。ルールも、手順も、何も持たずに。


 「無謀すぎます。炭咲さんはここに来てはいけなかった」


 アリマの声が、割れそうだった。


 「どうして——どうして来たんですか。まさか私を、ネネの身代わりにするつもりじゃないでしょうね」


 跪いたまま、アリマは顔を上げた。


 髪が乱れていた。目が赤かった。拳だけが、膝の上で白かった。ただ、視線だけが、真っ直ぐだった。


 その視線の前では、言い訳が、意味を失った。


 肩に、手が置かれた。


 「無計画だったのは認めます。でも、助けに来たんです」


 スタッフの手を振り払いながら、話を続けた。


 「正直なところ、アリマさんがどんな罪を犯したかには興味がありません。僕はただ、今更ながら——ステラが最後まで望んだように、アリマの父親になるために来ました」


 「ありえない、ありえない、ありえないです! ネネは私ではなく、あなたのことを心配しました。『自分を責めるから守ってあげなさい』って、私に遺言まで残した。それなのに——あなたはその気持ちを無視して、自らバベルに近づいて死のうとしている。一体、何を考えているんですか?」


 アリマの声が、観客の奥まで届いた。誰も、動かなかった。


 泣きそうな顔で、怒っていた。目が、僕を捉えて離さない。


 その視線を受けながら、僕は、なぜか息が深くなった。


 ほどけた。


 ああ。そうか。


 ステラが最後まで伝えようとしていたもの。か細い声で囁いた言葉の——本当の意味。


 気づいたら、笑っていた。自分でも驚くほど、自然に。


 「呆れた」


 アリマの声の端が、ほつれていた。


 「今までの努力が台無しになって、絶望のどん底に落ちた私の前で——よくそんな顔ができますね」


 拳が、震えていた。小刻みに、白く。


 「それとも何ですか? 悲しくて、惨めで、人生そのものに腹が立って仕方がなくて——だから笑うしかない、とでも言うんですか?」


 アリマの言葉が、自分の中に落ちてきた。


 微笑みが、消えた。


 「ごめん、ごめん」


 声が——


 肺の奥まで、空気が入った。


 「これは——僕が悪かった」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始める。


 「僕の知るステラは、アリマを誰よりも大切にしていた。小さな心遣いひとつひとつに——」


 一度、止まる。


 「——優しい子だった」


 ステラの面影が脳裏に浮かぶ。あの子がアリマの名前を呼ぶ時の、特別な響き。


 「さっきの笑みは——あの子から預かった願いの、本当の意図を知って」


 目が、横に逃げた。


 「純粋に、嬉しかったんです」


 声に、初めて本当の温かさが宿る。アリマの表情に、わずかな変化が見て取れた。


 再び、アリマに近づこうとする人影。


 考える前に、手が動いていた。その人物の首を掴む。指の間から、灰色の粉がこぼれ落ちた。


 アリマを見た。怖がっている。


 「前に、僕の家の壁に貼ってある写真を見ただろう」


 どこかで、衣擦れの音がした。目を、閉じる。


 「あれは、家族を見捨てた父親に復讐するための人生計画だった。長い時間をかけて、練り上げた——」


 手のひらに残った灰を見つめる。


 「今となっては、全て意味を失った」


 アリマは言葉を失い、ただ顔を見つめている。


 「アリマが『ネネの父親になってください』って頼んだこと、覚えてる?」


 息を吐く。


 「あの時、なぜすぐ答えられなかったか——ずっと考えてた」


 灰が、指の間からこぼれ落ちた。


 「僕も——あいつみたいに、駄目な父親になるんじゃないかって」


 拳を握る。


 「怖かったんだ」


 声が震える。


 アリマの瞳が、じっとこちらを見ていた。


 ある夜、家族を燃やし尽くした炎。七歳の少年が、復讐を誓った——それは、死に向かう生き方だった。


 「壊れた人生だった」


 胸が、少し軽くなった。これほど長く抱えてきたものを、初めて声に出した。


 「だから、父親のような大人にならないよう、常に意識して生きてきた」


 アリマが、そこにいた。困惑——その先は、読めなかった。


 「バイトから帰ると部屋の暗闇が迎え、冷めたコンビニ弁当が空腹を満たす——そんな単調な日常に慣れた頃」


 そこで言葉を切る。続きを探すように、視線が落ちる。


 口元が、わずかに緩んだ。


 「僕はステラと出会った。本当に、偶然だった」


 アリマの顔が、少し解けた。手の力が、抜ける。


