三十四 フィラス、怒る
新しい年が訪れたその日は、特に冷え込み、雪がちらついていた。
貴族たちの邸宅が立ち並ぶターリスの中心部に、ギェナー公爵家のタウン・ハウスはある。その広壮な屋敷の一室で、フィラスはハープシコードを弾いていた。幼い頃、フィラスが音楽を学ぶために、母が用立ててくれた思い出の品である。
鍵盤を叩き、作曲を進めながらも、フィラスの脳裏に繰り返し浮かぶのは、マルヴィナのことだった。
「ふう……」
ため息をつきながら、フィラスは自分の雑念に屈伏して、五日前のマルヴィナのドレス姿を思い起こした。
普段から愛らしいマルヴィナだが、あの時の彼女は、文句のつけようがなく美しかった。
(七年――いや、もう八年前か。あの方に出会ったのは)
子どもの頃、王宮で声をかけた可愛らしい少女が、まさかレオニス女公となって自分の前に再び現れるとは、夢にも思わなかった。あの事件のこともあり、ラトーンに入学してからは、思い出すこともなくなっていたのだ。
マルヴィナが入学してくる前に、レオニス女公はドゥーガルドの姪だと聞いて、もしやあの子なのではと、フィラスはようやく思い起こしたのである。
もう名前も顔もうろ覚えになっていたが、不思議なものでマルヴィナと再会した瞬間、記憶は時が逆流したかのように鮮明になり、あの時の少女だと確信できた。
朗らかで優しく、その上賢い少女に成長したマルヴィナに、フィラスは惹きつけられた。
だが、それはほとんどのラトーンの生徒も同じだったし、女生徒が物珍しいゆえに起こる、自然な現象だろうと、フィラスは半ば決めつけていた。
その解釈がどうやら違うらしい、と気づいたのは、世話役として毎日マルヴィナと接し、リオや音楽を通して、彼女をより深く知る機会を得てからだったろうか。
特にマルヴィナがシュツェルツと笑い合っている場面を目にすると、理由の説明できない苛立ちが募った。
そして、あの夜――多分、自分は恋に落ちたのだ。
高揚する気分を押さえつけるように、フィラスの中で、ある不安が広がっていく。
(学生のうちは、それでもいい。だが――)
フィラスは、ハープシコードの鍵盤を、掻き鳴らすように弾いた。
(俺と女公殿下では、身分が違いすぎる)
マルヴィナはシーラムの次期女王。自分は、公爵家の出身とはいえ、跡継ぎの長男ではない。もし、希望通り天馬騎士になれたとして、レオニス女公と一介の騎士が結ばれるとは思えない。身分だけで言うなら、マルヴィナと釣り合うのはシュツェルツか、兄のセオンだろう。
それに、もちろん、彼女の気持ちもある。
マルヴィナの本心を知るのは怖い。彼女に告白した生徒たちの無謀な勇気を、拍手喝采したいくらいだ。
フィラスは、お披露目パーティーの夜から何度目かしれないため息をついた。
ノックの音がした。入るよう促すと、乳母が現れる。
「失礼致します、坊ちゃま。旦那さまが、居間でお待ちです」
「どうしても、いかなければだめか?」
難色を示すと、フィラスを赤ん坊の頃から知っている乳母は笑った。
「どうしても、でございます。セオン坊ちゃまも呼ばれていらっしゃいますし、何かお話がおありのようですよ」
父のことだ。どうせ、乳母の頼みなら断れないだろうと思って、彼女をよこしたのだろう。言いつけを守れなかったことで、乳母が父に叱られてもかわいそうだ。
フィラスは仕方なく、居間にいくために立ち上がった。
*
二階の音楽室から一階の居間に下りていくと、既に父と兄がソファーに座っていた。
「きたか、フィラス」
ユリーズは、冷たいアイス・ブルーの瞳をこちらに向けた。
「……遅くなりました、父上」
フィラスは身構えながら、セオンの隣のソファーに腰かけた。
「別に、待たされてはいない。こうして、二人と会うのは久し振りだが、さっそく本題に入ろう」
あまりに父らしい言葉だと、フィラスは皮肉っぽく思った。息子たちの近況よりも、自分自身の話のほうが大切なのだ。
セオンが相槌を打つ。
「はい」
「先日の、レオニス女公殿下のお披露目パーティーでのことだ」
マルヴィナの名に、フィラスは思わず反応した。ユリーズは構わず続ける。
「フィラス、あの時、お前は休んでおいでだった女公殿下を、ずいぶん独占していたな」
独占、と形容されて、フィラスは内心で戸惑った。傍からはそう見えていたのか。
「そのこと自体は構わない。元々、あのパーティーは、殿下のお披露目だけではなく、殿下の将来の配偶者を探すために、開いたものだからな」
ユリーズの台詞に、フィラスは殴られたような衝撃を受けた。対して、セオンは冷静に頷く。
