7-3 通信文化研究所
日比谷公園のベンチでは、会議に参加していた航空機のエンジニアが大きなため息をついていた。
「やっぱり制御には、今の時代には紐を引っ張るほうがマッチしているんだな。
僕らがこれまで使ってきた電子制御の技術は、これからの時代にはもう役に立たないし。
これからはライト兄弟の世界の機械式の技術まで考えを戻さないとだめなのかな?」
悩むエンジニアの隣のベンチからは、相互連絡分会の連中とマリエとの明るい会話が聞こえてきた。
時々会議で見かけるマリエは、誰もはっきりとは言葉にしないが、会議に参加する若い男の子達にはちょっと気になる存在であった。
「その糸電話だったら、私も子供のころに作ったことはあるわよ」
「そう、その糸をどんどん伸ばしていって、遠いところと話しができないかと俺たちは会議で考えているんだけれど、やっぱりそれじゃ無理なんだよな」
「何かで音を伝える事が出来ればなあ。 別にそれは糸じゃなくっても、遠くまで振動が伝われば音になるんだけどな」
「だったら糸電話の糸よりもっと太い紐を使って、長く引っ張ればいいんじゃない?」
「マリエさんさ、糸や紐って、引っ張ると伸びるし、自分の重さで垂れ下がってしまうから、長い距離は無理なんだよ」
さっきから紐を引っ張り制御する話で悩んでいた航空機のエンジニアは、隣のベンチから聞こえてくる女の子との楽しそうな会話に、思わず割り込んでしまった。
「航空機だったら、離れた装置に力を伝える時には油圧を使うけどね」
隣のベンチからいきなり声を掛けられちょっと驚いたようであったが、相互連絡分会の人も研究者であったので、その言葉には真面目に答えを返した。
「油圧ですか?
でも、届ける距離が何キロにもなるのですよ。
油圧で長い距離を引っ張った場合、大気圧の変化や油圧ホースの素材膨張などに耐えられますかね?」
マリエ相手のお気楽な会話から、一転して話が急に難しくなってきた。
「先端に付けたアクチュエータを動かすのであれば、油の粘性にも負けないように、ホースにはかなりの力を掛ける必要がありますから、距離を延ばすと油圧を掛けるホースやチューブは膨張するでしょうね」
相互連絡分会の研究員は電気通信の専門家であった。
「そうだな。 通信に油圧を使う発想はなかったな。
しかし、油圧で力を伝えるのではなく、力を必要としない情報だけであれば、もっと長い距離であっても信号を伝達できないかな?」
すると、話に乗って来てくれたので航空機のエンジニアはすこし嬉しそうに、
「油圧であれば、工場や機械などで沢山使用されていましたので、現在でも高圧ホースなどは倉庫に残っていて簡単に入手できるはずですよ。
工場や倉庫に残っている素材の多くも、勝手に流出しないように保全されたと聞きますから、もし実験されるのであればそれらも入手可能だと思いますよ」
「あの、油圧って何ですか?」
「マリエさん、で良かったですか? お話に割り込んですみません。
飛行機や機械など電気が使えない場所で、専用のホースに入れた油に力を加える事で、遠くにまで力を伝えることが出来るんですよ。
例はあまり良くないけれど、空気入れの先に更にホースを継なぎ、そのホースの先端に風船を付け、手元から空気入れで空気を送ると、離れた場所の風船を膨らます事ができますよね。
ただ、空気に強い圧力を掛けると空気は縮んでしまうので、空気の替わりに圧力を掛けても圧縮されにくい液体を使うことで、力をそのまま伝える事が出来るのです。
さらに、そこにパスカルの原理と言うのが有って、小さな力であっても距離を動かし、反対側の出口を太くすると、距離は短くなりますが、その分大きな力を出すことが出来ます」
「さっきの糸電話の音を液体に伝えれば、液体の中を伝わって長い距離でも声が届くのじゃないの?」 とマリエ。
「油を使って音の振動を伝えるのはちょっと無理じゃないかな。
ホースが長くなると、油の粘りによる減衰や、ホースが変形したり気圧や温度の影響を受けそうだから、距離を延ばすとうまく伝わらなくなっちゃうじゃないのかな?」
「だったら沢山の油を使えるように、ホースを何本も重ねてはだめなのですか?」
「ふふ、何本重ねても全部のホースが同じ影響を受けてしまうから結果は同じですよ」
その会話を聞いていた相互連絡分会のもう一人の研究者は、まだ何かを考えながら、独り言のようにつぶやき出した。
「あ、僕が担当している電気通信の世界では差動通信って言う技術が有って、それは2本の電線を使って、送り出す電線の電圧差を信号として通信します。
並行した2本の電線は外部から同じノイズを受けるから、電線が受けるノイズは両方の信号からノイズを打ち消し合う事ができます。
また、2本の電線の僅かな電圧差により高速の通信ができます。
油のホースでも、同じようなことが出来ないでしょうか?」
「相変わらず、おまえはまた変な事を考えているようだな。
それは、2本のホースを使う事で、油でも長距離伝送できないか? ということで合っているかな。
電気を機械に置き換えて、いやこれは技術の融合かな? でも、そんな事出来るような出来ないような……」
航空機エンジニアはもう一人の研究者の言葉を補足するように、
「だったらですね、ホースの送り出し部分に2本のホース間の圧力を変化させる機構を付けて、受け側では油圧力を使うのでは無くて、単に油の圧力差を示す指針みたいな装置を付ける。
そして送り出し側のレバーを動かすと、2本のホース間に圧力差が生まれ、受け側の針が動く。
原理が簡単であれば、実験材料も簡単な物で済みそうですので、すぐ揃うのじゃないですか?」
「君さ! 今の話を纏めたいから、もし手が空いていたらちょっと相互連絡分会に来て、ちょっと知恵を貸してくれないかな?