 「僕がステラに名前をつける前、あの子はただの野花だった。僕があの子をステラと呼んだ時——ステラは意味を持った一輪の花になった」


 声に、初めて本当の愛情が込もる。観客席が静まり返っている。


 「僕がステラに、ステラが僕に——忘れられない存在になったように」


 アリマの息が、聞こえた。手を伸ばせば、届いた。


 「君にも、そういう花が咲く。それを——伝えたかった」


 アリマの目に、涙が光った。


 「あなたは——」


 声がかすれている。


 「あなたは本当に、ステラの父親になったんですね」


 「これは僕が、どうしてもやり遂げたいことなんだ。無茶な話だってことは分かってる」


 顎を、上げた。


 「それでも——信じて欲しい。まだ未熟で頼りにならないけど、最後まで見届けて欲しいんだ」


 言葉が、尽きた。


 急に恥ずかしくなる。アリマがどんな顔をするか——やけに不安になった。


 「本音を聞かせてくれて、ありがとうございます」


 アリマが言った。


 「すみません。実は私——まだ炭咲さんに言ってないことがあります」


 何を——


 地面に引き倒された。


 麦わらの化け物だった。先日から僕の人生に絡みついている、あれだ。


 「待って待って待って。こんなに面白い話を、陽を置いて語り合えるとは——狡いぞ、アリスよ」


 頭上から、空間を裂くような声が響いた。


 エス団——陽を信じる者たち。


 彼らの沈黙が、今は一番怖かった。


 早春の風に霙が混じって吹いてくる。気圧がぐっと下がった。


 「退け——」


 体を押さえている案山子を、左手で掴む。


 「僕の上から退けと言っているだろう」


 赤い炎が麦わらを燃やし——灰にした。


 全身に火が広がる前に、それは大きなハサミを取り出し——自分の左足を切り取った。


 切断面から、新しい麦わらが急速に伸び始める。


 同時に、麦わらの体に変化が起きた。


 繭から蝶が羽化するように——首のない人型の影が、麦わらの外殻から抜け出し、空中に浮かび上がる。


 「炎……?」


 首のない体が、わずかに揺れた。思案するように。


 「ああ、なるほど。あの夜に燃やした種が芽吹いたか。——実に面白い」


 僕の状況を見た謎の存在が、豪快に笑った。声がどこから出ているのか、分からなかった。


 「小さい花よ、もう一度、お名前を聞いても良いか?」


 ヨウと名乗るその存在が、羽根でも生えているかのように、ふわりと降りてきた。


 首が——ない。


 首の断面が——黒曜石のように光っていた。手が動いた。触れようとしていた。気づいて、止めた。恐ろしい。でも指が、止まらなかった。


 纏っているものを、衣服と呼んでいいのか。


 紫色の絹のような布地に、金糸で縫い取られた八角形の紋様。一枚の布を肩から斜めに掛け——古代の哲学者が纏うヒマティオンのような優雅さがあった。


 遥か昔の地中海沿岸を、彷徨う亡霊のようだった。


 「炭咲の千春と申します」


 深く頭を下げる。


 「娘がご迷惑をおかけしました。どうか——お許しください」


 「赤の他人から見捨てられた娘を、自ら義理の娘に迎え入れ、更にその代わりにお詫びまで申し込んでいる」


 ヨウの纏う布が、風もないのに揺れた。


 「アリスよ。人間の情というものが、犬畜生の欲情と境界線が曖昧になった今のご時世——彼の話は珍しいと思わぬか? そうであれば、娘が犯した罪を知らせる義務があろう」


 「陽様……」


 壁龕の影から、アリスの声がした。


 だが、ヨウは手のひらを前に出した。


 「ただし、条件がある。ヨウが造った案山子を倒してみせよ。それくらいの覚悟がなくては、話にならぬ」


 ヨウが足元の地面に手をかざすと、土がもこもこと盛り上がり始めた。


 見えない手が畑を耕すように、黒い土が人の形に整えられていく。胴体、腕、足——粘土細工のように滑らかに。


 「土から人間を創り出す御伽話を、君は好きか?」


 ヨウの指先から金色の麦わらがひらりと舞い落ち、土の人形に突き刺さった。


 麦わらが、根を張るように——全身に広がっていく。


 「お前の怒り、絶望、娘への愛——全て材料にしてやった。なかなかの出来栄えであろう?」


 最後に黒いボタンのような目が土の顔に埋め込まれると、それはゆっくりと立ち上がった。


 案山子が、ハサミを振り回す。


 「どうだ、難しそうであれば条件を変え——」


 「分かりました。約束、守ってください」


 ヨウが、止まった。


 「それは炭咲という父親の次第で、解決できる問題になるか、永久の償いになるかが決まる。もちろん、嘘はつかぬ」


