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第十二話 父になる覚悟(下)

 息が詰まって、跳ね起きた。


 直前まで何かを抱いていた気がした。腕の中が、空だった。


 白い息を吐きながら、辺りを見回す。ベッドサイドモニター、点滴が二本、小さな加湿器。静かな病室だった。


 各務家の庭ではない。見知らぬ病院だ。隣にもう一つベッドがあるが、空いている。部屋には僕一人だ。


 呼吸マスクを外して息を吸う。冷たい空気が喉を通る。体を動かそうとするたび、頭に鋭い痛みが走った。


 下半身が、そこにあるのに、ない。


 両手で膝を叩いた。感触はある。届いているのに、届いていない。しばらく叩き続けて、やめた。


 ステラを探さなければ。体を起こそうとしたが、下半身に力が入らない。車椅子に移るのも一苦労だった。


 「す……み……」


 声が出なかった。喉に手を当てた。形はある。でも、そこから何も出てこなかった。仕方なくナースコールを押した。


 少し待っていると、看護師が病室のドアを開けて僕と目が合った。


 何か書くものが欲しいとジェスチャーで示したが、慌てたように「先生をお呼びします」と言って立ち去った。


 ベッドの横に車椅子があった。ぎこちなくハンドリムを回す。前進、後進。何度か練習してから、廊下に出た。


 外はやけに静かだった。窓の向こうに、四月の夜空を雪が舞っている。


 季節外れの雪だ。


 僕は車椅子を操作して、同じ階の病室を一つずつ訪れ、小さな窓からステラの姿を探した。ステラの名前を呼ぼうとするたびに、声が出なかった。


 「その部屋は空室です。どなたかお探しですか?」


 ある医師が中性的な声で僕に呼びかけた。銀髪という珍しい容貌の持ち主だった。僕は軽く頭を下げた。声が出ない。ステラの身長を手で示す。


 「一緒に入院されたお子さんをお探しでしたか」


 医師は疲れた表情でそう言った。目の下に隈が見える。


 「案内いたします。少し歩きますので、車椅子は私が後ろから押させていただきますね」


 申し訳なく思い、もう一度頭を下げた。


 「お礼は結構です。これも仕事のうちですから」


 名札を見ると「銀」の一文字だけが書いてある。


 静かな廊下を通り抜け、エレベーターホールへ向かう。銀がボタンを押すと、やがて扉が開いた。中に人の気配はない。


 「一階ですね」


 銀は一階のボタンを押してから、慣れた手つきで車椅子にブレーキをかけた。エレベーターがゆっくりと降下を始める。密閉された空間に、かすかな機械音だけが響いていた。


 手が、膝の上で握られていた。気づかないうちに。一階に近づくほど、その力が強くなった。


 一階に到着するまで一分もかからなかった。


 エレベーターの扉が開いた瞬間、人々の泣き声が響いてきた。切なさに染まった声、怒りを孕んだ声。呼吸するたびに耳に飛び込んでくる。心臓が、肋骨を叩くように打った。


 「お子様は、一番奥の霊安室にいらっしゃいます」


 銀の声が、遠くなった。


 霊安室。その二文字が、耳の中で何度も反響した。意味は分かっている。分かっているのに、体が受け取らなかった。


 その時、奥の霊安室の扉が開き、白衣を着た小柄な女性が現れた。赤縁の眼鏡をかけ、後ろ髪を結んでいる。香月さんだった。


 目が合った。香月さんは、静かに目を伏せた。


 僕の手が、ハンドリムから離れた。僕は車椅子を動かし、廊下を進んだ。背後で何か言われたが、無視した。


 扉を開ける。重く鈍い音。霊安室に入り扉を閉めると、真ん中のベッドに薄い光が差し込んだ。


 線香の匂いが、肺の奥まで入り込んできた。


 知らない匂いのはずだった。それなのに、鼻の奥が痛くなった。


 心臓が激しく打つ。


 胸の奥から何かが込み上げてくる。声にならない。形にならない。喉が、外に向かって開いていた。


 息ができない。


 激しい吐き気が波のように押し寄せ、それを抑えようと必死に体を伏せた時、バランスを崩して車椅子から冷たい床に転落した。


 ステラじゃない。


 口が動いた。声は出なかった。それでも口が動き続けた。両腕で床を這った。


 爪が割れ、手のひらが擦り切れても構わない。這い、吐き、嗚咽を殺した。立てない脚が、僕を這いつくばらせる。


 上半身の力だけで体を起こし、白いシートで覆われた小さな影を見つめた。


 手が震えていた。シートまで、あと数センチ。その数センチが、どうしても縮まらなかった。


 「あああああああああああっ」


 獣のような叫びが喉から絞り出された。止めどなく涙が溢れ出し、僕は自分の胸を拳で叩き続けた。鈍い音が響く度に、心臓が潰れそうになる。


 ステラ。僕のステラ。


 体を反らして慟哭した。床を叩いた。皮膚が裂け、血が滲んでも、手が止まらなかった。


 ただ、叩き続けた。それ以外に、何もできなかった。


 やがて、手が止まった。


 震える腕を伸ばして、シートに触れた。


 「炭咲、炭咲。君のせいじゃない。だから、自分を責めないで」


 膝の上の手が、小さく震えた。


 涙が頬を伝って流れ落ちる。涙だけが、止まらなかった。


 構わず泣き叫ぶ僕を、後ろから誰かが抱きしめてくれた。背中に、温もりがあった。それが何なのか、確かめる余裕もなかった。しばらくの間、ただ泣いた。声が出なくなっても、泣いた。やがて、息だけが残った。