「やはりそうでしたか。招待客の男性の年齢が、概して女公殿下に近かったので、そうではないかと考えておりました」
「セオン、お前には、わたしが今、殿下の伴侶を探す理由が分かるか?」
「はい。もしかして、女公殿下のお立場は、宮廷内でまだ盤石とは言えないのではないでしょうか。ですから、殿下のお立場を強固なものとするために、今から婚約者として、有力な貴族の子息を味方につける――そんなところではないでしょうか」
「おおむね当たっている。そうすれば、多少不利な殿下のお血筋を、補うことができるからな。精進しているようだな、セオン」
「ありがとうございます」
フィラスには、ほほえむセオンの顔は目に入っていない。既に、マルヴィナの未来の夫の選考が始まっているとは、思ってもみなかったのだ。
このことを、マルヴィナは知っているのだろうか。いや、パーティーでの様子から見て、知っているとは思えなかった。フィラスの中で、むくむくと父に対する怒りが込み上げてきた。
「ところで、その対象にお前たちも入っていることには、気づいていたか?」
ユリーズは、息子たちの野心を煽る風でもなく、淡々と質問した。セオンが困ったような顔をする。
「まあ、薄々は感づいておりましたが……」
「それならば良い。フィラス、女公殿下と最初に踊ったのは、お前だったな。その後の行動といい、あの場にいた招待客たちの目には、お前が最も殿下に近しい者に映っただろう。殿下の夫になりたいならば、今後も、そのように振る舞え」
そう声をかけられた瞬間、フィラスの中で、今まで鬱積していたものが弾けた。
「あなたは、殿下のお気持ちを無視するばかりでなく、あの方と――わたしを家の発展のための道具にするつもりか!」
立ち上がり、ユリーズに食ってかかると、セオンが間に入った。
「やめろ、フィラス。父上は、そのようなおつもりでおっしゃったのではない」
フィラスはユリーズを睨めつけた。息子に怒鳴られたというのに、その顔は涼しいもので、何も感じていないかのようだった。フィラスの胸を、怒りと痛みが走り抜けた。
「ならば、誤解を招かないような言い方を学んで下さい!」
つっけんどんにそう言うと、フィラスは荒々しくソファーから立ち上がり、速足で居間から出ていった。
*
この場から立ち去る弟のうしろ姿を見て、セオンはため息をついた。あとには、派手な音を立てて閉まる扉の音だけが残される。
ユリーズはしばらく扉を見やっていたが、セオンに視線を向けた。
「女公殿下の許可を得ず、計画を進めたことは認めよう。だが、あれはどうして、あのような勘違いをしたのだ? 家のためにお前たちを、殿下の夫にしようとしているなどと。芸術に傾倒することは構わぬが、三文芝居の見すぎではないのか」
(父上のことが嫌いだから、何でも悪いほうに取るようになった……とは、言えないよなあ)
いくら父でも、実の息子にそこまで嫌われていることを知れば、傷つくだろう。
考えた末に、セオンはユリーズにある事実を告げることにした。
「実は、ですね、フィラスは本気で女公殿下のことをお慕い申し上げているのです」
「ほう?」
ユリーズは片眉を跳ね上げた。
(嘘は言っていないからな。勘弁してくれよ、フィラス)
セオンは内心でフィラスに謝りながら続ける。
「おそらくは、そのせいで過敏になっているのだと思われます。あまり軽々しく、『殿下の夫になりたいのならば』などとおっしゃらないほうがよろしいでしょうね」
同じような台詞をフィラスに言ったことがあるくせに、自分のことは棚に上げて、セオンは述べた。
「ふむ。フィラスは野心とは関係なく、殿下のことを好いている、ということか」
セオンが思わず目をみはったくらい珍しく、息子の恋心の機微をユリーズは察した。
「で、お前はどうなのだ、セオン」
「と、おっしゃいますと?」
とぼけながら、ついに訊かれてしまったなあ、とセオンは思う。父の期待に背くという経験があまりないセオンにとって、この問いに答えるには勇気が必要だ。
ユリーズは畳みかけた。
「分からぬふりをするな。お前は殿下のことを、どう思っている?」
「友人として、好ましく思っております。ただ、わたしには、他に気になる女性がおりますので」
「そうか。まあ良いだろう。好きにしろ。わたしがアイオネに出会ったのも、十七の時だった。早すぎるということはない」
父が母の名を口にした。あまりに久し振りの事態に、セオンが言葉を失っていると、ユリーズがもう一度、呟くように言った。
「そうか……。フィラスが殿下をな」
その声は、妙に納得した響きを帯びているように、セオンには聞こえた。