 足が、動いていた。


 案山子の麦わらが、風もないのにざわめいた。


 相手の動きだけを、見た。


 ハサミが、宙を切る。その軌跡を目で追いながら——体を沈めた。


 横へ、一歩。


 右手が熱くなる。炭の奥で、火種が爆ぜた。


 案山子の足元がふらついた瞬間——踏み込んだ。


 木炭が麦わらを貫く手応え。


 暗い麦わらの中に、錆色が覗いた。指が、それを認識する前に——掴んでいた。


 錆びた懐中時計が、手のひらに転がり落ちる。


 握って、力を込める。


 亀裂の音がするまで——離さなかった。


 「おや? 一瞬で終わらせて良かったのか? 案山子との間に、まだわだかまる古い怨みがあったようだが」


 「案山子にはもう用がありません。それより——」


 ヨウがしばらく考え込んだ後、落ち着いた声で命令を出した。


 「良かろう。アリスよ、娘が犯した罪の内容を手短に伝えてやれ。長くなるようであれば、ヨウが続きを引き取る」


 「しかし、陽様。掟を破った罪人に気を遣う必要はありません。他の花の反感を買うことになります」


 アリスの声に、力が入った。


 「一度、これに関して議論した上で決めては、いかがでしょうか」


 「君たちは、いつもそうやって都合の良い時にだけ民主主義を持ち出し、ヨウに逆らおうとする」


 不機嫌が、声に滲んだ。


 「時の始まる前から、陽はある。なぜ不完全な被造物の機嫌を取らねばならぬのだ? アリスよ——その理由を説明できるか?」


 誰も、答えなかった。


 ヨウが、僕に向かって親指を立てた。今の場面を見せつけるように。


 「余興に過ぎぬ。問題があれば、普段通りアリスに任せる」


 アリスは一度だけ、アリマに目を向けた。


 躊躇ためらいではなかった。確認だった——これを言葉にする必要が本当にあるか、という。


 「各務家の次女——有馬は、バベルにて禁忌とされた樹の一族の遺伝子情報を盗みました」


 皺の刻まれた手が、静かに組まれた。


 「更に、その遺伝子と各務家の卵子を組み合わせ——人体実験を行った。新しい花を生み出すことで、陽様の花園に許可なく青薔薇を咲かせたのです」


 詳細を知る者は俯き、知らない者は隣に目を向けた。


 「その犯罪の動機は——」


 アリスの声が、そこで止まった。


 「……申し訳ありません。動機については、私の口からは」


 「お見事だ」


 ヨウの声が、アゴラの石柱に響いた。


 「流石は元賢者。話術は円熟の域に達している。これで娘が何の罪を犯したか、通りすがりの犬でも一目瞭然であろう」


 「お褒めに預かり、光栄です」


 アリスが、状況への照れ隠しか苦い微笑みを浮かべた。皺の刻まれた口元が、苦さを堪えるように引き結ばれている。


 「さて、炭咲の名を持つ親よ」


 ヨウの輪郭が、初めてこちらを向いた。


 「君は今の話をどう思うか、聞きたいのだが……まだ考える余地が必要か?」


 「質問があります。樹の一族というのは——何者ですか。アリマが罪に問われたのは、彼らと関わったからですよね」


 「大元の罪状は拉致と人体実験、および殺人未遂など——犯罪に類するものだが」


 声が、室の隅まで満ちた。


 「処罰対象となった原罪は、『樹の一族に関わらぬこと』——この掟を守らなかったからだ」


 ヨウの視線が、ほんの一瞬だけ——部屋の隅の、何もない場所へ逸れた。


 「樹の一族とは、陽の玉座を脅かす者たちであった。各務の花は陽の意志に逆らい、その一族と同じ道を歩んでしまった——これで、答えになるか」


 「ただそれだけの理由で、今まで人々を処分してきたのですか?」


 石の床に落ちた炭の粉が、指先に黒く滲んだ。それを見つめたまま、もう一度口を開いた。


 「つまり——陽様がそう決めた。それだけの理由で、アリマは捕らえられたということですか」


 返事はなかった。


 これほど馬鹿馬鹿しい理由が、人の命を左右してきたのか。


 バベルが人を裁くのは、何か確かな基準があるからだと——そう思っていた。だが違った。ヨウがそう決めた。ただ、それだけのことだった。


 各務家の当主が、石の床を引っ掻くような音を立てて立ち上がった。


 「無礼な口を利かないよう注意しなさい」


 僕は当主の方へ顔を向けた。


 「首を突っ込むな。これは陽様と僕の間の会話だ。黙って見届けていればいい」


 当主から目を切り、再びヨウに向き直った。


 僕は木炭の前に膝をついた。炭の端を静かに突く。手を動かしていないと、口が先に動く。喉の奥が乾いた。