 あの夜と同じく、一人だけ生き残った。


 ——なぜ、いつも僕だけなんだ。


 「なぜ……なぜ僕だけ……」


 枯れ果てた声が、途切れ途切れに響く。


 「炭咲のせいじゃない。ステラちゃんもきっとそう思ってるよ」


 この声は、こひなだ。


 静寂が部屋を包んだ。


 「結局、ステラは死んで、各務家の使用人は意識不明のまま寝ている。首謀者である各務アリマはバベルに逮捕されて、各務家の戸籍からも除籍された」


 香月は淡々と事実を並べた。一つ一つが、鈍器のように当たった。


 「この場合、翌日の朝五時に予定されているアゴラで罪人を起訴することが多い」


 朝五時。その言葉が、頭の中に釘を打った。


 「ありえない。止めに行かなきゃ」


 「お前が行ってどうする」香月の声に、嘲笑が混じった。「各務家の娘は、残念ながらもうお終いだ」


 涙が引いていた。頭の中が、不思議なほど静かだった。


 「香月さん、今何時ですか?」僕は、頑張って言葉を発した。「僕に薬をください」


 声が枯れていて、誰も聞き取れなかった。


 何か書くものが必要だとジェスチャーで伝えると、こひなが自分のスマホを差し出した。


 「薬?」香月の眉間にしわが寄った。「君もいい加減にしろ。あるとしても、体はもう通常の薬では効かない。今は医師による専門的な診断と通院治療を受ける時期だ」


 僕はスマホを受け取ると、三本しか動かない指で文字を入力した。一文字打つたびに、指が引っかかった。それでも打った。


 『樹の一族プロジェクトで開発している新薬を僕に注入してください』


 「その話、誰から聞いた?」香月が頭に手を当てて、ため息をついた。「まだ臨床実験も行っていない。リスクが大きすぎる」


 具体的な話は知らなかった。ただ、もう一度立ち上がれるなら、何だって構わない。


 『あと、僕をバベルに通報してください』


 「炭咲くん、何を考えているの?」こひなが心配そうな表情で僕の顔を見つめた。「薬をもらって何をするつもりなの? まさか、その体で外を歩くつもりじゃないよね?」


 僕は、体を起こした。


 『アリマを助ける』


 その文字を読んだこひなの手が、僕の右頬を叩いた。血の味が、舌に広がった。


 『痛い』とスマホに打ち込んだ。


 部屋が、静かになった。


 「香月さんの言う通り、いい加減にしてよ」こひなの声に涙が混じった。「どれだけ人に心配をかけたら気が済むの? アリマさんはあたしたちに任せて、炭咲くんは自分の体のことだけ考えて」


 こひなが怒った。怒ったけれど泣いている。他人のために怒る顔を、久しぶりに見た。僕は左手で、こひなの涙を拭った。指先が、濡れた。


 『アリマと一緒に帰ってくる。帰ったら三人で映画でも見に行こう』


 こひながスマホを受け取る。画面を見つめたまま、何も言わない。肩が小刻みに震えている。


 「……バカ」


 掠れた声。でも、手は僕の手を握り返してくれた。その手の温度が、掌に残った。


 こひなの肩を借りて車椅子に座った。


 「春」


 香月が呼び止めた。振り返ると、彼は視線を逸らした。


 「……無茶はするな」


 それだけ言って、背を向けた。僕は一度、頷いた。


 ベッドに、ステラが横たわっている。


 僕はステラに別れの手を振った。ドアに手をかける。開けかけて、止まった。


 振り返る。もう一度だけ、ステラを見た。


 行ってくる。


 ドアを閉めた。金属の音が、廊下に響いた。


 廊下に出ると、こひなが目を拭いていた。僕たちは何も言わずに、エレベーターへ向かった。肘の内側に、じわりと熱が滲んだ。


 ステラは僕の娘で、アリマはステラの妹だ。


 アリマの味方は、僕しかいない。


 胸に手を当てて目を閉じた。


 こひなの手が、僕の肩に置かれた。目を開けると、彼女が真っ直ぐ僕を見ていた。


 「パパはいつパパになれるの?」


 ——今だよ、ステラ。


 ハンドリムを、握った。

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