28話 腐界⑤
不気味な溶解音が、閉鎖された鋼鉄の通路に絶え間なく響き渡っていた。
腐界の放つ圧倒的な瘴気。それに触れた順のタワーシールドは、表面から赤黒く泡立ち、泥のように溶け落ちていく。
シールドを構える順の両腕も例外ではなかった。グローブを貫通した毒素が皮膚を侵し、骨の髄まで届きそうな激痛が彼の精神を削り取っている。
「がはっ、あぁぁぁぁッ……!」
順の口から、血と胃液が混ざったような生々しい嘔吐物が撒き散らされた。
「順! もういい、離して!」
背後で怜が悲痛な叫びを上げるが、順は両足を踏ん張り、一歩も後ろへ退こうとはしなかった。
(俺が退いたら……怜さんが、みんなが殺される……!)
その強靭な意志だけで、崩壊寸前のシールドを押し留めている。
「……健気なことだ。だが、腐敗の前ではいかなる意志も無意味だよ」
白骨の顎をカタカタと鳴らしながら、腐界が嗤った。
錆びついた大鎌に、さらに濃密な瘴気がまとわりつく。 順のシールドが完全に砕け散るのは、もはや時間の問題だった。
「テメェの相手は、こっちだろうがッ!」
鋭い風切り音と共に、赤黒い筋繊維の鞭が暗闇を切り裂いた。
夜霧だ。彼女は『異形変異』によって変化させた右腕の鞭を、十メートル以上離れた安全圏から凄まじい速度で振り下ろした。
バシィィィンッ!
鞭の先端が、腐界のローブの肩口を強く打つ。
「……小賢しい真似を」
腐界が鬱陶しそうに大鎌を振るうと、夜霧の鞭の先端から再び腐敗が逆流しようとした。
「チッ、二度も同じ手は食わない!」
夜霧は腐敗が腕に到達する前に、自らの意志で筋繊維の先端をパージし、瞬時に新しい細胞を編み直して次の鞭を放った。
近づけば腐る。ならば、触れた瞬間に切り離せる距離から、絶え間なくヘイトを稼ぐ。
それが、物理打撃主体の夜霧が導き出した、対『腐界』のギリギリの戦術だった。
「私も、ただ守られているわけにはいかないわ……!」
怜もまた、鼻血を拭いながら黒いコンパウンドボウを引き絞った。
「『骸識・霊子短絡』!」
放たれた霊力の矢が、腐界の足元で脈打つ瘴気の回路に次々と突き刺さる。
矢が刺さるたびに、腐界の周囲の瘴気が一瞬だけ薄れ、順のシールドの溶解速度が僅かに遅くなった。
「……羽虫どもが。私を苛立たせるな」
腐界の白骨の眼窩の奥で、ドス黒い殺意の炎が揺らめいた。
夜霧と怜の決死の援護。そして、命を削って盾となる順。
その三人の必死の抵抗の裏で、紅莉奏斗は自身の右腕をじっと見つめていた。
腐界の瘴気をまともに浴びた右腕は、肘から先がドス黒く変色し、肉が崩れ落ちて骨が見え隠れしている。救の治癒能力がなければ、二度と使い物にならないほどの重傷。
このまま放置すれば、腐敗は全身へと回り、数分後には命を落とすだろう。
(……なら、止めるしかねえ)
奏斗は、己の内に極限まで圧縮した『内燃態』の熱を、その腐りかけた右腕の断面へと集中させた。
「ぐぅぅぅおおおおおおッ……!!」
凄まじい絶叫が、奏斗の喉から迸った。
腐敗の進行を止めるため、自らの超高熱の炎で、腐りかけた肉と血管を強引に『焼烙』したのだ。
ジュゥゥゥッという肉の焦げる音と、鼻をつく焦臭さが広がる。
右腕の激痛は気絶するほどだったが、その代償として、腐敗の浸食は完全にストップした。
「奏斗!? 何をしているの!」
怜が驚愕に目を見開く。
「……悪いな、待たせた」
奏斗はふらつく足取りで立ち上がった。使えるのは左腕だけ。だが、その全身から立ち昇る青白い炎のオーラは、先程よりもさらに純度を増し、鋭く研ぎ澄まされていた。
「順、シールド外せ」
「えっ……!?」
「いいから、外せ!」
奏斗の怒号に押され、順が限界を迎えていたシールドを横に弾き飛ばした。
その瞬間、大鎌を振り下ろそうとしていた腐界の懐に、青白い閃光となった奏斗が飛び込んだ。
「灰になれッ!!」
生き残った左腕にすべての熱エネルギーを乗せ、腐界の胸部へと渾身の拳を叩き込む。 防護服ごと自らの肉を焼き切る覚悟の零距離打撃。
ドゴォォォォンッ!!