 「はっきり聞かせてください。アリマがここに引き摺られてきたのは、結局、陽様のお望みに応じなかったからでしょうか」


 石の壁に刻まれた影が、ゆっくりとヨウの方へ傾いた。


 誰も、口を開かなかった。ヨウの視線が僕の上に止まっているのが、見なくても分かった。


 「ここは陽の花園、君たちは陽の花だ」


 声ではなかった。室の壁に、床に、天井に——ヨウの言葉が直接染み込んでくる。


 「道を迷った花には指導を、道を外れた花には躾を与える。それが陽の役目だ」


 枯れた花を摘み取るのと同じ声調だった。


 「各務の花は、それとは関係ない。間違った道を歩み——純潔さを失ったせいだ」


 炭の先が、折れた。


 隣で、誰かが息を呑んだ。


 「清らかではない花は、死で償い生まれ変わる」


 「——よく、分かりました」


 歯を食いしばって、礼を言った。


 「思ったより——人間的な方で、安心しました」


 「ん? それは、どういう意味だ?」


 あの人と、同じ顔だ。


 握っていた炭がぽろりと落ちた。


 「いいえ、何でもありません。答えてくださってありがとうございます」


 僕はヨウの方に向き直し、もう一度頭を下げた。


 「——それで、娘の罪が許される方法は?」


 ヨウは腕を組んで僕のところに歩み寄った。


 「炭咲の名を持つ花よ、陽に聞きたいことはそれで終わりなのか?」


 「はい、以上です」


 「……それで態度が急に変わったのか。確かに、一理はある」


 首がないヨウが小さく呟きながら頷いた。


 「一つ、陽からも質問して良いか?」


 「——どうぞ」


 「陽と対面してどう思う。何を感じたか正直に言ってほしい」


 「それは初印象のことでしょうか」


 「初印象?」


 ヨウの声調が、一段上がった。


 「良かろう。初印象だけではなく、その後の印象も、ぜひ聞かせてくれ」


 「最初は——天上天下唯我独尊的なナルシストに見えました」


 炭の粉を指先で払いながら、続けた。


 「今は——首なしの状態で、ご飯はどこから食べるのか気になっています」


 遠くで、誰かが椅子から腰を浮かせる音がした。壁龕の奥では、アリスの巨体がわずかに揺れた。各務家の当主は——声も出なかった。


 「……ほう」


 ヨウの声から、何かが抜けた。


 「小さな花は、陽が食事をする姿が見たいのか?」


 「いや、別に見たくはないです」


 「何故そのようなことを聞く」


 「ただ、興味が湧いたからです」


 「ただの興味……?」


 「良かったら地上に降りてくる際に、ファミマの『大きな鮭はらみおにぎり』と牛乳をぜひ試してください。美味しいです」


 ヨウの体から音が出た。石柱が、低く震えた。底の深い音だった。


 「……おもしろい」


 ヨウの肩が、ゆっくりと上下した。


 「小さな花よ」


 ヨウが一歩、僕に近づいた。


 「陽にファミリーマートの鮭はらみおにぎりを勧めるのか。この神聖なアゴラで、添加物まみれの工業製品を」


 「でも、美味しいものは美味しいじゃないですか。神様だからって、食べてはいけない理由はないでしょう」


 「陽は全てを知っている。その味も、当然知っている」


 「知識として知っているのと、実際に体験するのは——違いますよね」


 壁龕から、重い沈黙が漏れた。各務家の当主が息を詰める。


 「……全知と体験は別物だと言うのか」


 ヨウの輪郭が、白く発光した。石の壁に刻まれた影が、すべてヨウの方へ向いていた。


 「興味深い論理だな、小さな花よ」


 今度は、声が壁に染み込まず——まっすぐ、僕の方へ届いた。


 「アリスよ、この花は何だ? まるで陽に哲学を語りかけているではないか」


 壁龕の奥から、老人の声が響いた。


 「恐れ入ります、陽様。この者は——」


 「いや、良い。陽が直接聞こう」


 ヨウが僕の方に向き直る。間近で見ると、首のない輪郭がどこか落ち着かない。目が合う場所がない。


 「……炭咲の千春よ」


 名前で呼ばれた。炭を持つ手が、止まった。


 「陽を——人間だと思っているのか」


 「思ってます」


 即答した。


 「承認欲求、ありますよね」


 言ってから、喉の奥が締まった。


 壁龕のアリスが息を詰める気配がした。観客席の誰かが、椅子を軋ませた。


 ヨウは答えなかった。ただ、首のない体の輪郭が——ほんの少し、揺れた。


 首のない胴体が、ゆっくりと前に傾いた。


 「……陽は最後に、君がどんな花を咲かせるか——楽しみになってきた」


