違和感の数を、数える
翌朝、目が覚めて最初にしたのはノートを開くことだった。
昨日の決意を形にする必要があった。
俺は新しいページを開いて、上に書いた。
「違和感の記録」
今日一日、観察したことを全部書き留める。違和感の数を数えて、その種類を分類する。
俺の優秀さが俺のものでないなら、せめて、観察する力だけは俺自身のものにしたかった。
大学に着いたのは九時前だった。
最初の違和感は、駅前の交差点で見つかった。
信号待ちで前にいたサラリーマンが、スマホを見ていた。画面のニュースアプリをスクロールしていく速度が不自然に一定だった。指の動きが、機械の駆動装置のように同じリズムで動いていた。
俺はノートに書いた。
「①駅前交差点・スクロール一定リズム」
たぶん、これは小さい。小さすぎて、誰も気にしない。
でも、書いた。書かないと、なかったことになる気がした。
二限の前、構内のベンチで時間を潰した。
目の前を、犬を散歩させている人が通った。
その十分後、別の方向から、別の人が、別の犬を連れて、同じベンチの前を通った。
犬種は違う。人種も違う。でも、両方の犬の歩幅と両方の人の歩く速度が、ほぼ同じだった。
ベンチの位置に対して両方の人が、同じタイミングでこちらを見た。
俺はノートに書いた。
「②構内ベンチ・犬連れ二件・同じ歩幅」
二限の授業中、俺は教授ではなく、教室の学生たちを見ていた。
ノートに書き写すリズムが、後ろの席の三人だけ一致していた。三人は別々の方向に座っていてお互いに知り合いには見えなかった。それでも、ペンの動きが同じテンポで上下していた。
「③二限・後ろ三人・ペンのリズム同期」
昼。
学食で、葉山たちの席を遠目に見た。今日は近づかなかった。
葉山が話していて、別の一年生が頷いていた。葉山の手の動きと頷く側の頭の動きが、同じ周期で揺れていた。
「④学食・葉山と一年生・身振り同期」
午後はバイトのシフトだった。
Café Letheに入って、エプロンをつけた。
いつもの一日が始まるはずだった。だが今日は、いつもの全部が観察対象になっていた。
午後二時の常連客の入店時刻が、先週と同じ秒単位で揃っていた。レジに並ぶ順番が先週とほぼ同じだった。誰がどの席に座るかも、先週とほぼ同じだった。
「⑤Café・午後二時・客の入店パターン同期」
「⑥Café・席選びの再現性」
書きながら、手が震えそうになった。
たくさん、ありすぎる。
数えるほどに、世界の隙間が、広がっていく。
厨房の入口で、鏑木さんが俺を見ていた。
目が合った。
鏑木さんは何も言わずに、書類に目を戻した。
俺は、書類の角を持つ鏑木さんの指に気づいた。指の角度が、先週シフトに入った時に俺が見た角度と、同じだった。書類の角を親指と人差し指で挟む持ち方も、爪の長さも、薬指の付け根にある古いやけどの跡の見え方も、先週と全部同じだった。
書きそうになって、書かなかった。
鏑木さんを違和感リストに入れたくなかった。
なぜそう思ったのか、自分でも分からない。
ただ、鏑木さんが「観察対象」になってしまうと、俺の側に味方が一人もいなくなる気がした。
夜、シフトが終わって部屋に戻った。
ノートを広げた。
今日一日の違和感の数を数えた。
十七個。
書いていないものを含めれば、たぶん、その三倍はある。
桐谷から「先輩、明日のサークル来ます?」と短いメッセージが来ていた。
「行く」
とだけ返した。
桐谷の返信は来なかった。
俺はノートを閉じた。
窓の外で、街灯が一つ消えた。十秒後、もう一つ消えた。さらに十秒後、また一つ消えた。
規則正しい間隔だった。
いつもの街灯の消え方ではなかった。
いつもなら、同時に消えるか、ばらばらに消える。
今日のように十秒間隔で順番に消えるのは、初めて見た。
でも、俺以外の誰かがこれを見ているとは思えなかった。
胃の奥が、薄く重くなった。観察を続けるほど、世界の側が俺を試しているような気がしてきた。
世界はバグだらけだ。
あるいは、俺の認識能力が、人より高すぎるのか。
明日も、数える。
数え続けないと、この世界に呑まれそうだった。
ノートに違和感を数えていく回。
17個。書いている本人が一番怖くなりました。「数え始めると止まらない」感覚を、文字として残せたと思います。
鏑木さんの指の角度を書きそうになって書かない、あの一行が個人的に気に入っています。




