三十五 新年の再会
父は、昔からあんな風だったろうか。
部屋に戻り、外套を着込んで剣を佩きながら、フィラスは考えた。
(……いや、違う)
昔は、不器用なりに優しいところもある人だったように思う。母アイオネとユリーズがほほえみ合う記憶だって、フィラスの中には残っている。
階段を下りて玄関ホールに向かうと、執事に声をかけられた。
「フィラス坊ちゃま、お出かけになられるのですか? 外は、雪が降っておりますよ」
「大丈夫。少し、出てくるだけだ」
文字通り、頭を冷やしたいということもあるが、今は父がいる屋敷にいたくなかった。
「さようでございますか……。では、いってらっしゃいませ。お風邪を召されては大変ですので、なるべくお早くお戻り下さい」
執事の心の込もった言葉に頷くと、フィラスは外に出た。シーラムの慣習に則って、これくらいの雪では傘はささない。粉雪のちらつく灰色の空の下、門番に見送られ、通りに出る。
石畳を歩き、身を刺すような寒さを感じながら、フィラスは白い息を吐いた。休日でもある新年、しかも天候は雪とあって、道行く人や馬車の姿もほとんどない。
(ちょうどいい。今は、できるだけ人の姿を見たくない)
人とぶつかる心配もないので、フィラスは思考の海に沈んだ。
全ては、七年前に始まったのだ。
父が一切の感情を見せなくなったことも――母がこの世から姿を消してしまったことも。兄との関係が、以前のような無邪気なものではなくなり、上手くいかなくなったことも。
そして、自分が父を憎み始めたことも。
寒気を感じて、フィラスはぶるりと震えた。
周囲を見回すと、既に何度目かの角を曲がっており、家を出てから二十分ほどは経過していると思われた。
(だいぶ歩いたな……もうそろそろ戻ろうか)
せっかくの休みに風邪を引いて、使用人たちの手を煩わせることもない。
そう考えたあとで、フィラスは気づいた。この通りは、かつて歩いたことがある。まだラトーンに入学する前に、コーア伯の屋敷を訪れた時に通ったのだ。
コーア伯という名から真っ先に連想したのは、伯爵の姪のマルヴィナの笑顔だ。
だが、マルヴィナがいるのは王宮だろう。ドゥーガルドの屋敷に滞在しているはずがない。
理性的に考えてはみたものの、不思議なもので、足は自然と伯爵邸に向かってしまう。
(よし、屋敷を一目見たら、家に帰ろう)
決心したフィラスは門番のたたずむ屋敷を、遠目から覗くことにした。
恐る恐る、門扉の前に差しかかった時だった。門扉の向こうから犬の鳴き声が聞こえてきたのは。
どこか聞き覚えのあるその声に、フィラスは引き寄せられるように、門番に訝しがられないギリギリの距離まで歩いていった。
犬の吠え声がいったんやんだ。しばらくして、前庭の木からすうっと白い影が飛び立った。
と、思いきや、影は塀の上の鉄柵に飛び移る。
影は「ワン」と一声鳴くと、素早い動きでバランスを取り、四肢を投げ出して風に乗った。
どこにいくのかと思いきや、影はそのまま、フィラスの胸へと飛び込んでくる。
胸に張りついた、柔らかく温かい物体を両手で掴んだフィラスは、目を丸くする。
「リオ……?」
その白いカゼヨミイヌは、間違いなくリオだった。愛くるしいつぶらな瞳で、じっとフィラスを見上げ、長い尻尾を振っている。
「もしや、女公殿下がおいでになっているのか?」
思わずそう口にしたが、リオは小首を傾げるだけである。
もしかしたら、彼女に会えるのではないか。そう思った瞬間、フィラスは門番に思い切り不審そうな目を向けられていることに気づいた。リオを抱えたまま、どう言い訳しようか逡巡していると、今一番聞きたかった声がした。
「フィラス?」
声のほうに目を向ける。普段着に外套を羽織ったマルヴィナが、門扉の内側に立っていた。
フィラスは慌てた。不審者の疑いはこれで晴れるだろうが、なぜここにいるのか、と彼女に質問されたら、答えるすべはない。
「女公殿下……あの、これはですね……」