青白い熱の爆発が、腐界のローブを大きく吹き飛ばした。数千度の熱が、腐敗の瘴気を強制的に蒸発させ、死神の白骨の肋骨をミシミシと軋ませる。
「……ほう。自らの肉を焼いてまで、毒の回りを止めたか。狂気の沙汰だね」
だが、奏斗の決死の一撃を受けてなお、腐界の足は一歩も後ろへ退いていなかった。
「なっ……!?」
「確かに熱い。だが……その程度の熱量では、私の『死界』は浄化しきれないよ」
腐界の胸部から、先程とは比較にならないほど濃密な、ヘドロのような瘴気が溢れ出した。
それは奏斗の青白い炎を泥のように飲み込み、左腕にまで容赦なく絡みついてきた。
「がはぁッ……!?」
奏斗の身体が、大鎌の柄で強烈に打ち据えられ、後方へ吹き飛ばされる。床に転がり、血を吐く奏斗。 満身創痍。もはや立ち上がる力すら残されていなかった。
「奏斗サン!」
「奏斗!」
順と怜が駆け寄ろうとするが、腐界が鎌を振るい、二人を分厚い瘴気の壁で分断した。
「さあ、終わりだ。君たちの足掻きも、これで見納めだよ」
腐界がゆっくりと歩み寄り、奏斗の頭上に巨大な大鎌を高く振り上げた。逃げ場はない。夜霧の鞭も届かない。死神の刃が、無慈悲に振り下ろされようとした。
(……ここまで、か……)
奏斗の霞む視界の中で、大鎌の錆びた刃がスローモーションのように迫ってくる。
だが、その絶体絶命の瞬間。
――バリバリバリィィィンッ!!!
空間を切り裂くような、鼓膜を破る轟音が海上プラントに響き渡った。
分厚い鋼鉄の床下から、巨大な雷光が一直線に差し込む。
「――!?」
腐界は警戒し、振り下ろそうとした大鎌を止める。
ドッッッカァァァァァァン!!!
強力な雷によって、鋼鉄の床の一部が弾け飛び、凄まじい電磁パルスが周囲の猛毒の瘴気を一瞬にして吹き飛ばす。
舞い上がる火花と煙。
それが晴れると、奏斗の眼の前には全身からバチバチと金色の電光を放つ男が立っていた。
「……ったく。世話の焼けるガキ共だ」
その背中には、六戦神・弐席の証である徽章が鈍く輝いている。
「響也さん……!!」
奏斗が、かすれた声でその名を呼んだ。
「よく耐えたな、お前ら」
響也は、肩の埃を払うように首を鳴らし、目の前の死神を鋭く睨みつけた。
「さあ、ここからは大人の時間だ。……その腐った骨ごと、花火みてぇに弾きとばしてやるよ」
絶望の淵に、雷轟が帰還した。 六戦神の圧倒的な力と、死に物狂いで耐え抜いた紅莉隊の反撃が、今、ついに始まろうとしていた。