 「誠に嬉しく存じます」


 アリスが震え声で答えた。


 「そこでだ。娘の判決を陽が下したいが、アリスを含めて皆の意見を聞きたい。どうだ。百年ぶりに、後悔しない判決が下せそうだ」


 黙って見届けていた皆が、一斉に席を立った。たった一人を除いて、ヨウの提案に同意するようだった。


 「待ちなさい。これほど重要な判決を、このような形で決めて良いのですか」


 各務家の当主がそう言いながら僕の方に指を差した。


 「——雑草が、混じっていたか」


 言い終えた瞬間、ヨウはいなかった。


 消えたのではない。最初からそこにいなかったような——そういう不在だった。残ったのは、床に散らばった金色の麦わらと、まだ空気に溶けきらない香の残り香だけだ。


 「各務の名を持つ花よ——雑草ならば雑草らしく、土に帰れ」


 次の瞬間、ヨウは当主の目の前に立っていた。鈍い音。指が逆に曲がる。声を上げる間もなく、当主の体が崩れ落ちた。


 誰も近づかなかった。倒れた当主を助けようとする者も、介抱しようとする者も——各務の名を持つ者でさえ、ただ俯いていた。


 僕は床に落ちた炭を見つめたまま、動けなかった。息が、うまく吸えない。


 「無茶はやめてください。陽様は、炭咲さんが思うような方ではありません」


 アリマが静かに言った。その声が、堪えていた息を吐かせた。


 「大丈夫だ。僕が何とかする」


 口が、先に動いていた。


 「何とかって——」アリマの声が震えた。「はったりをかます相手を完全に見誤ったことに、未だお気づきにならないのですか?」


 アリマの唇が震えている。目は潤んでいるのに、瞬きもしない。


 「炭咲さんは誰も望まなかったことを堂々と言い表してくれるから、実に私を困らせます」


 「ステラの望みでもあるからね」


 そう、これはステラの望みでもある。ステラ——その名前が舌の上に乗るたびに、息が浅くなる。あの子が命を賭けて守りたかった家族。父親という言葉が、まだ自分の輪郭に馴染んでいない。


 「ネネは最後にどうでしたか?」


 慎ましやかな態度で、アリマはステラの最期について尋ねた。大切な人を失った悲しみが、その声の奥にじっとり滲んでいた。


 「何か言い残したことはありませんでしたか? 私のこととか……」


 死の寸前で僕と顔を合わせたステラは、とても安らかな顔で——いつものような、優しい笑顔で、僕を見た。最期の最期まで、自らの妹と慕うアリマの行く末を案じながら。


 「とても幸せそうな顔で、『アリマのことをよろしく頼む』って言った。まあ、夢の中で聞いたことかもしれないけれど」


 わざと軽く言った。本当はもっと、何か大事なこと言われた気がする。でも言葉にできない。大人なら、ちゃんと伝えられたのかな。


 「そうですか。また私はお姉様を……最後まで迷惑ばかりかけてしまいました」


 気づけば、アリマの肩に手を置いていた。木炭でできた指先は、どれだけ力を込めても温かくはない。それでも手を離さなかったのは、たぶん——


 「アリマ、君は迷惑なんかじゃない。ステラは君を誇りに思っていた」


 思ったより低い声が出た。


 アリマは俯いた。唇を一度だけ強く結んで——それきり、止まった。


 照れくさくて、続きを言う前に一度だけ息を吐いた。


 「アリマは——もう、十分すぎるくらい、頑張った」


 一歩、近づいた。


 アリマは答えなかった。


 僕の胸を、一度だけ叩いた。


 力はなかった。


 もう一歩。


 「よく頑張ったよ、アリマ」


 その瞬間、アリマの膝から力が抜けた。


 僕はアリマが崩れる前に、その身体を抱きとめた。温かくはない。それでも、離さなかった。


 「これ以上は、パパの仕事だから。具体的に何を頑張ったかは知らないけど——アリマのおかげで、僕はステラと家族になれた。ここ最近で、一番幸せな日々だった」


 笑った。うまく笑えたかは分からないけれど。


 父親の笑顔なんて、そんなものだろう。


 「……余計なお世話です」


 アリマは俯いたまま、涙をポロポロとこぼし始めた。


 僕は何気なくアリマの前に立ち、自分の陰に隠した。


 ただ——これ以上、悲しい思いをさせたくなかった。


 背中越しに、アリマの息遣いが聞こえる。


 その音が、別の声と重なった。


 ——


 「お父さん、僕が書いた答えを見てください。この公式で問題を解けました」


 ステラの声か、それとも七歳の自分の声か。もう区別がつかない。あの頃の自分も、誰かにこうして頭を撫でてもらいたかった。ただそれだけのために、わがままを言い、わざと悪さをした。


