第十四話 この腕が燃え尽きても、君の父になりたい
鳥居のトンネルを抜けると、朝が来ていた。
もう二度と見られないと思っていた朝が。
雪雲の晴れた空に朝日が昇り、灰色の雪は溶けて消えた。街は何事もなかったように、綺麗だった。
香月が駅前の喫茶店でココアを奢ってくれた。
一晩中立ちっぱなしだった僕は、カフェの席に腰を下ろそうとした——が、ココアに口をつける前に香月が捕まえたタクシーに押し込まれ、そのまま家に送られることになった。
車窓から見える街は、あの夜のことなど知らない顔をしていた。
「お疲れさん。今日はゆっくり休んで。話はまた明日」
香月から今後の計画について聞かれて、秋入学を準備すると答えた。嘘ではない。木炭が使えなくなった以上、新しい能力を調べる時間が必要だった。
「お父さま」
アリマの声。
「帰り道、コンビニに寄っても宜しいでしょうか」
到頭、お父さまと呼ばれた。
アリマの頼みで家の近くでタクシーを降り、坂道のコンビニに入った。
「いらっしゃいませ——」
鮭はらみおにぎりが、コーナーに並んでいた。二つ選んでミニバスケットに入れ、サンドイッチも持った。
ふと顔を上げると、アリマがドリンクコーナーの前で飲み物を眺めていた。
「アリマ、食べたい物は?」
アリマの横顔を、見た。
「良かったら僕のおにぎり、一緒に食べよう」
「あ——すみません。ぼーっとしていました」
ほろ苦そうな表情で視線を受け止める。ひどく切ない笑みだった。
結局アリマは何も買わず、僕の後をついてきた。
「ここで朝飯を食べてから帰ろう」
店内のイートインスペースの隅に腰をかけた。買った物をテーブルに出して、先におにぎりをアリマに渡した。
アリマは少し躊躇ってから、受け取った。
やがて、食べ始めた。疲れた顔のまま、美味しそうに。
それだけで、良かった。
つられるように、サンドイッチのフィルムを剥がした。ハムとチーズ。ベーシックな味だった。
「お父さまがこれを好む理由——少し、わかりました」
顔を上げると、アリマが微妙な表情で頷いていた。
二個目のおにぎりに、手を伸ばした。
「あの、お父さま」
食事の手が、止まった。
僕はサンドイッチを置いて顔を向けた。
アリマは椅子の上で体をかがめ、僕に向かって頭を下げていた。
「こんな私のために——死にかけてまで命を救っていただき、ありがとうございます」
アリマの手が、おにぎりの包みを握っていた。
頭が、下がったままだった。
返す言葉が、なかった。
「本日をもって一意専心、お父さまに相応しい娘になるまで邁進いたします」
頭が、まだ上がらない。
思わず笑えた。
「アリマ、堅苦しいのは性格か? 僕はまだ父親になりたてだから、もう少し気軽に話してくれると助かるんだが」
「気軽に、ですか」
「そう。例えば——『お父さま』じゃなくて、『お父さん』とか『父ちゃん』とか
「私にお父さまは、お父さまです」
アリマが顔を上げた。目が、真剣だ。
頑固な娘だ。
でも、素直に自分の心を示すようになった。悪いことじゃない。
僕はしばらく頭を抱えて考えた。
「……父は、どうかな」
「却下します」
即答。
「そのような呼び方では、お父さまの威厳がなくなります」
流石に「様」つけで呼ばれると恥ずかしい、と正直に伝えた。
「前からステラにパパと呼ばれてるけど——アリマには、『父』の方が似合う気がして」
「厳格でない父親像……」
アリマは、少し首を傾けたまま固まった。
「理解できません。保護者としての権威性を放棄すると、指導効果が低下するのでは」
「指導効果って」
苦笑いが、出た。
「アリマは僕のことを上司か何かだと思ってるのか?」
「違います。お父さまは私の……」
アリマは言葉を探すように間を置いた。
「存在意義です」
目が、アリマに戻った。
一度、息を吐いた。
サンドイッチの残りを、テーブルに置いた。
「でも、威厳がなくても構わないということでしたら」
アリマは続けた。
「私にとって合理性は、理解できます。ただし——」
「ただし?」
