25話 腐界②
放棄海上プラント『海神』の内部は、まるで巨大な生物の胃袋の中に呑み込まれたかのような異様な空間だった。
本来なら銀灰色の輝きを放っていたであろう鋼鉄の通路は、どす黒い錆と赤黒い粘菌に覆い尽くされ、ブヨブヨと波打っている。
頭上を這う太いパイプラインからは、金属を溶かす緑色の強酸が「ジュゥ……」と音を立てて絶え間なく滴り落ち、足元の腐った床に無数の穴を穿っていた。
「……息をするだけで、肺が焼けるみたいね。防毒マスクのフィルターが、もう半分以上目詰まりを起こしているわ」
怜が咳き込みながら、タブレットの数値を険しい顔で睨んだ。
「骸粒子の濃度が異常よ。このプラントそのものが、第十三使徒の『腐敗』の力と完全に同化して、ひとつの巨大な虚獣になりかけている」
「チッ、こんな泥沼みたいな場所じゃ、まともに走れやしねえ」
夜霧がブーツの底にまとわりつく粘菌を蹴り剥がしながら悪態をつく。
奏斗は周囲を警戒しながら、自らの体表に『内燃態』のオーラをごく薄く纏わせ、近づく瘴気や酸の飛沫を蒸発させていた。だが、それでも空間全体を覆う毒素を完全に遮断することはできず、じわじわと体力が削られていくのを感じる。
「立ち止まるなよ。こんな場所に長居すれば、骨の髄まで腐らされるぞ」
先頭を歩く響也が、金色の雷光を微かに纏いながら振り返った。 その表情には普段の飄々とした笑みはなく、六戦神としての冷徹な警戒心が宿っている。
その時だった。
「――前ッス! 何か来ます!」
シールドを構えていた順が叫んだ。
通路の奥の暗闇から、ズチャ……ズチャ……と、水気を大量に含んだ肉の塊を引きずるような不気味な音が近づいてきた。
現れたのは、かつてこのプラントで働いていたであろう作業員たちの死体と、海に沈んでいた巨大な深海魚の残骸が無差別に融合したような、醜悪な『特異虚獣』の群れだった。
そのドロドロに溶けかけた肉体には無数の孔が空いており、そこから猛毒の黄色いガスと、金属を溶かす酸液を四方八方に撒き散らしている。
「ゲロォォォォォ……ッ!」
特異虚獣たちが、ドロドロの巨体をうねらせて一斉に襲い掛かってきた。 狭い通路。逃げ場はなく、猛毒のガスが津波のように押し寄せる。
「俺が焼く!」
奏斗が前に出ようとした、その刹那。
「――引っ込んでろ、ヒヨッコ共」
響也の低い声が響いたかと思うと、奏斗の視界から彼の姿が完全に消失した。
ドンッ!! という空気が弾け飛ぶような轟音。 直後、暗い通路が目も眩むような金色の閃光で埋め尽くされた。
「なっ……!?」
奏斗の動体視力をもってしても、全く見えない。
ただ、金色の稲妻が通路の中をピンボールのように不規則かつ超高速で跳ね回る軌跡だけが、網膜に焼き付いた。
響也の能力『迅雷』。 自身の神経網を超高電圧の生体回路へと変質させる「ゼロ秒思考」。そして、足元から放つ電磁パルスによる三次元的な超高速移動。
雷光が走るたびに、特異虚獣たちの巨躯が、まるで目に見えない大砲で撃ち抜かれたかのように次々と破裂し、四散していく。
「遅えんだよ、腐れ肉」
雷鳴が轟いた直後、特異虚獣の群れの背後に響也が音もなく着地した。
彼が右拳を振り抜く姿勢をとった瞬間、背後の十体以上の特異虚獣が一斉に内側から爆発し、黒焦げの肉片となって飛び散った。
電磁加速された打撃――擬似的なレールガンによる、文字通りの『瞬殺』。
「……す、すげえ……」
順が口をポカンと開けて震えた。
奏斗も夜霧も、言葉を失っていた。これが、霊対室の最高戦力。日本という国家の防衛を担う『六戦神』の、次元の違う圧倒的な暴力。
「ボヤボヤすんな。使徒本人が来る前に、とっとと最深部まで――」
響也が振り返りかけた、まさにその時だった。
グチャァッ……!!
