第3章 名前を呼ぶ
※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。
特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません
一週間が過ぎたころには、灯子は血を見ても吐かなくなった。
それを成長と呼んでいいのか分からなかった。
「宮里、三番壕へ包帯!」
「はい!」
呼ばれれば走った。
「水!」
「今持ってきます!」
傷口を押さえた。
苦しむ人の手を握った。
死体の横を通った。
できることが増えた。
できるようになりたくなかったことばかりだった。
壕の中では、十三人にもいつの間にか小さな役割ができていた。
美代は患者の名前を聞くのが上手かった。聞き取れない声にも顔を近づけ、二度、三度と確かめた。富美は力があり、水桶や汚れた布の籠を黙って二人分持った。良子は人の顔をよく覚え、移された患者がどの壕へ行ったかを不思議なくらい記憶していた。
文は配られたわずかな食事を均等に分けるのが上手く、節子は狭い通路でも人と荷物がぶつからない順番を考えるのが早かった。
以前なら「得意」と呼ぶほどでもなかったものが、ここでは誰かを数分長く生かすことにつながった。
灯子はときどき、学校で同じ十三人を見ていたはずなのに、こんなことを何も知らなかったのだと思った。戦場へ来て初めて友達の知らない部分を知ることが、ひどく間違っている気がした。
最初は息を止めなければ通れなかった場所を、今では水桶を抱えたまま駆け抜けられた。呻き声の大きさで、まだ意識があるかどうかまで想像できるようになった。灯子は自分が役に立つようになったことを喜べなかった。慣れていくたび、昨日の自分が一枚ずつ剥がれていく気がした。
ある晩、律子が名簿を整理していた。
几帳面な字で患者の数を書き直す。
「今日、百二十七人」
「昨日より多い?」
「二十三人多い」
「薬は?」
「減ってる」
夏子が横から覗いた。
「それ、算数として成立してなくない?」
律子は笑わなかった。
「援軍が来るから」
「え?」
「軍医さんが言ってた。もう少し耐えれば援軍が来るって」
律子はそれを信じていた。
正しく働けば、正しく助けてもらえる。
命令を守れば、守ってもらえる。
役場で働きたいと言っていた律子らしい考え方だった。
灯子は否定できなかった。
否定したら、自分たちを支えている何かまで壊れそうだった。
その夜、壕に七歳ほどの男の子が運び込まれた。
兵士ではない。
砲撃で家を失った民間人だった。
少年は腕を負傷していた。
「お姉ちゃん、学校の先生?」
灯子の制服を見て聞いた。
「まだ学生」
「先生みたい」
「将来は先生になるつもり」
灯子はそう答えてから、自分でも驚いた。
ここへ来てから、未来の話をほとんどしていなかった。
「何先生?」
「小学校」
「じゃあ僕も教えて」
「何を?」
「漢字」
灯子は笑った。
「戦争が終わったらね」
少年も笑った。
翌朝、その少年は別の避難壕へ移された。
生き延びたのかどうか、灯子は最後まで知らない。
澄江はノートの隅に少年の名前を書いた。
『安里実 七歳 漢字を教えてほしい』
「死んでないよ」
灯子が言う。
「だから書いた」
澄江は答えた。
「このノート、死んだ人だけのものじゃないから」
澄江の指先には鉛筆の黒い粉が染みついていた。紙の上に書けば、その人が少なくとも一度は名前を持ってこの場所にいたと分かる。壕では毎日、人が担架で運び込まれ、やがて布を被せられて外へ出された。その速さに抗えるものが、彼女たちには文字くらいしかなかった。
「じゃあ何のノート?」
澄江は少し考えた。
「ここにいた人のノート」
その言葉を、灯子は長く覚えていることになる。
その夜、灯子は澄江のノートを借りて頁をめくった。知っている名前も、知らない名前もあった。字の濃さが一つずつ違い、急いで書いたものは線が歪んでいた。
「顔まで覚えてる?」
灯子が聞いた。
澄江は首を振った。
「もう分からなくなってきた人もいる」
その答えが灯子には怖かった。忘れたくないから書いているのに、書いている間にも顔は薄くなる。
「名前が残れば、足りるかな」
澄江はしばらく考えてから言った。
「足りない。でも、ないよりはいい」
完全に残すことなどできない。最初から、彼女たちのしていることは負け続ける作業だった。




