8-8 伝送装置
油圧通信の工事を担当する会社のエンジニアは、通信文化研究所の庭にやって来ていた。
そこには、相互連絡分会が研究している油圧通信を担当している研究員が待っていた。
「お久しぶりですね。 工事の進み具合はどうですか?」
「おかげさまで、順調に進行しています。
前回いただいたペンレコーダにより、途中の伝導波形が目で確認できますので、調子が悪いホースがすぐに特定でき、あれは非常に助かっています。
それで、先日は長い直線区間を用いホースを曲げないで連結し、連続10㎞の試験が済みました。
これで目標はクリアしましたので、今は追加の試験としてブースターを使わないホースだけで、25㎞の直線区間に敷設した最長距離となる試験に入っています。
というか、地上でホースを敷設して実験できる区間は、東京付近にある直線的な場所としては25㎞が最大距離のようです。
まあ、実際の敷設では先日の中継増幅装置である油圧ブースターにより複数区間で区切って接続を行います。
なので、当初目標である10㎞あればすでに実用域に達したと判断していますので、この追試はホースだけで何処まで通信距離が延ばせるかを確認する為の確認のような物ですね」
「うまくいっているようで私としても幸いです。
でも、25kmの直線敷設って、いったいどこの道路でそんな実験をやっているんですか?」
「いや、さすがに曲がりが少ない高速道路であっても、道路でそれだけ長い直線区間は、関東にはありません。
それにそんなに長い距離に油圧ケーブルを敷いてしまうと、誰も地上でそこを横切れなくなってしまいますからね」
「じゃあ、どうやったのですか?」
「いや、それはこの研究所、武蔵野にあるここのすぐ傍にあったんですよ。 なんと25kmの直線区間が」
「え? そんな場所って有ったかな?
この近くというと…… あ、ひょっとすると、そうか! 電車の線路だ!
確かに東中野の手前から立川を超えたあたりには長い直線部分の路線が有りますね。 あの区間が25kmになるのか。
電車の軌道のどこかに敷設できれば、確かにほぼ直線になりますし、この区間は高架なので、途中に人や自転車・リヤカーが通行する踏切が有りませんから、ここであれば通行も阻害しませんね。
折り返せば50kmか…… 油圧を研究している場所の近くに、あると最も嬉しい巨大な施設が残っていたなんて、偶然にしてもちょっと震えますね。
それだけ試験できれば実験としては十分ですね」
「そうですね。
直線ではうまくいきましたので、あとはさらに円形に近い大きな曲線で実験をした後、実際に高速道路に沿った油圧ホースの試験敷設に入る予定です。
高速道は、これほど長い直線区間は有りませんので、実際の敷設ではもっと短い区間で接続を繰り返す事になります」
「あの? それこそ、そんな大きな曲線など、どこで試されるのですか?
都心で実験が出来るのですか?」
「さすがにこちらは、長い距離を円状に走る軌道などは有りませんので、今度は環状になった一般の道路脇に架設の足場を組んでホースを継ないで実験する予定です。
こちらは、千葉県での実験になりますが、船橋には大正時代に作られた旧日本海軍の船舶に向けて電信を送信する為の無線基地の跡地があり、その円形の土地には全方位に通信できるように高いアンテナ塔が沢山立っていたようです。
これは偶然なのですが、油圧通信実験を行う場所が過去の無線通信基地の跡という、こちらもただならぬ縁を感じはするのですが……
今この土地の内側は公園などになっていますが、今でも敷地の外周道路を継なげば、円周が2.5kmあるほぼ完全な円が得られます。
形状が円であるところが大きなポイントで、何周かそこにホースを回せば、距離はいくらでも稼げますからね」
「おお、それは凄いですね。 ではぜひ頑張って試験をお願いします。
さて、今日お越しいただいた本題なのですが、また少しお見せしておきたいものができましたので、お呼びしました。
現場で実際に使用される方にご意見などをいただけますと幸いです」
「また、新しい通信機器が出来たのですね。
ちょっと楽しみですね」
「そろそろ実用通信が始まるので、早急に機材が必要ですからね。
こちらの装置では、これまでの装置と油圧の送り出し方が少し変わります。
これまでの物は、単純に油圧差で針が触れる、いわばアナログ信号ですね。
で、こちらは油圧差を『1』『0』のデジタル信号として送る装置です。
デジタル化は遠方へ、如何に正しいデータを確実に送る方法としての開発を行っています。
ちょっと動きが難しくなりますが、こちらでは1つの信号を一回送る毎に、一度圧力差の針を中間位置に戻し、左右ホースの油圧差をリセットします。
例えば、1としての信号を送る時は、中点から最初に左に動かし、次に右、そして中点に戻す。
0の信号を送る時は、反対に変化するように、中点から最初に右、そして左、最後に中点に戻します。
これは1つの信号を送るときに、例えば左から動かす事が1という信号になり、右から動かすことが0となり、常に最後は中間に戻ります」
「どうしてそんなに複雑な動きをさせるのですか?