「父が厳格でないなら、私が規律を維持する必要があります。父の生活習慣の改善、栄養バランスの管理、学習効率の向上。これらは私の責任です」
アリマが、静かに顎を引いた。
父親とは、難しい。
「アリマ」
僕は彼女の肩に——手を伸ばしかけて、止めた。
この子の肩が、少し硬かった。
「君はもう少し、普通の子供みたいに振る舞ってもいいんだぞ」
「普通の子供……例えば?」
「駄々をこねるとか、わがままを言うとか」
「駄々、わがまま」
アリマは黙って、その言葉を胸の中で転がした。
「それは非効率的な行動パターンです」
「効率だけが全てじゃないよ」
「では、何が重要なのですか?」
アリマの純粋すぎる疑問に、僕は言葉に詰まった。
「君の気持ちは嬉しいけど——アリマには、もっと自分らしい時間を過ごしてほしいんだ」
例えば、と続ける。
「夕焼けを見ながらアイスを食べるとか、雨音を聞きながら本を読むとか。そういう、何の意味もない贅沢」
言いながら——自分がそれをしたことがないと、気づいた。
「意味のない贅沢……」
アリマの目が、窓の外に向いた。
「私には理解できません。私の存在意義は、父のお役に立つことです。それ以外に私の価値は——」
「分かった。でも一つだけ条件がある」
アリマは黙って、僕を見ていた。
「僕が間違ったことを言ったら、遠慮なく反論してくれ。アリマの方が僕より多くを知ってるんだから」
「反論……」
彼女の眉がわずかに寄った。
「でも、父に逆らったら——私は不要になりませんか?」
「逆だよ」
僕は小指を立てて差し出した。
「君が僕に意見できるようになったら、それこそ本当の家族になれる」
アリマはそれを見つめ、古代の遺物を前にしたような顔をした。
「これは……契約書の代替手段ですか?」
「約束の儀式。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
彼女の小指は、陶器のように冷たかった。
繋いだ瞬間——黙っていた。二人とも。
冷たいままだった。それでも、離さなかった。
温かくなった——気がした。
アリマは指を離した後も、自分の小指をじっと見つめていた。
小指が、まだ覚えていた。
朝の光が、窓に差していた。
世界は何事もなかったように、動き続けている。
「父」
アリマが、突然口を開いた。
「昨日から何も食べていなくて——まだ、お腹が空いているんです」
言いにくそうに、でも言った。
僕は少し笑った。
財布を開く。千円札を取り出して、彼女の手に乗せた。
軽かった。紙一枚の重さしかないのに、アリマの目が——少しだけ、動いた。
「好きな物を選んでおいで」
アリマは千円札を両手で受け取り——宝物のように持って、レジへ歩いて行った。
その小さな背中が、レジの列に並んだ。僕は、その背中を、しばらく、眺めた。
「父」
アリマの声が、レジから聞こえてきた。
「ピザまんが——出来上がったようです。一緒に……」
声が止まる。
「あ、すみません。見間違いでした。これは——チーズカレーまん、です」
アリマの肩が、少し落ちた。
「えっと……ピザまんは、ないんですか?」
店員の返答が聞こえる。アリマの声が、さらに小さくなった。
アリマが振り返った。目が、丸くなっていた。
「そう、ですか。では——」
僕は席を立った。
「一緒に選ぼうか」
僕は苦笑いしながらアリマの元へ向かった。
「ピザまんがなくても——美味しいものはあるぞ」
アリマの頭に——そっと、手を置く。
手のひらに、温もりがあった。
昨夜のことを、思い出した。
レジの壁に貼られたガーデンズ学園のポスターが目に入った。一週間前と同じ紙が、何年も前のものに感じられた。
この腕は、もう燃えない。
木炭も、炎も、ない。
それでも——
鮭はらみおにぎりを食べる父でいい。
ピザまんを一緒に選ぶ父で——それで、いい。
コンビニの暖かい光が、僕たちを優しく照らしていた。
この腕が燃え尽きても、君の父でいる。
それが、今日からの『俺』だ。