響也の足元の鋼鉄の床が、突突として泥沼のように液状化し、大きく崩落した。
「なっ!?」
響也が咄嗟に電磁パルスで空中に跳躍しようとしたが、崩壊した床の下から、無数の赤黒い『肉の蔦』が蛇のように伸び、響也の足首に強固に絡みついた。
「響也さん!!」
奏斗が駆け寄ろうとするが、床の崩落は響也の足元だけでは終わらなかった。
ズズズズズッ……!!
奏斗たちのいる通路と、響也のいる通路の間。およそ二十メートルに及ぶ空間の床と壁、さらには天井の支柱までが、ドロドロの腐肉と化して一気に崩れ落ちたのだ。
プラントの上層から下層へと繋がる、巨大で暗い縦穴がぽっかりと口を開ける。
「チッ……! ただの虚獣の群れじゃねえ、こいつら自体が罠か!」
響也に絡みついて肉の蔦は、先程響也が粉砕した特異虚獣の残骸から伸びていた。奴らは自らが倒されることすら計算に入れ、その死骸の血肉を触媒として、プラントの床を急速に『腐敗』させたのだ。
さらに、下層の暗闇の奥底から、信じられないほどの骸粒子の重圧と、巨大な特異虚獣のうなり声が複数響いてくる。
響也を奈落の底へ引きずり込み、隔離するための狡猾な罠。
「この野郎ッ……!」
響也が足の蔦を雷撃で焼き切ろうとするが、蔦は腐敗の瘴気を放ちながら次々と再生し、響也の身体を重力と共に下層の闇へと引きずり込んでいく。
「お前ら! 俺に構わず先に進め!」
落下しながら、響也が上を向いて叫んだ。
「すぐにお前らのところへ戻る! それまで絶対に――!」
その響也の言葉は、途中で聞こえなくなる。
崩落した巨大な縦穴を塞ぐように、上部から錆びた鉄骨と腐肉の塊が雪崩れ落ち、響也の姿を完全に覆い隠してしまったのだ。
「響也さん!!」
奏斗が崩れかけた床の縁から身を乗り出して叫ぶが、返事はない。
分厚い瓦礫と腐肉の壁が、響也のいる下層と、奏斗たちのいる上層を完全に分断してしまった。
「嘘でしょ……響也さんが……」
怜が青ざめた顔で立ち尽くす。
六戦神である彼がやられるとは思えない。だが、合流には時間がかかる。その間、自分たちだけでこの腐敗の迷宮を生き延びなければならない。
その最悪の絶望を肯定するかのように。
「――ククク……。邪魔な羽虫が消えたね」
背後から、擦れた枯れ枝のような、ひどく不気味な声が響いた。 奏斗たちがハッとして振り返る。
通路の奥、充満する緑色の瘴気の中から、一つの影が音もなく浮かび上がってきた。
ボロボロに擦り切れた黒いローブを深々と羽織り、顔のあるべき場所には、白骨化した頭蓋骨だけが覗いている。その手には、錆び付いた巨大な大鎌が握られていた。
一歩歩くごとに、その足元にある鋼鉄の床が赤黒く変色し、ジュゥゥと音を立てて腐り落ちていく。 死神。その言葉がこれほど似合う存在はいない。
「ああ……君たち、とても新鮮で良い肉体をしている」
第十三使徒『腐界』。 白骨の顎がカタカタと鳴り、哄笑が迷宮にこだました。
「私の苗床の、極上の『腐葉土』になっておくれ……」
六戦神という絶対の盾を失った隔離空間。 万物を崩壊させる最悪の使徒を前に、新生・紅莉隊の真の総力戦が、絶望と共に幕を開けた。