それって、単に針の左が1,右が0でいいんじゃなのですか?」
「それをやってしまうと、連続して信号を送る場合、信号を送る間に十分に時間をあけてから次の信号を送る必要があります。
時間を空けると言っても、送り側と受け側で互いに正確な時間を得る方法がありませんから、短い間隔で多くのデータを送りたい場合、それではうまくありません。
常に最後は中間に戻す事で、データを送るタイミングをきちんと作り出し、送り出し側と受け側での時間の差に影響されず、データを正しく送ることが出来ます」
「だったら、中点から左が1,中点から右が0でいいんじゃないのですか?」
「それだと、例えばずっと0が続いていたとすると、常に右側のホースへの圧力が続いてしまいます。
例えば0など、同じ信号が連続して続く事は良くあります。
同じ側ばかりに圧力を掛けていると、油の経路に微妙な変化が出来てしまいます。 まあ癖みたいなものが付くと言った方がいいですかね。
なのでパイプに掛ける圧力は、どちらのホースにも平均すると均等になり、二本のホース圧力がニュートラルとして常に均等になるようにしているのです」
「ふーん、そんなものかな?」
「そして、前回は針を左右に揺らす事で、連続した線を先端のペンが描いていました。
今度の装置では、信号が1となった時に圧力でバルブが開き、針の先端からインクが直接噴出されるようになっています。
まあ、いわゆるインクジェットプリンタみたいなものですね。
ですが、以前のプリンタのようにヘッドを精密にコントロールして、正確なタイミングで水平に移動させることは現在の技術では難しいので、今度は円筒の外側にB4サイズのコピー用紙をぐるっと1周巻きつけた丸い筒を装置に取り付けます。
前回と違い、連続した長いロール紙を用いるのではなく、後の取り扱いを考えて1枚ごとに決まった大きさにカットした紙を使っています」
「世の中に大量に残っている、A4サイズのコピー用紙じゃないんだな?」
「ええ、A4サイズが一番入手性が良いのは解っているのですが、試作だと伝送速度が遅いので、狭い紙だと送れるデータが少なくなるため、とりあえずA4より一回り大きなB4の用紙を使っています。
そして、記録紙が付いた円筒がこの装置の2本のローラーの上に乗せられ、一定速度で回転するのですが、装置の底の細いノズルの先から、円筒の記録紙に向けてインクが噴水のように噴射されます。
円筒はグルグル回っていますので、インクが噴射されると、横向きの線が紙に描かれることになります。
また、その筒は回転するとともに、一定速度で前に送られますので、筒が一周すると次の行に線が描かれるようになります。
筒の回転と同じギアから送りは作られていますので、回転と送りは常に一定速度で動くことになります。
これらはゼンマイの力で動いており、このダイヤルで速度の微調整が出来ますが、マイコンのようなコントローラは無いので、定期的に人間による速度調整が必要です」
「これは、今試験に使っているペンレコーダに比べると、結構大きな装置なんだな。
と言っても、上に乗っかる筒が大きいだけで、下にある装置自体は小さいのかな。
まあ、あらかじめ予備の筒に紙を巻き付けておけば、紙の交換は装置の上に乗る筒を交換するだけなので、現場での取り扱いはそれほど難しくないな」
「ご理解いただき、ありがとうございます。
そして、送り出し側から、送信レバーを動かすと、それが信号として受信側の装置に記録されます。
このように『トントントン』とレバーを突くと、筒の紙に回転方向にモールス信号のように、送信したデータが記録されます。
以前のように針が左右に振れる記録ですと、長い紙に1本の線で記録されますが、これであればモールス信号のように信号が送られたところだけ黒く、きれいな記録が出来ます」
少しいろいろとモールス信号で送信した後、記録した筒を途中で取り出した。
筒から記録紙を外して見ると、紙の横方向にモールス信号の『ー・ー・ ーー・ー』と何本ものラインが並んで記録がされていた。
「どうやら、うまくいったようですね」
「ええ、ありがとうございます。
と、これは装置の原理説明のために行ったもので、実は本番はこれからなのです。
で、今度はこの装置を送り側に付けて、あと、受信側の円筒の記録紙送りのピッチを最小に変更します。
そして、これを動かすと……」
しばらく待って、円筒を取り外して記録紙を取り出すと、
「おお! 何ですかこれは!」
紙に日本語の文字が出ていた。
そこには、カタカナの大きな文字で『イ』と書かれていた。
油圧による画像送信実験は成功した。
記念すべき最初の文字はイロハニホヘトの最初の文字である、イであった。
「これってモールスだけでなく、文字が送れるのですか?」
そう聞かれたので、送信装置の上の筒を外し、周りに巻き付けられていたゴムシートが外された。
「ゴムシートを版画のように手で彫って、このように装置の中に入っているのです。
そして、同様に円筒に張り付られた原稿を、送信機の下から飛び出した検出針でなぞる事で、原稿が膨れている部分では『1』の信号を送るようになっており、それを受信した物がさっきの紙になります」
「あぁ、確かにゴムシートのように『イ』の文字の周りが削り取られているのですね。
これは逆に『イ』の部分を彫り込んだ方が楽なのではないのですか?
