第7章 撤退
※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。
特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません
病院は夜のうちに移動することになった。
日が落ちると、山の輪郭だけが黒く残った。月は雲に隠れ、道は自分の足元さえ見失うほど暗い。遠くで燃える町の赤い光だけが、ときどき木の幹を照らした。少女たちは声を潜め、互いの制服の裾や担架の端を頼りに進んだ。
患者全員は連れていけない。
歩ける者。
担架で運べる者。
残される者。
軍医が短い言葉で分けていった。
シズは軍医の後ろを歩き、患者の札を一枚ずつ確かめていた。歩ける者に肩を貸し、残される者の枕元には水を置いた。手つきだけはいつもと同じだった。
灯子は聞いた。
「シズさんは?」
「私はあとから」
「一緒じゃないんですか」
「仕事が残ってる」
それ以上は答えなかった。
本当にあとから来たのか、灯子は知らない。新しい壕でシズを見かけることはなかった。死んだという知らせもなかった。生き延びたという知らせもなかった。
戦場では、別れた人間の結末まで知る権利が与えられないことがあった。
灯子たちは残される患者へ水を置いた。
包帯を置いた。
それで何かが救われるわけではないことは分かっていた。
壕を出る直前、暗闇の奥から声がした。
「待ってくれ」
「まだ生きてる」
「置いていかないでくれ」
灯子は振り返った。
誰の声か分からない。
戻れば連れていけるのかも分からない。
「行け!」
別の兵士が怒鳴った。
「早く行け!」
助けてほしい声と、逃げろという声が同じ暗闇から聞こえた。
少女たちは泣きながら外へ出た。
灯子は耳を塞ぎたかったが、担架を持つ両手を離せなかった。歩くほど声は遠くなった。遠くなることが救いであるはずなのに、聞こえなくなった瞬間、胸の中へもっと大きな声が残った。「まだ生きてる」。その言葉だけが、足音に合わせて何度も繰り返された。
夜道を進んだ。
灯子は千鶴と担架を持った。
美代は少し後ろを歩いていた。
富美はその隣にいた。
良子もいた。
文も節子もいた。
少なくとも、最初はいた。
富美が担架の持ち手を節子と交代しようとして、「私の方が力あるから」と言った。節子は「それ毎回言う」と小声で文句を言った。
良子は美代の背中に土がついているのを見つけて払い、美代は「今それ気にする?」と笑った。文は誰かが落とした布袋を拾って、自分の荷物へ括りつけた。中身を確認する余裕もなかった。
何でもないやり取りだった。
それが、五人について灯子が最後にはっきり覚えている会話になった。
谷へ入ったところで照明弾が上がった。
空が真っ白になった。
「伏せろ!」
砲撃が始まった。
誰がどこへ伏せたのか分からなくなった。
土。
石。
悲鳴。
担架。
暗闇。
また白い光。
灯子は千鶴の袖を掴んでいた。
握った布だけを離さなかった。
どれくらい続いたのか分からない。
静かになったとき、列はばらばらだった。
「進め!」
兵士が叫んだ。
誰かが人数を数えた。
合わなかった。
もう一度数えた。
「美代は?」
返事がない。
「さっきいたよ」
「どこに?」
「分かんない」
「富美は?」
「良子は?」
名前を呼んだ。
返事なのか、離れた場所の別人の声なのか分からない音が返った。
文がいない。
節子もいない。
五人がいなかった。
谷には砲煙が溜まり、数歩先の木さえ輪郭がぼやけていた。灯子は目を凝らした。誰かが立っているように見え、名前を呼ぶ。煙が流れるとただの折れた枝だった。次は岩が人影に見えた。見たいものが、何でも友達の姿になった。
死体を見た者はいなかった。
血痕も見つけられなかった。
戻って探す時間もなかった。
昌子は何度も後ろを見た。
灯子も見た。
暗い谷しかなかった。
「先生」
「行くの」
昌子の声は掠れていた。
「でも、いるかもしれない」
「分かってる」
「生きてるかもしれない」
「分かってる」
それでも歩いた。
五人を見捨てると決めたわけではなかった。
決める時間そのものがなかった。
翌朝、新しい壕で人数を数えた。
七人しかいなかった。
初江は谷を走ったときに足首をひねっていた。歩けはしたが、片足をかばっていた。
澄江はノートを開き、五人の名前の横へ『撤退時行方不明』とだけ書いた。
美代。
富美。
良子。
文。
節子。
五つの名前が、行方不明になった。
その夜のどこで死んだのか。
誰が最後まで生きていたのか。
互いに一緒だったのか。
誰にも分からなかった。