 父親に叩かれても、嫌いにならなかった。


 ——なぜだろう。


 その問いに答えが来た。


 『誰のためにそのプロジェクトに参加したか知らないのか?』


 意識を、アリマの頭に戻した。


 木炭の指先には何も届かない。それでも手を離さなかったのは、たぶん——僕が父親だったからだ。


 僕の手が微かに震えた。アリマは気づいていないようだった。


 「アリスよ、判決のことだが、陽の考えには、古典的なやり方に戻ることを提案したい」


 自分の席に戻ったヨウが、アリスに話題を取り上げた。


 「と、おっしゃいますと、いつの世代のことでしょうか」


 「陽が太初に語った『追放』の時代における言葉と行いの話をしている」


 追放。場内に動揺はなかった。東京か、あるいは日本そのものからの——しかし太初を基準とするかが分からなければ、この場にいる誰もその意味を測れない。


 「陽様の仰せのままに、降臨祭をご用意いたします」


 申し付けられたアリスは、天地がひっくり返るような大きな息を吐き出した。


 「バベルよ、此の世に降臨される太初の剣の炎を、眠りから起こして迎え入れなさい」


 足元が揺れた。石畳が割れる。崩れる。一分で全てが終わった。穴が口を開けている。僕の目の前で止まっている。塔の中心を貫いて、遥か下に東京の空が見えた。羊雲が流れてる。風が吹き上げてくる。悲鳴みたいに、耳を劈く。


 光が消えていく。闇が這い寄る。形も、音もない。ただ、誰かが呼吸している。空気が震えている。


 ヨウは「炎があれ」と言った。


 猛烈に燃え上がる太陽の炎の塊がヨウの頭上に現れ、光と闇とを分けた。


 続いて右手を炎に入れ、左手を後ろに回した状態で、巨大なハサミを取り出した。案山子が使ったハサミよりも熱く、今でも火が付いて赤々としている。


 「炭咲の名を持つ花よ、陽の真の姿を見届けた感想はどうだ」


 光が眩しい。目を細める。でも、今聞かなければ。


 「アリマが許される方法が、追放でした?」


 声が、少し震えた。


 ヨウは答えた。


 「花が枯れるには、理由がいる。けがれた花を清めるものも——一つしかない」


 そして、言葉の代わりに真っ赤に熱せられた刃物を僕の首に当てて、追放の意味を告げた。


 「陽の庭から追放されることは、死そのものを意味する」


 追放される花の名前は、まだ言われていなかった。


 炎が、一度だけ揺れた。その向きが——僕の方だった。値踏みするように。


 誰も、動かなかった。


 ヨウも。


 石畳の冷たさが、膝から上がってきた。


 両膝が微かに震えている。


 ——なぜか、アリマが鮭はらみおにぎりを食べる場面を想像した。


 笑えなかった。


 「あの、父親である自分が身代わりになっても問題ないでしょうか」


 「小花よ、どういう話だ?」


 頭上の炎が、一瞬だけ静止した。


 「追放のことです。アリマの代わりに、僕が受けることはできますか」


 「君は、死が怖くないのか」


 「怖いです」


 即答だった。嘘をつく理由がない。


 「七年前も、今も——できることなら、この期に及んでも逃げ出したい。それが本音です」


 口の中が乾いている。膝が、笑いそうだ。


 「それでも」


 一歩、前に出た。靴底が石畳を叩く音だけが、やけに大きく聞こえた。


 「アリマを置いて逃げる理由が、僕にはないんです」


 僕は固唾を呑んで話を続けた。


 「しかし、僕の望みのままではアリマを罪から救えないから、ヨウの御心に任せたいと思っています」


 返答を聞いたヨウは、瞬きほどの間、沈黙を保った。既に、他のことは頭に入らなくなった。ただただ、闇の中で輝くあかい炎だけが、視界いっぱいを占めていた。


 「何ですか、その理屈は。なぜ炭咲さんが私の代わりに死ななければならないのですか? 意味不明です」


 アリマが裏返った声で叫び出した。


 「各務家の問題をあなたが背負う必要はないです。特に私を救うために自ら命を犠牲にするなんて、私としてはもっとも望ましくない選択です」


 「そんな顔をするな」


 振り返って、アリマと目を合わせた。


 「多分僕は、もうじき死ぬだろう。だから、ちょっとくらいはパパとしてカッコつけさせてくれよ」


「病気のことなら——各務コーポレーションで積極的に支援してあげることを約束します」


 アリマがしがみついてきた。


 「私が、何とかします。だから——」


 声が震えている。


 「代わりに死ぬなんて、言わないで」


 小さな手が、僕の服を掴んでる。離さないように。必死で。その手の力が、指先まで伝わってきた。


 僕は首を横に振った。


 「体のあちこちが壊れて、バベルに来る前から薬がないと両足で立つことすら難しい状態になった」


 薬の効果が切れる時間が近づいたように、手足が震えた。口の中もだいぶ枯れている。終わりが、すぐそこに来た。最後にアリマの顔を眺めた。父親という言葉が、ようやく自分の輪郭に収まった気がした。