そして『0』の部分でインクを出せば同じ画像になりませんか?」
「そうですね。
簡単な絵を送るのであればそれでも行けると思います。
では続いてこちらをご覧ください」
さらに送り側の筒を取り換えて、もう一度送ってみる。
送信を行い、記録紙を取り出すと、
「おお! 今度は文章が! それも日本語が読めます!
『本日は晴天なり』
これならば、相手にちゃんとした手紙が送れますね!」
以前であれば、パソコンとプリンタで簡単に印刷でき、本当に何でもない事である。
しかし、電気が使えなくなったこの時代で、リモートでの通信はおろか、手元での活字の印刷も脅威な事として目に映る。
「これは、木片を手で彫って作った活字がこの送信側の筒に入っているのです。
この装置の検知方法は検知針による凹凸検知なので、印刷のように活字に対して強い圧力は必要ないので、材料は金属でなくとも、少し固い木であれば彫刻刀で削って使えます。
さっきの『イ』はゴム板だったのですが、こちらの文章では、必要な活字を何文字分か彫ってもらい、それらを組み合わせて文章を作っています。
そして、その活字を円筒に張り付けて、それを送信機の針でなぞり、針の振動がホースを通じて受信機に送られ、受信した信号がさっきの紙の模様になります。
さっきの話ですが、彫った窪みを検出して黒く出力する場合、活字のようにいくつもの版を組み合わせた時、活字には細かなつなぎ部分ができますので、文字と文字の間の空白部分に筋が出力されてしまいます。
それで、文字となる黒の部分の高さを検出するようにしたのです。
これは、電気を使わない機械式のファクシミリですね」
「なるほどですね。 既にそこまでの事が考察済みですか。
そうですね、確かにこれはファクシミリですね。
音声通信ができるより先に、ファクシミリが出来たのですね!」
実は、これは電気を用いた世界でも同じ事が起きていた。
単純に電流のON/OFFで信号を伝えるモールス通信が発明されると、電話よる音声通信より先にファクシミリが発明されていた。
この時のファクシミリは、金属板でアルファベットの文字を作り、絶縁体の上に文字板をのせ、電気が流れる文字板を電極で走査する事で、遠方の受信装置にスキャンした文字の形状を電気のON/OFFとして伝えた。
音声信号を送受信するアナログの電話の登場は、このファクシミリ発明の何十年も後の事になる。
「活字を曲面に張り付ける作業は大変ですし、また受信する記録紙も円筒へのセットは面倒なので、何とか量産機では水平にスキャンや出力が出来るようにしたいと考えています」
「そうですね。
そうなれば、もっと使いやすいFAXになりますね」
「僕ら研究所では一日も早く連絡網が出来る為の研究を行っています。
技術部の方も敷設についてはよろしくお願いします」
「わかりました。 とりあえず、高速道路に沿ってホースを継なぎ、前回のペンレコーダでそのレベルを確認する予定です」
アナログ的に針が動くペンレコーダは、信号の記録以外にも圧力の変化のレベルを目で確認でき、その記録を残すことが出来るアナログ測定器ともなるようである。
そして油圧ファクシミリが成功し、最初にその結果をマリエに伝えて喜ばそうと日比谷会議にやって来た研究員ではあるが、久しぶりの日比谷公園にマリエの姿を見つける事はできなかった。
その成功は、マリエが日比谷会議から去った後の事であった。