あ、そういえばマリエさんは次の会議の時間だと言ってたっけ!
ごめん、ごめん、つい引き留めちゃって。 今日はヒントをありがとう!」
「うん、じゃ私は行くね。 みんな、がんばってね!」
技術者たちが賢者タイムとなり、ちょっと忘れられてしまっていたマリエであったが、手を振りながら去っていくマリエの後姿を、少し残念そうに見つめるエンジニア達であった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
東京の武蔵野にある総務省所管の国立研究開発法人 通信文化研究所でも、日本政府の通信に関する研究が行われてきた。
大失電で電気や通信が失われたことで、ここはすぐに解散するものと思われていたが、日比谷会議の要請を受けて、電気を使わない新たな通信方式の開発が行われていた。
遠方との連絡方法はいまだに人が自転車で走る銀輪隊しかないために、日本国内の状況をすばやく知る為には、何としても長距離通信を早く復活させる必要があった。
電気が使えないと、情報通信というものは格段に難しくなるなかで、研究所ではこれまでも通信を復活させるために様々な実験が行われていた。
そこに求められている条件は、昼夜や天候に左右されずに、手に入る資材や機材を用い、日本全国と相互に通信できる手段だ。
これまで成功した通信としては、自衛隊の手旗信号くらいしかなかったが、これはすでに破綻していた。
この研究所では、鳩レースに使う伝書鳩による通信も真剣に検討された。
しかし、伝書鳩という物は、離れた場所にまで鳩を運び、そこで鳩の足に小さなメッセージを付け空に飛ばすと、鳩が持つ帰巣本能により自分の巣に戻ってくるものであり、どこか場所を指定して飛ばすものではない。
鳩は基本的に自分の巣に帰る事しかできないため、自由な場所との通信に利用できるものではなかった。
ここに、1週間ほど前、日比谷公園の相互連絡分会に出席していた研究員がいた。
公園ベンチでのマリエの思い付きは、この研究所に戻った研究員により、実際の確認作業として行われていた。
そして、通信文化研究所の広い庭には何個もの大きなドラムに巻かれた高圧油圧ホースが、大きなリヤカーで運び込まれていた。
この場所は電気通信の研究所であったので、このような研究資材が運び込まれたのは初めての事であった。
油圧ホースの敷設工事が実施されることになった場合、その作業を担当する事になる協力会社のエンジニアが、この実験にも呼ばれていた。
そして、今日のこの研究所の実験も、彼らが油圧ホースに関しては担当するようだ。
まずは、巻かれたホースを研究所の敷地で真っ直ぐに延ばし、ホースの先にはメガホンを付け、その反対側のホースに耳に押し当て、長い空洞を音がはたして伝わるかの確認実験が行われた。
取り付けられたメガホンに向かって、反対側から大きな声で叫んでもらう。
ホースから聞こえてくる音を注意深く聞き続けるが、どうにも空気の雑音ばかりが聞こえ、声は聞こえない。
100mほど先で叫んでいる声は、ホースから耳を離した方がノイズが減り、まだ聞きやすいのではないという気がした。
電気による増幅器を使わない場合、細いホースでは音声の伝達が難しい事が確認されたので、当初の目的通り油圧ホースに、油を注入してみることになった。
電動ポンプが使用できないので、延ばしたホースの中に手動の注油ポンプを使って、作動油を流し込む。
研究員はこれまでは電気や電波しか相手にしてこなかったので、慣れない機械を扱う作業で油まみれになりながらも、その作業を手伝っていた。
油が入れられたホースの片側には、油に振動を伝える為、振動板を接続したメガホンが取り付けられ、ホースの反対側には、その振動を取り出せるように聴診器が付けられた。
この聴診器は医療用ではなく、振動板の先端に検知棒が付けられ、検知棒をエンジンなどに接触させ、発生する振動を音として耳で確認する際に用いる工業用の物だ。
そして、空気に換えて油により音が伝わるかの実験が行われた。
これも結論を言ってしまうと、全くもってダメダメであった。
やはり、油を媒介しても音を伝達する事はうまくいきそうになかった。
