第5章 正しいこと
※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。
特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません
かなが死んだ翌朝も、仕事は始まった。
かなのいない場所だけが、妙に目についた。包帯を畳むとき隣にいたはずの膝。水桶を運ぶとき聞こえたはずの息遣い。誰かが似た声で返事をするたび、灯子は一瞬だけ振り向いた。そして違う顔を見て、かなが死んだことを何度も新しく知り直した。
誰かが鐘を鳴らしたわけではない。
負傷者が運ばれてきたから始まった。
悲しむ時間が終わったのではない。
悲しんでいる時間が許されなかった。
包帯を洗う。
血を拭く。
水を運ぶ。
死んだ人間を通路の端へ寄せる。
次の担架が来る。
初江は一度もかなの話をしなかった。
かなの血が初江の袖に点々と残っていた。洗おうと思えば洗えた。けれど水は傷を洗うためにも足りなかった。
シズが「そのままでいい」と言った。
初江は頷いた。
夕方になって、袖の染みが乾いて黒くなった。初江は何度かそこを爪で擦り、途中でやめた。
灯子は声を掛けられなかった。慰める言葉を探すと、どれも「そのうち大丈夫になる」という意味を含んでいる気がした。ここでは、そのうちが来る保証すらなかった。
話せば崩れると思っているようだった。
律子は以前より命令を細かく確認するようになった。
「外へ出る時間、必ず守ろう」
「水汲みも一人では行かないで」
「入口から離れて」
夏子が低い声で言った。
「かな、入口から離れてたよ」
律子は黙った。
「言われた通りにしてても死んだよ」
律子の唇が震えた。
「じゃあどうすればいいの」
「知らないよ」
夏子が答えた。
声にいつもの軽さはなかった。
「知らないけど、かなが悪かったことにするのは嫌」
律子の顔が歪んだ。
「そんなこと言ってない」
「でも、そうしないと怖いんでしょう」
律子は何も返さなかった。
灯子は二人の間に入れなかった。どちらの気持ちも分かると思ったからこそ、何を言っても片方を裏切る気がした。戦争は友達同士の喧嘩にまで、正しい答えを残さなかった。
夏子は答えなかった。
律子は壁を見た。
「ちゃんとしてれば大丈夫だと思ってた」
小さな声だった。
「命令を守って、危ないことしなければ、少しは違うと思ってた」
灯子は何も言えなかった。
かなは危険な水汲みから生還した。
そのあと、座って包帯を畳んでいるだけで死んだ。
正しさと生死のあいだに、何の線も引けなくなっていた。
その日、壕の奥で一人の兵士が死んだ。
朝まで話していた人だった。
昼にはもう、担架ごと壁際へ寄せられていた。
別の負傷兵がその隣へ置かれた。
場所が必要だった。
死体を見慣れてしまうことが、灯子には怖かった。
怖いと思えるうちは、まだ何かが残っている気がした。いつか何も感じずに死体を跨げるようになったら、自分は元の教室へ戻れるのだろうか。そんな考えが浮かび、灯子は慌てて打ち消した。戻る。その前提だけは失いたくなかった。
でも、見慣れなければ仕事ができなかった。
夕方、澄江がノートを開いた。
かなの名前の下には、まだ何も書けていなかった。
「空白でいいのかな」
「分からないなら、いいんじゃない」
灯子が言った。
「最後って、何か言わなきゃいけないのかな」
澄江は自分に聞くように言った。
灯子は答えなかった。
戦場では、人間が死ぬ前に物語の終わりを用意してもらえるわけではなかった。




