27話 腐界④
ジリ……、ジリ……。
第十三使徒『腐界』の歩みに合わせて、海上プラントの分厚い鋼鉄の床が赤黒く変色し、ボロボロと砂のように崩れ落ちていく。
空間を満たす緑色の瘴気はさらに濃度を増し、呼吸をするだけで肺の粘膜が焼け焦げるような激痛を伴っていた。
「ハァ……ッ、ガァァッ……!」
膝をついた奏斗は、右腕を強く押さえながら荒い息を吐いていた。
奏斗の炎をもってしても防ぎきれなかった腐界の瘴気。肘から先がドス黒く変色し、肉が溶け、ジュルジュルと嫌な音を立てている。痛覚が麻痺するほどの激痛が、奏斗の思考を強制的に泥沼へと引きずり込もうとしていた。
「おい! しっかりしろ!」
夜霧が奏斗の前に立ち塞がり、赤黒い筋繊維の鞭を警戒するように揺らした。だが、彼女とて迂闊に攻撃を仕掛けることはできない。
物理打撃主体の夜霧にとって、触れることすら許されないこの死神は、まさに天敵だった。
「……ククク。まずはその五月蝿い羽虫から、上質な腐葉土に変えてあげよう」
腐界の白骨の頭蓋がカタカタと鳴り、錆びついた巨大な大鎌がゆっくりと持ち上げられた。標的は、満身創痍の奏斗だ。
(このままじゃ……全滅する!)
後方で弓を構えていた霧島怜は、唇を噛み締めて戦況を睨みつけた。
六戦神である響也は分断され、最大の火力である奏斗は重傷。夜霧の打撃も、順の盾も、腐敗の前には無力。圧倒的な絶望。だが、怜の瞳から光は失われていなかった。
(どんな理不尽な能力だろうと、骸粒子を媒介としている以上、必ず能力を制御する『回路』があるはず……!)
怜は静かに目を閉じ、自身の能力『骸識』を限界まで研ぎ澄ませた。
視覚を捨て、空間に充満する骸粒子の流れそのものに意識をシンクロさせる。濃密すぎる瘴気のノイズが怜の精神に負荷をかけ、鼻血がツーと一筋流れ落ちたが、彼女は構わずに集中を続けた。
見えた。
無秩序に撒き散らされているように見えた緑色の瘴気だが、その中心――腐界の足元から心臓部にかけて、極めて太く、脈打つような黒い霊力の『根』が張り巡らされている。
この根が周囲の骸粒子を吸い上げ、強制的に『腐敗』の概念へと変換して出力しているのだ。
「そこよ……!」
怜は目を見開き、アリス特製の黒いコンパウンドボウを引き絞った。
大気中の骸粒子を強引に束ね、さらに怜自身の高密度の霊力を上乗せしていく。眩い光の矢が、ギリギリと音を立てて弦につがえられた。
「夜霧! 一瞬でいい、大鎌を振る瞬間に、あいつの正面の瘴気を散らして!」
「……チッ、人使いの荒い!」
怜の意図を察した夜霧が、床を蹴って跳躍した。
腐界が奏斗に向けて大鎌を振り下ろそうとしたその刹那、夜霧は筋繊維の鞭を最大級の速度で頭上で回転させ、凄まじい『風圧』を生み出した。
「吹き飛べッ!」
突風が緑色の瘴気を切り裂き、ほんのコンマ数秒だけ、腐界の正面にクリアな射線が生まれた。
「いっけぇぇぇぇッ!!」
怜の指先から、光の矢が放たれた。
矢は腐界の肉体を狙うのではない。彼が展開している腐敗の能力回路――その最も霊力が密集している足元の空間の中枢に向かって、寸分の狂いなく突き刺さった。
「『骸識・霊子短絡』ッ!!」
パキィィィィンッ!!
ガラスが砕け散るような高い音が、通路に鳴り響いた。
怜の霊力が矢をアンテナとして腐界の回路に逆流し、骸粒子の制御を強引にショートさせる。
途端に、腐界の周囲で荒れ狂っていた緑色の瘴気が、ふっと霧散するように薄れ、床を溶かしていた腐敗の進行が遅くなった。
「ん……?」
腐界の動きがピタリと止まり、白骨の顔が初めて驚愕に揺れた。自らの能力が、わずかとはいえ一時的に阻害されたのだ。
「や、やった……! 今なら瘴気が薄いッス! 奏斗さん、退いてください!」
順が歓喜の声を上げる。
だが、怜はその場に膝をつき、激しい息を吐いていた。使徒クラスの膨大な回路に干渉することは、彼女の霊力をゴリゴリと削り取っていた。
「……なるほど。ただの的かと思っていたが、私の『死界浸食』に直接干渉してくるとは」
腐界はゆっくりと顔を怜の方へと向けた。
白骨の奥底に宿る漆黒の瞳孔が、明確な『殺意』を持って怜を射抜く。
「生意気な真似をしてくれたね、お嬢さん。……予定を変更しよう。この死にぞこないではなく、まずは、あなたから腐らせてあげるよ」
腐界が地面を蹴った。
ローブが翻り、音を置き去りにするような速度で、死神が怜の目の前へと迫る。
「怜……ッ!」
奏斗が叫ぶが、右腕の激痛で立ち上がれない。夜霧も態勢を崩しており、間に合わない。
腐界の巨大な大鎌が、怜の華奢な身体を両断すべく、無慈悲に振り下ろされた。
ドゴォォォォンッ!!
そのとき、怜の目の前に、巨大な壁がそびえ立った。
シールドを両手で構えた順が、全身のバネを使って腐界の大鎌の斬撃を真正面から受け止める。
「順!」
「ぐぅぅおおおおおおッ!?」
攻撃を受けた順は数メートル後ずさる。
『応報の盾』の反射フィールドが最大出力で展開され、大鎌の物理的な破壊力を弾き返そうとバチバチと霊力の火花を散らしている。
「……ほう。この程度は防いでみせるか。だが」
腐界が嗤った。
大鎌の刃から、再び濃密な腐敗の瘴気が滲み出し、タワーシールドの表面を侵食し始める。
「私の刃は、触れたものを等しく塵に変える。……その盾ごと、土に還りたまえ」
ジュルルルルッ……!
嫌な音と共に、アリスが修復したばかりの強靭なシールドが、溶けた飴のようにボロボロと崩れ始めた。反射フィールドすらも腐敗させられ、順の防護グローブにも容赦なく酸のような猛毒が染み込んでいく。
「ぐっ……、あぁぁぁぁッ……!」
順の腕の皮膚が焼け爛れ、激痛に顔が歪む。口からは、瘴気を吸い込んだことによる血が混じった唾液が吐き出された。
「順! もういい、退いて! このままじゃあなたが死ぬわ!」
怜が悲痛な叫びを上げるが、順は絶対に後ろを振り向かなかった。
膝を震わせ、血を吐きながらも、シールドを押し込む腕の力は微塵も緩めない。
「逃げ、ねえッスよ……!」
順は、充血した目で腐界を睨みつけ、歯を食いしばって吠えた。
「俺は……紅莉隊の、盾だ! 俺が退いたら……誰がみんなを、守るんスかァッ!!」
盾が腐り落ちようとも。肉が溶けようとも。
一歩も退かない木堂順の決死の覚悟が、死神の凶刃を間一髪で食い止めていた。