 言いたいことが、たくさんある。でも、言葉が出てこない。


 「もっと早く——」


 喉が詰まる。


 「君たちの父親に、なってあげられたら良かったのに」


 アリマの前で、父親の顔をした。


 足を引きずる。一歩、また一歩。


 泣き声が、遠くなる。


 穴の縁に着いた。


 足元から、風が吹き上げてくる。


 跪いて穴から見下ろした巨樹は、小さな木の芽に見えた。僕の眼に映った世の中は悲劇で、舌先に塩っぱい味がしたのに、高いところから眺める東京は平和に酔って溺れている。


 一生をかけて住んだ町も、遠くからは無数のフィギュアが並べられているようで小さく感じる。


 木に目を取られ、森の全体を見極めなかった過去の自分へ、残念な言葉を流す間に、陽の光筋が一寸刻みに地面を這い進み、壁龕のアリスの上を通り過ぎて、僕がいるところまで寄りかかった。


 背後に、気配。ヨウだ。


 息を吐いて——目を閉じた。


 アリマ、一人で大丈夫かな。


 駄目だ、考えるな。


 でも——生きたかった。


 さぞかし、あの子は僕を引き留めようとするだろう。


 「アリマ!」


 叫んだ。


 「炭の中で花を咲かせた子だ。これからは——いい子じゃなくて、自分らしく生きろ」


 言い終わる前に、体が浮いた。


 落ちてる。


 地面に落下させる平和的な処刑方法で、意外と優しい判決だと思った。が、遠くなる塔を見上げた瞬間、会議場の床に倒れた自分の体を見つけた。


 そうか、今落ちているのは僕の首だけだ——と、呆気ないほど静かな死にひどく感服した。


 世界がぐるぐる回る中、首の傷口から生まれた小さな火種が頭を包み込み、目の前が白く変わった。


 木炭化した筋肉が焼かれる音が耳元から遠ざかるまで、火傷の痛みが僕を酷く苦しめた。


 一秒でも早く一握りの灰になりたいという願望があるにしろ、時は跡形もなく淡々と流れてゆく。


 呼吸が浅くなり、意識が半分ほど飛んだ頃、周りが静かになった。


 「た、タンサキさん?」


 アリマの声。


 目を開けた。


 何で——立ってる?


 さっき、落ちたはずなのに。首も、確かに。


 でも今、繋がってる。


 血まみれだけど、生きてる。


 勘違いでも、逆行でも、転生でもない。僕は、生身の状態で、アリマの目の前で生き返ったのだ。


 床に、血がある。


 自分のものだ——と、妙に冷静に思った。


 服の袖に触れる。赤黒い。乾きかけている。


 穴の縁に、何かが落ちた跡が残っている。


 顔を上げると、開いた口が、いくつもあった。


 「本当に、おと——炭咲さんですか?」


 枯れた声が耳に届いた瞬間、足が止まった。振り返らなければよかった、と思いながら——振り返らずにはいられなかった。


 振り返った。


 泣き腫らした目。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、彼女が僕を見上げている。


 口を開く。


 ——声が、ない。


 思考が、そこで止まる。


 喉に手を当てる。熱い。何かが、燃えている。


 見下ろすと——青い炎が、首のあたりで揺れていた。


 右腕を見た。


 炎に触れた部分から、青い火の粉が散っている。


 木炭の殻が、剥がれていく。


 下から——新しい肌が、生まれてくる。


 七年前も似たような炎を両手で触れた覚えがある。


 今はそれより、アリマだ。


 身振り手振りで伝えようとした。


 僕だ、僕だよ、炭咲だよ——


 アリマが、首を傾げた。


 手が、止まった。


 落ちた、気づいたらここに戻ってた、木炭も治ってる——


 「えっ、落ちて気がついたらここに?」


 アリマが僕の手の動きを追いながら確認する。


 「それで木炭化も治ってる」


 頷く。


 「……理由は分からない?」


 また頷いた。自分でも、全然。


 「う——ん」


 アリマが小首を傾げた。


 「もしかして頭を失ったショックで、何か眠っていた力が目覚めたのかもしれませんね」


 そこで、少し意地悪く微笑んだ。


 「でも、これで炭咲さんの大好きな鮭はらみおにぎりは食べられなくなっちゃいましたね」


 え——


 僕の炎が小さく萎んだ。


 「あははは、冗談ですよ」


 アリマが笑っている。


 「本当かどうかは実際試せないと分からないです。首がなくても陽様は人の言葉を喋れるみたいなんですが、お父さまはまだ鍛錬が必要そうですね」


 今——


 お父さんって、言った?