「お屋敷から歩いてきたの? こんな雪の中にずっといたら、風邪を引いてしまうわ。温かい飲み物でも出すから、寄っていって」
マルヴィナの一声で、門番の態度は一変し、フィラスは開いた門扉の内側に招き入れられた。前庭から扉まで、ともに歩く途中、リオを受け取り、肩に乗せたマルヴィナに、フィラスは尋ねる。
「女公殿下は、なぜお庭に?」
「試しに外に出してみたら、リオが雪に興奮しちゃって。ちょっと目を離した隙に、木によじ登っちゃったのよ。まさかこの子があなたを発見するとは、思ってもみなかったけど」
マルヴィナは屈託なく笑う。冷えていた心が温かくなるのをフィラスは感じた。
「でも、フィラスがいてくれて良かったわ。お陰で、リオを見失わずにすんだもの」
「わたしは何もしていません。それに、殿下なら、リオをすぐに呼び戻せたでしょう」
「それはそうだけど、ここは野山とは違うから……。とにかく助かったわ。ありがとう」
マルヴィナに導かれ、フィラスはコーア伯邸に入った。雪がついて湿った外套と剣を預けたあとで、客間に通される。
座り心地のよいソファーに腰かけていると、侍女が温かいミルクティーを運んできてくれた。向かいの席にマルヴィナも座り、にこにこしながら飲み物を勧めてくる。フィラスはありがたくいただくことにした。
ノックの音が響いたのは、その時だ。マルヴィナに促されて扉が開くと、そこには今のフィラスがあまり会いたくなかった相手――コーア伯ドゥーガルドの姿があった。
父の友人であるドゥーガルドが、フィラスはやや苦手だ。何を好き好んで父の友人でい続けているのか、理由がよく分からないからだ。
「やあ、フィラス。ラトーンで会って以来だね」
「……はい、お久し振りです」
「今日はどうした? こんな雪の中を歩いてくるなんて、セオンと喧嘩でもしたのか?」
正確には、兄ではなく、父を一方的に怒鳴ってしまったわけだが、うしろめたい気持ちがフィラスを無言にさせた。
ドゥーガルドはそんなフィラスを見て、頭を掻く。
「じゃあ、俺は書斎に戻るから、フィラスはゆっくりしていってくれ。あとはよろしくな、マルヴィ」
「はい、叔父さま」
ドゥーガルドは客間を出ていった。明らかに気を遣わせてしまった。フィラスが忸怩たる思いでいると、マルヴィナまで心配顔になる。
「……フィラス、本当にセオンと喧嘩したの?」
彼女を安心させねば。フィラスは即座に口を開いた。
「いいえ。父に怒鳴ってしまっただけです」
「え……?」
マルヴィナの顔は晴れるどころか、ますます曇った。フィラスは頭を抱えたくなった。考えるまでもなく、自然な成り行きである。
「フィラス、そんなことをするなんて、何か悩み事でもあるの? わたしで良ければ、相談に乗るけど……」
マルヴィナの結婚相手を、父が勝手に探そうとしている、などとは、口が裂けても言えない。しかし、嘘が苦手なフィラスは、つい、事態の本質に近いところを口にしてしまった。
「……わたしは、元から父とは上手くいっていないのです」
「それは、お父君の性格が原因?」
マルヴィナも、父には思うところがあるらしい。当然か。
「端的に言えばそうなのですが……父も元からああいう性格だったわけではないのです」
「そうなの?」
「はい――母をある事件で失ってから、父は変わってしまったのです」
「その話、詳しく聴かせてくれる? あ……フィラスの気が進まないのなら、無理強いはしないわ」
意外な方向に話が進んできたな、とフィラスは困惑した。
けれど、とも思う。あの事件のことを話すのは、まだはばかられるが、事情を知りたがっているマルヴィナが、あとでドゥーガルドから同じ話を聞かされる可能性もある。
それなら、自分からマルヴィナに話したほうが良い。彼女になら、自分たち一家の過去を知られても構わない気がした。
「……かしこまりました。お話し致しましょう」
フィラスはミルクティーで喉を潤したあとで、決意とともにそう言った。