ただ、今回は音を伝えるのが目的ではなく、油で信号を伝える事を目的としているので、音が伝わらないのは問題ではない。
そして、今日は研究員が考えた装置が本当に動くを確認する為に、実際に油圧ホースに継ないでの実験である。
工事会社のエンジニアは後輩と思われるエンジニアに指示を出しながら、てきぱきと実験準備を進めてゆく。
「その注油の前に、その足踏みポンプでホースから空気を抜いてくれ。
ホースの油の中に空気が入ってしまうと、そこで力が伝わらないからな」
ホースから空気が抜かれると、今度は油圧ホースの反対側から同様に足踏み式の注油ポンプを使い、粘性が極めて低いオイルを慎重に注油していく。
粘度が低い油を選び、これで油圧信号が上手く伝わるかを試す予定である。
減圧されているホースの中には、勢いよく油が流れ込んでいった。
「そのホースを10本継なぐんだ。 実験は1㎞から始めよう」
油圧ホースはカップリングにより連結や他の機器に接続することが出来る。
「先輩、このホースは100m巻きですから、短い距離を試さないのですか?」
「今日は、1㎞での実験予定だ。
油圧に関しては10㎞以上の伝達が出来るかを目指している実験であり、その判断なので1㎞がダメだったら失敗として、この実験は終わりだよ。
それに俺たちは、他にもさまざまな事を試す必要があるから、小さなレベルから順に試すだけの時間はないからな」
「判りました。 確かに日本全国に届く通信網を構築するには1セットの通信距離が短いと、確かに通信として用いるのは無理ですね」
1㎞のホースは、研究所の敷地内では直線では置けないため、何回か折り返えされた。
そして、音声の実験ではないため、出入り口を離す必要は無かったので、送り側のホースの隣に、反対側である受け側のホースの先端が設置された。
1本のホースの準備が終わった時点で、研究員はエンジニアにお願いした。
「僕のアイデアはホースを2本使いますけど、最初はホース1本で長距離の伝達が出来るか試させてください」
「では、ホースの先端に油圧シリンダを取り付けますね」
油圧シリンダとは、簡単に言ってしまうと注射器みたいなものだ。
注射をするときは、注射器のプランジャーを親指で押し込み、シリンジの中に入った薬液を先端に付けた針から体内に送り出す。
2本の注射器を用意し、針を付ける口どうしをホースでつなぎ、空気を入れた片側の注射器のプランジャーを押して圧力を掛けると、もう一方の空気が入っていない注射器のプランジャーは押し出される動きをする。
また、注射器を吸い出すと負圧となり、押し出されているプランジャーは吸い込まれて元の位置に戻る。
この注射器のプランジャーの直線的な動きを、油圧を使って行う装置が油圧シリンダだ。
油圧ポンプを使い油圧ホースに油圧を掛けると、受け側につけたシリンダ内のピストンが油圧で押され、注射器のプランジャーにあたるロッドが飛び出してくる。
また、バネを使い圧力が失われるとバネの力で元の位置に戻るシリンダもある。
油圧で動かす装置には、この水平に動くロッド以外にも、回転や往復運動などを行ういくつも種類があり、これらはアクチュエータと呼ばれている。
「では、俺がこちらでポンプのレバーを動かしてみますから、そちら側のシリンダのロッドの動きの確認をお願いします」
そう言って先輩エンジニアが油圧ポンプを操作すると、研究員側の油圧シリンダに反応が現れた。
「おお! ロッドが動きますね」
「そうですね。
接続は大丈夫なようです」
まあ、ここまではホースの距離が長いだけで、普通の油圧の動作であり、これが動いてくれないようであれば、実験装置のどこかに不具合があったと考えられる。
こうして、先日の話の結果をマリエに語りたいエンジニアの発案により、壮大な計画の記念すべき第一歩になるであろう小さな装置の実験がここに開始された。
この辺の技術は、電気を使わないで何とか長距離通信を行えるように、かなり思案して無理やりひねくりだした技術なので、現実にはあり得ないでっちあげ技術です。
特に油圧関連はツッコミどころ満載ですね。 まあ、笑って許して。




