3-3 日比谷公園
東京にある日比谷公園には、大きなテントが幾張りも建てられており、その下では多くの人たちがテーブルを囲んで話し合いをしていた。
テントと言っても、それはキャンプの様な寝泊まりする居室用ではなく、運動会やイベントなどの時に使う、屋根となる天幕の四隅に長い足がある、イベントの日よけや雨除け用のテントだ。
たまたま、停電前に日比谷公園でイベントが催されており、最初はそこに残されていたテントがそのまま流用されていた。
テントの下で話し合っている人たちは、誰かが特に招集したわけではなく、たまたま近くの霞が関や大手町など近くからやって来た人達による討論の場となっていた。
そこでは、どこかの省庁の人間であったり、企業の本社の人間であったり、勇退された散歩中の大学教授であったり、様々な人が、自分の好きなジャンルの話し合いの場に参加していた。
そこでは誰かに強制されたり、制限されたりすること無く、話がいやであれば、そこを立ち去ればよい。 そんな自由な討論の場であった。
いくつもあるテントごとに討論されている内容は異なり、様々な専門知識ごとに討論されていた。
しかし、このテント村で話されるテーマは暗黙のうちに決まっており、この停電による災害をどうすれば乗り越えられるのか、さまざまな側面から話し合うのであった。
この討論会は、小雨が降りだした時に、たまたま公園に来ていてテント下に逃げ込んだ知らない人同士の会話から討論が始まった。
その後、公園内にはいくつかの省庁から防災時の指令所として使用する仮設のテントまでもが運び込まれ、いつの間にか公園の中はテントだらけとなっていた。
国会が閉会中であり、ほとんどの大臣や与党の国会議員は地元に帰ったままとなっており、内閣は機能していなかった。
そのため、国のインテリジェンスも停止しており、本来出すべき緊急事態宣言の発令もまだ行われていなかった。
各省庁のトップである大臣が不在となってしまったため、決裁権者を失った各省庁は大混乱していた。
また交通機関や通信がすべて止まってしまったため、職員の多くは登庁できておらず、この新たな混乱に対して行政は満足に機能していなかった。
政府の復活を待っている時間の余裕など無く、その政府や行政が復旧するまでの間、臨時的にこの大停電に対処する方法を話し合う場として、各省庁もこの会議を検討の場として利用していた。
中央官庁としても、共同による問題解決の場を設けようと考えたが、利権などが各省庁間で微妙に働き、省庁間を1つにまとめる事が難しかった。
大臣や遠方との連絡が取れない中、自分たちだけで勝手に動いてしまって、それが後から問題になる事を恐れて、何も実行に移すことが出来ないまま数日を費やしてしまった。
そこに現れたのが、この日比谷公園での討論の場であった。
オープンな場所での会議であるために、各省庁間が同時に話し合うことが出来、それぞれの省庁からのメッセージを省外に伝えることが出来る。
この会議は、後から自分の部署に責任が被らない、役人にとってはとても都合の良い場であった。
そして会議の自己防衛ルールとして、この会議では立法や議決を行う国会のような内容には触れず、あくまで復興についてのみを話し合うとされた。
テントが増える事で、そこで何について話がされているか判るように、分会や分科会の名称が付けられる事になっていった。
討論内容も、会議の流れで変更されるので、その名付けはかなり適当であって、またその分会の議題の重要度が高まると、それは別に独立した分会へと分かれていった。
そしてこの討論会議は、いつしか人々の間でその公園があった場所から『日比谷会議』と呼ばれるようになっていった。
何しろ、この停電について話し合わなければならないことはいくらでもある。
今政府や省庁の動きがみられないので、誰かがそれを考える必要がある。
強固だと思われていた世界の文明が、電気が失われたらしいと言う事だけで、いとも簡単に根底から崩れてしまった。
人類がこれまでの長い年月をかけて積み上げてきた歴史から考えると、誰もが意識しないうちに電気というものは、僅か100年という短い期間に、人類は後戻りできないレベルまで支配されてしまっていたのだ。
ここまで社会に浸透してしまうと、それを利用したシステムの再生は不可能で、出来上がってしまった文明を一旦初期化するしかなく、そのリセット方法についの話し合いも行われていた。
一番大きいテントでは、食料対策分会という札が掲げられており、その中のテーブルごとで さらにグループが分かれて、そこではいくつかの議題が話し合われ、みな食料に関して話し合っていた。
