第六章 6 『有栖川鳴』
「……昔の話ですけどね。そういうこともあったんですよ」
「へぇーー」
「わざわざ聞いた割に興味なさげですね?」
今日の分の宿題を終えた私は、詩音と一緒に睦海さんから色々と話を聞いていた。
ただ、時間があって暇だから、時間潰しというだけの目的で。
なんとなく、私だけが一番大変なのかと漠然と考えていたけれど、そんなことは全然なくて。
そんなことを考えていた自分を恥じた。少しだけ。
「それにしてもあの変態と組んでたなんて意外」
「当時は人がいませんでしたからね。しかもあの頃いた人員は全員別の事務所に移動しましたし」
ああ、道理で若い人しかいないんだなって……
「ここ給料安いし、未だにエアコンつけないくらいお金ないもんね」
「詩音、それは直球すぎ!今いくら佐久間さんいないからって!」
「事実だもーん」
「詩音…あなたって人は……」
睦海さんの苦労が偲ばれた。
8月の今は、18時を過ぎてもまだ空は明るくて、まだ帰るべき時間だっていう実感が湧かなかった。
「明日もよろしくお願いします!」
「はい、よろしくお願いしますね。また明日」
「また明日ー」
暑さで汗がにじむ顔をハンカチで拭ってから、事務所を出る。
今日は何か買ってから帰ろうかな、なんて考えながら歩いていたら。
「……有栖川くん?」
意外な人がそこに佇んでいた。道の真ん中で顔を項垂れさせながら、何か思索にでも耽ってるような、そんな様子で。
「…あ、ああ。麻倉か」
「だいぶ上の空って感じだけど、どうしたの?」
「お前には関係ないだろ」
彼とはほとんど喋ったことはないけれど、様子がおかしいのはわかる。それに、優斗さんがいないのも変だ。
「関係ないって……そりゃそうかもしれないけどさぁ」
「だったら放っといてくれねーか?」
「でも……様子おかしいから気になるんだもん!」
どうしよう、ちゃんとした言葉が浮かばなくて、よくわかんないこと言っちゃってる。
「……お前はさぁ」
そのまま、私に背を向けながら。
「自分が何者かわかんなくなった経験って、あるかよ」
そこから、私たちの間に一切会話はなかった。
そして、彼は背を向けたままどこかと去っていってしまった。
「なんかもう色々変だなぁ……」
睦海さんから、彼については少しだけ聞いた。何も、亜人の襲撃で家族を失ったのだと。
しかも、その時に家にいなかった父親は行方不明で、今も見つかってなくて。
それだけじゃなくて、その時のことを全然覚えてなくて、ずっと記憶喪失なんだということも。
私は、亜人のことで友達を失った。
けれど、家族は今も生きているし、住む家だってまだある。
もし、これから全てを失ったとして、私はまだまだ生きていけるのだろうか。
何もかもを失った私は、まだ私でいられるだろうか。
モヤモヤとした気持ちを抱え、去っていく有栖川くんの背中を見ながら、私もそのまま帰路へと就いた。
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俺が今まで名乗っていた名前、身分は。全ては亜人狩りとなってから作り出したもので。
つまりは、有栖川鳴という人間は元々『存在しなかった』。
睦海も恭平さんも、優斗ですら俺の過去について何も話さなかったのは、単に聞かれなかったからじゃないんじゃないか。
もし、これを知られてしまったら、俺が亜人狩りをやめてしまうんじゃないかと、そう考えているんじゃないか。
考えがまとまらない。ただ一つ一言言えることがあるとするなら。
あの時、あの夜に「篠原周」という個人は「死んだ」のだ。
どういうわけで今こうなったのかまでは、まだ思い出せない。
事件の記録を見たとき、これ以上開けてはいけないと、自分の心が先を見ることを拒否して、そのまま記録を閉じてしまったから。
「あーーくそっ」
静かなアパートに、独り言が反響する。
本当なら、こんな誰もいない場所に俺は住んでいないはずなのに。
いや、もう何が「本当」なのかすらも、俺にはよくわからない。
自分が、自分という人間の存在が、あまりにも希薄でどうしようもなく疑わしい。
もう、眠ってしまおうかと思い、部屋の電気を早々と消してしまった。
暗闇の中で入れば、きっと余計なことを考えずに済む。
今までだってずっとそうだ。俺は、眠ってしまえば嫌なことは全部忘れる。
俺は頭が悪いんだ。それこそ、優斗にも笑われるくらい。詩音に笑われるのはイラつくが、あいつはそういうやつだ。
……眠れねぇ。
それどころか、どんどんと頭が冴えていく気すらする。
「流石に早すぎたか……?」
内心、早すぎたからじゃないっていうのは自分でわかってる。
有栖川鳴という人間が元々この世にいなかった事。
幸せに一緒に過ごしていた、大切だったはずの家族のことすら忘れて、名前まで変えて、生きてしまっていた事。
決して、そこに罪悪感があるわけじゃない。
俺が生きていることが、悪いことだとは思わない。
だとしたら、何なんだ、この気持ちは……?
そして、そんな風に悩んでいる自分が、何よりも気持ち悪くて仕方がない。
『有栖川鳴』は、きっとこんなしょうもないことで悩むような奴じゃない。
だったら、『篠原周』は……元の俺は、一体どうしていたんだろうか。
想像したってしょうがないようなことを、ずっと考えてしまう。
考え事をしている最中、スマートフォンが鳴る。電話だ。
「相澤優斗」という名前が表示されていたその画面を見て、俺はそれを手に取る。
「もしもし、優斗か。どうしたんだこんな時間に」
「とりあえず僕の家の方まで来てくれないかな。今すぐだよ。君と2人で話がしたい」
「あー、優斗がここまで言うって珍しいな……わかった」
俺はそのまま、すっかり暗くなってしまった道を一気に走り抜けた。




