第4章 水
※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。
特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません
水がなくなった。
渇きは痛みより静かに広がった。最初は唇が乾くだけだった。次に舌が口の中へ貼りつき、唾を飲み込むことさえ意識するようになった。水という言葉を誰かが口にするたび、灯子の喉が勝手に動いた。
正確には、水場への道が砲撃で使えなくなった。
壕の中には負傷者が百人以上いる。
傷を洗う水。
飲む水。
器具を洗う水。
どれも足りなかった。
「朝露を集めよう」
昌子が言った。
まだ暗いうちに布を外へ広げ、草についた露を吸わせる。
絞って容器へ入れる。
少女たちは何度も往復した。
集まる量はわずかだった。
それでもゼロではない。
「こんなの、一杯になるまで何年かかるの」
夏子が言った。
「文句言うなら絞るの交代して」
千鶴が返す。
「文句言いながらやるのが私の仕事です」
夏子は布を絞った。
灯子は笑った。
笑えるうちは、まだ自分が自分でいられる気がした。
午後になると、壕の壁に浮いた湿り気を指でなぞって舐める兵士が出始めた。
空の水筒を何度も口へ運ぶ者もいた。
子供が「お水」と泣いた。
その声を聞くたび、少女たちは自分の舌の乾きを意識した。
休憩のとき、初江はかなの前髪を指で梳いた。汗と土埃で束になっていた。
「ほんとに切りたい」
「今?」
「今は鋏ないから無理」
「あっても切らせない」
「絶対似合うのに」
かなは初江の手を払った。
「帰ってからにして」
二人はそれ以上、未来の話をしなかった。ただ、初江はかなのほつれた袖を見つけ、千鶴から糸を借りて応急に縫った。針を持つ手が不器用で、縫い目は曲がった。
かなが笑った。
「美容師って、裁縫は下手なんだ」
「髪と布は違う」
その縫い目は、数時間後もかなの袖に残っていた。
夕方、かなと初江が水を取りに出た。
「やめた方がいい」
律子が言った。
「分かってる」
かなは答えた。
「でも、あの子ずっと泣いてる」
危険なのは誰にでも分かっていた。
それでも二人は出た。
壕の入口から差し込む夕方の光は赤く、外の草だけが風に揺れていた。ほんの十数歩先には水のある世界がある。その十数歩が、灯子には海より遠く思えた。
十分。
二十分。
三十分。
外で何度も爆発音がした。
灯子は入口ばかり見ていた。
やがて初江が現れた。
初江は走っているというより、坂を転がるように壕へ入ってきた。肩で息をし、その後ろにかなの姿が見えた瞬間、灯子の肺からようやく息が抜けた。二人とも戻った。その事実だけで、壕の空気がほんの少し明るくなったように感じた。
その後ろから、かなも戻ってきた。
二人とも泥だらけだった。
かなは両腕で水の入った缶を抱えていた。
「取れた」
それだけ言って笑った。
みんなが駆け寄った。
生きて帰ってきた。
水も持って帰った。
誰かが「よかった」と言った。
本当に、よかったはずだった。
その夜、かなは包帯を畳んでいた。
初江が隣で、昼の水汲みのときに破れた袖を見て笑った。
「それ、お母さんに怒られるね」
かなは袖を見た。
「帰ったら縫えば――」
そこで壕の外が白く光った。
遅れて、音が来た。
天井から土が落ちた。
灯子は反射的に頭を伏せた。
耳鳴りが止まらなかった。
誰かが泣いていた。
誰かが名前を呼んでいた。
灯子が顔を上げたとき、かなはさっきと同じ場所にいた。
座ったまま、壁にもたれていた。
ただ、動かなかった。
「かな?」
初江が肩に触れた。
かなの身体が横へ倒れた。
返事はなかった。
砲弾の破片が首の近くに入っていた。
ほんの一瞬だった。
水を取りに出たときには死ななかった。
危険な道を戻ってきた。
みんなが安心した。
それから、壕の中で死んだ。
理由はなかった。
判断を間違えたわけでもなかった。
最後の言葉が何だったのかも、誰にも分からなかった。
「帰ったら縫えば」の続きを言おうとしたのかもしれない。
別のことだったのかもしれない。
もう確かめられなかった。
澄江はノートを開いた。
『山城かな 十六歳』
その下で鉛筆が止まった。
最後の言葉を書く欄は、空白のままになった。