その1つグループでは、現在各地にある倉庫に残されている食料について、長期保存や回収・分配などの方法について話し合われていた。
また、別のグループでは、農業生産について、今すぐに食用にまわすことが出来る野菜や、長期的生産の植物など、さまざまな観点で話し合いが行われているようだ。
農業や畜産業は生育を待つ時間が必要であるため、足りなくなったからと言って急に対応することは出来ない。
自動車と同じく、農業機械も動かなくなっており、農業機械が使用できない状態での農作業、特に収穫は人力に頼る必要になりそうだ。
また、化学肥料等が入手困難な状態で、新たなる植物育成方法など課題が山積みであった。
農作物は現在の収穫後に、可能な限り短い期間で次の収穫が望める野菜への転換も検討されていた。
すでに7月が近くなってきたため、もう夏となるこの時期からでも栽培が開始できて、それもなるべく短期間で次の収穫が可能な植物に切り替えるため、連作が可能な種や苗を全国に配布する必要がある。
今のところ種や苗を各地に配送する手段すら失われている。
さらに、収穫された農作物については、人口が密集した消費地にまで、大量の収穫物を、それもなるべく早く、いかに輸送するかの問題も話し合われていた。
従来のように大量輸送ができる事が前提に、品種で生産地を固定されてしまうと、近くの範囲には特定の野菜ばかりとなってしまう。
地域の気候特性もあるが、その地域はレタスばかりとか、大根ばかりとか、果物ばかりになってしまうのはまずい。
それを解消するためには、生産する農作物の種類を各地に分散することが必要で、それぞれの野菜の運送距離を短くする必要がある。
また、食糧が国外から輸入できなくなった為、現在の耕作面積だけでは人間が生きていく為に必要とするカロリー量が不足する。
そのため、身近な場所に農作物を作付けできる土地を大きく増やす事も話し合われていた。
また、人間が生きると言う事について、食料以外については生活分会で行われていた。
電気が止まったことで悪化する公衆衛生、給水、その他数え上げたらきりがないほど検討事項はある。
行える事からでもすぐに対応していかないと、時間と共に状況は更に悪化するのは目に見えている。
それらを誰が、どこに、どのような指示ができるかが問題である。
この会議は、省庁に属する人間も多く参加しているが、日比谷会議は組織でなく、ましてや政府機関でもないため、どこまで会議が行政に踏み込めるのか、その立ち位置も迷いをもたらす物であった。
生活分会では、住宅、公衆衛生、水道、明かりと冷暖房などの社会インフラ。
社会の情報として、標準時刻、気象予測などの方法。
また教育や薬、医療・治療なども必要だ。
食料以外に生活で必要な工業製品、それには衣服、日用品、寝具などがある。
郵便、治安、消防、レスキュー、刑務所、さらには埋葬などがこの分会で話し合われていた。
都心周辺でも火災などにより多くの死者が発生しているが、既に数日経過しているので、どにように荼毘に付すかの検討も必要である。
その隣のテントでは相互連絡分会という、なんかちょっと変な名前の分会が出来ていた。
もともとここは、相互通信分会という名前で始まったらしいのだが、電気を使わない状態では、どうやっても通信というレベルまで話が届かなかった。
そこで、まずはそれぞれの周辺地域との連絡方法を確立するところから始めようという事になり、会議名から『通信』と言う名称は『連絡』に格下げされたらしい。
ただ、そうはいっても日本全国に対して早急に連絡を行う必要がある。
それが出来ないと、ここ日比谷会議で話し合われた内容を全国に伝えることが出来ない。
その為この分会では、電気を使わない技術の壁に対して多くの人がうなっていた。
新エネルギー分会は、電気の復活の可能性と、失われた電気の次なるエネルギーを検討する分会だ。
一応、電気の復活についてもここで話し合われていた。
それと残されている石油燃料をどのように扱うかも議論されている。
電気が失われた状態で、新たに石油の採掘や製油は難しいため、現在残されている精製された石油を、どのように確保し、運用するかが重要となっている。
タンクローリーなどが使えないため、必要な場所にまでどのような方法で運ぶことができるかが話し合われている。
さらに石油の利用はエネルギー用途だけではなく、さまざまな製品の原材料ともなっているので、そちらの分会との調整も必要だ。
新エネルギー分会では、現在の状態すら確認が出来ていない原子力発電所についても話し合われている。
