第11章 聞き取れなかった
※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。
特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません
夜明け前に出た。空はまだ青黒く、木の葉の縁だけがわずかに白んでいた。森には夜の湿気が残り、足元の草が制服の裾を濡らした。鳥が一羽だけ鳴いた。日常なら朝の始まりを知らせる声なのに、灯子には「まだ生きているものがいる」という事実そのものが不思議に聞こえた。
昌子が先頭。
澄江が簡単な地図を持った。
朝子を千鶴と灯子が支えた。
律子、夏子、初江が後ろを歩いた。
白いリボンは全員ポケットへ入れた。
出発前、昌子はまた人数を数えた。
一、二、三、四、五、六、七。
それから自分を含めるように小さく「八」と呟いた。
灯子は初めて先生の靴を見た。踵が擦り切れ、足首には赤い血が滲んでいた。先生も同じ道を歩いていたのだと、当たり前のことにそのとき気づいた。
「痛くないの?」
「痛いわよ」
昌子はあっさり答えた。
「先生も痛いって言うんだ」
夏子が言う。
「先生を何だと思ってるの」
一瞬だけ、学校にいたころと同じ口調だった。
その短いやり取りを、灯子はあとで何度も思い出した。最期の言葉ではなく、ただ足が痛いと言った先生の声として。
開けた道を避けた。
木陰を選んだ。
音を立てないように歩いた。
少女たちはできることを全部やった。
昼前、沢を見つけた。
細い水だった。
昌子が上流を見た。
安全とは言えなかった。
それでも飲んだ。
夏子が手ですくった水を飲んだ。
「冷たい」
千鶴が笑った。
朝子も少し飲んだ。
数歩だけ自分で歩いた。
「歩ける」
朝子が自分の足で立った瞬間、灯子の胸の奥に小さな熱が戻った。助かる、という言葉を思うのが怖くて口にはしなかった。それでも千鶴の顔が少し緩み、夏子が水滴を指で弾いた。希望は、認めた途端に壊されそうなほど小さかった。
その声に、みんなが少しだけ笑った。
灯子も笑った。
それは希望と呼べるほど大きなものではなかった。
ただ、その瞬間だけ死なずに済んでいた。
昼過ぎ、森を抜ける前に航空機の音がした。
「伏せて!」
昌子が叫んだ。
全員が地面へ伏せた。
一発目は遠かった。
二発目も遠かった。
三発目が近かった。
木の枝が折れた。
土が跳ねた。
灯子は頭を抱えた。
音が遠ざかった。
「先生?」
誰かが言った。
昌子は伏せたまま動かなかった。
「先生」
灯子が肩に触れた。
返事がない。
背中に小さな破片が入っていた。
傷は外から見れば大きくなかった。
制服の布に滲む色も、最初はほんの掌ほどだった。だから灯子は「大丈夫かもしれない」と思った。壕で見てきたもっと酷い傷より、ずっと軽く見えた。その比較そのものが、いつの間にか自分の中へ染みついていることに気づかなかった。
千鶴が圧迫した。
初江が布を出した。
律子が呼び続けた。
昌子は一度だけ目を開けた。
何か言おうとしたように見えた。
声は出なかった。
「先生、何?」
灯子が顔を近づけた。
昌子の唇が動いた。
聞き取れなかった。
もう一度動くことはなかった。
それが最後だった。
灯子は聞き取れなかった自分を責めた。もっと近くへ顔を寄せればよかったのか。呼びかけず黙っていれば声が聞こえたのか。そんな考えが次々浮かんだ。けれどどれも、昌子の胸をもう一度動かすことにはつながらなかった。
何を言おうとしたのか、誰にも分からなかった。
『生きなさい』だったのかもしれない。
誰かの名前だったのかもしれない。
ただ痛かっただけかもしれない。
意味を決めることはできなかった。
少女たちは止血を続けた。
知っている処置を全部した。
それでも昌子は死んだ。
「先生」
灯子が呼んだ。
返事はなかった。
何度呼んでも同じだった。
少し前まで先頭を歩いていた。
沢を見つけていた。
朝子に水を飲ませていた。
それだけで終わった。
墓を掘る時間はなかった。
七人は昌子を木の根元へ残した。
誰も別れの言葉を言えなかった。
言えば本当に置いていくことになる気がした。
だから何も言わずに歩いた。
数十歩進んでから、灯子は振り返った。木々の間に白い服の一部が見えた気がした。次の一歩を踏み出すと見えなくなった。戻ればまだ先生がそこにいる。進めば、先生のいない世界が始まる。足だけが先に進み、心がその場へ残った。