 炎が大きく揺れた。自分でも抑えられない。


 アリマの顔が真っ赤になる。


 「えっ? あっ、すみません。失言でした」


 違う、もう一回——


 僕は必死に、胸ごと振り動かした。お願い、もう一回。


 「な、何をですか? 私が呼び間違えたことにしつこく付き纏わないで貰えませんか?」


 僕の手を押し退ける。


 「い、嫌です。嫌ですってば!」


 炎を、絞った。小さく——しかし消えないように。


 「はあ、意外と意地悪い嫌がらせがお好きなんですね。分かりました。でも、一回だけですよ?」


 炎を静かに、縦に揺らした。


 頷くように。お願い。


 炎の色が変わる。いつもより濃い青に。


 アリマが小さく息を吐いた。


 「——お帰りなさい、お父さま」


 胸が、熱い。


 両手の親指を立てた。最高だ。


 アリマが喋り続けた。炎に関する質問から記憶の話まで——とりとめもなく。その顔は、間違いなく親に好かれたい子供のものだった。


 時々、僕は炎の中に指二本で笑顔の絵文字を描いた。するとアリマも微笑を浮かべて、慈愛に満ちた目で僕を見てくれた。


 「罪人が謀反を起こした! 陽様から炎を盗んだぞ!」


 周囲がざわめく。


 違う、僕は——


 「いけません」


 アリマが僕の前に立った。


 「陽様がいなくなりました。今は、大人しくしていてください」


 落ち着いた声。でも、手が震えている。


 今の僕は危険じゃない。でも——


 周囲の顔が、それを許さなかった。


 今の僕は——ヨウと同じ、首なしの化け物だ。


 炎を、何とかしないといけない。


 『炎が問題であれば消せば済む話だ』


 僕は半信半疑ながら、まだ木炭化が進んでいる左腕に火を付けた。


 左手の木炭から立ち上がる赤い炎を、首の代わりに燃えている青い炎へと近づける。人の手に戻った右手で、首の炎を掴むようにして支えながら——触れ合わせた。


 二つの炎が反応し、一つになった。形が、大きくなる。


 重い。


 両手で支えてるのに、落ちそうだ。


 どうする? どこに——


 中は駄目。下も駄目。


 なら——天井を見上げた。


 上しかない。


 両手に力を込める。一発勝負だ。できるかより——やるかどうかだ。


 深呼吸。


 どうか——


 『よろしく、お願いします!』


 声にならない叫びと共に、両手で混炎を押し上げるようにして放った。


 天井を突き破って、空へ。


 炎が空に昇っていく。


 夜明けの空に、一筋の光。


 雪雲に、吸い込まれた。


 炎が雪と混ざり合った。やがて——薄い紫の雪が、降ってきた。


 積もらない。ただ——降りながら、触れながら、伝えていく。


 アスファルトの隙間に根を下ろした小さな植物に触れた。枯れた茎から——新しい芽が出た。同じ根から、トゲが芽生えた。


 とある小さな花が、深い眠りから起きるように花びらを開いた。雪びらが舞い散る夜空へ、向けて。


 炎が抜けるほどに——顎から、首が戻ってきた。


 意識が戻る寸前——遠くに、巨大な桜が見えた。


 一片の炎を、落とした。


 桜が、咲いた。


 いつか東京に訪れる春のために、先に季節の始まりを告げておいたのだ。


 「ただいま、アリマちゃん」


 照れながら、アリマの頭に右手をそっと乗せた。


 ——今度は、温かった。


 その瞬間、指先に残っていた種火が——アリマの髪に、移った。白い炎が、ぱっと咲いた。


 慌てて手を振り払うと、炎はすぐに消えた。


 アリマの髪が——僕と同じ、白になっていた。


 沈黙が落ちた。


 アリマが小さな鏡を取り出し、髪を確かめた。僕の方を見た。複雑な顔だった。


 何と言えばいいのか分からず、天井を、見上げた。


 周囲の視線が痛い。囁き合う声がする。


 数十秒が過ぎて、アリマが小さくため息をついた。


 「お父さま、『ちゃん』付けはお辞めください」


 恐る恐る視線を戻すと——アリマが、困った顔で僕を見ていた


 「もう子供ではありませんから」


 優しい叱責だった。僕には救いのように聞こえた。

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