原発で電源喪失したことで、核燃料によるメルトダウンを起こしている可能性が高く、その場合周辺住民に避難指示を至急出す必要があるが、その確認の方法すらまだ確立されていない。
そして、従来の発電所に代わる、新しいエネルギーを使った動力源の検討が急がれている。
当然、新エネルギー政策で新たなるエネルギー源や動力、新エンジンについて話し合われていた。
動かなくなってしまった機械や交通に代わる、新たなエネルギーを使った装置の開発を必要としていた。
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文京区にある遠藤建築都市計画事務所は、専門家として日比谷会議から意見を求められ、その場所までは歩いて1時間かかるが、歩けない距離でもないので、所長である遠藤はその会議に出席する事になった。
基本的に自由参加である日比谷会議ではあるが、時として専門家の参考意見は重要と考えられていた。
この時点で、今回の停電は大きな災害であり、都市機能が完全に停止するだろうと予想している学者が何人かいた。
その考えの中では、今ある都市機能をそのまま復興する事は難しいのではと考えていたので、都市計画を専門とする遠藤所長の意見も聞きたくてここに呼ばれたのであった。
今わかっているだけでも、大停電により電化製品がすべて動かず、動力も動かず、すべての乗り物も動かず、情報・通信網も寸断されている。
すでに3日目となっているが、未だその原因すらわかっておらず、いつ停電が復旧するか分かっていない。
遠藤所長が招集された日比谷会議 復興分会では、このまま都心の復興が出来ない場合、都市自体を再構築するための話し合いがなされていた。
これまでの文明のベースとなっている電気が失われたことが前提で、電気が無い条件で作られる都市計画である。
日比谷会議で話し合われている内容はいずれも重要な内容であるが、この場は日本の復興後の青写真を作る為の重要な会議である。
しかし、大型重機はおろか、電気が使えない事で、油圧や空圧のコンプレッサーも使えずに、工事現場で必要なパワーツールが使えないため、小さなビルですら解体することは厳しい事が予想された。
重機がふんだんに利用できた時代であれば、スクラップアンドビルドで鉄筋コンクリートで構成された街であっても、再生はたやすい事であった。
スクラップアンドビルドの手法が使えない以上、すでに出来上がっている都市には手を付けずに、新たな土地に新しい街を構築しようと言う現実的な考えも一つとして出ていた。
都市の再構築が難しい場合、東京は朽ち果てるしかなく、首都が崩壊することが予測されていた。
そこで、新たな土地に日本を統治する行政府機関を作る事になるが、全国を管理する規模のものを作るには大きな建屋が必要となる。
しかし、いますぐそのような第二首都を作れるわけはない。
それに代わり、各地の地方行政に これまで中央省庁が行ってきた機能を分割して委譲し、それぞれの地で独立して自治を行ってもらう事が妥当ではないかと考えられていた。
そして行政が分散してもよいように、情報網の中心核となる場所を設け、そこから各地に分かれた行政機関との情報を共有化し、日本全体をコントロールする方法を考えていた。
首都を失うと、日本という国全体が崩壊するか、もしくはいくつかの小さな国に分断する事が予想された。
日本はこれまでに、大きな戦争により、国土が焦土と化した事が有った。
また、いくつもの大きな災害で大きな被害を受けた。
関東で発生した大震災、関西で発生した大地震、九州で発生した大震災、東北で発生した大地震、またいくつも大きな台風被害もあった。
しかし、今までそれは地域的災害であり、日本の国土すべてが同時に被災したわけではなかったので、救援や復興は非被災地区からの応援もあり、比較的速やかに復興することが出来た。
しかし、今回はこれまで受けた災害とは違う。
街などは被害を受けずにそのまま残っているのだ。 ただ電気を失って。
今回は、文化が大きく変わる時、ターニングポイントになると考えられた。
そう、いま歴史的なパラダイムシフトが発生している。
日比谷会議では、江戸から明治に時代が移った際、どうやって近代文明へ転換したのかがヒントになると考えている。
それまでの江戸時代の文化と、明治以降のガスと鉄道などの文化には明らかに一線を画すものがある。
鎖国状態から、開国による海外からの異文化の流入。
その時人々は、政府はどうやって新たな文明を導入していったか。
自分たちがそれを行う立場になってしまったからには、いやがうえにも頑張るしかない。