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俺は、何だ

 目が覚めた瞬間、最初に思ったのは「俺は何だ」だった。

 昨日までの三日間で俺は二つの能力の存在を確認した。バグA。バグB。仮の名前だが便宜上そう呼んでおく。

 俺の言葉は世界に過剰に届く。

 俺の予測は予測ではなく最初から答えを知っている。

 二つを統合すると結論は一つになる。

 俺の優秀さは、俺のものではない。

 ベッドの上で俺はしばらく動かなかった。

 動く必要を感じなかった。

 昨日まで「いつもの一日」と呼んでいたものが、今日からは違う名前を持つことになる。

 「いつも」は崩れた。

 「俺」も、たぶん崩れている。

 大学に行く気は起きなかった。

 講義は休んだ。バイトのシフトは今日入っていない。サークルの予定もない。

 スマホに、桐谷から短いLINEが来ていた。「先輩、今日来ないんですか」とだけ書かれていた。返信せず画面を伏せた。今、彼女に何かを返せる気がしなかった。

 俺は部屋にいて椅子に座って机を見ていた。

 ノートを開いた。三日分の記録がある。

 葉山の繰り返し発言。スクランブルの群衆。バイト先の客の過剰反応。試験対策会での「最初から知っていた」感覚。

 全部、繋がっている。

 全部、俺だけに起きている。

 昼前、シャワーを浴びた。

 冷たい水を頭からかぶった。

 目を閉じても、頭の中で問いが消えなかった。

 俺は、どこから俺なのか。

 俺の人生で、本当に俺の意志で選んだものは一つでもあったのだろうか。

 大学に進学したのも、サークルに入ったのも、バイトを始めたのも、自分で決めたつもりだった。

 でも今になって思い返すと、それらの選択肢は俺の前に「都合よく」並んでいた。

 大学の学部選びの時、俺の興味と適性に合いそうな学部がちょうどいい難易度で受験圏内にあった。サークルは新歓で「ぜひ来てよ」と何人にも声をかけられて自然に流れ込んだ。バイトは友人の紹介で、面接の初日に採用が決まった。

 全部、俺の前に答えが置かれていた。

 俺は選んでいない。

 ただ用意されたものを、選ばされていた。

 午後、シャワーから出ても、頭は冷えなかった。

 部屋を出て街を歩いた。

 平日の午後の住宅街は人が少ない。たまにすれ違うのは買い物帰りの主婦か、犬を散歩させる老人だけだ。

 歩きながら、俺は奇妙な感覚に襲われていた。

 すれ違う人たちが俺のために用意されているのではないか、と感じた。

 主婦は、俺がここを通る時刻にちょうど買い物から帰る予定で配置された。老人は、俺が通り過ぎる瞬間にちょうどここで犬の用を済ませる予定で配置された。

 全部、俺のために。

 馬鹿げている、と俺は思った。

 でも、馬鹿げている、で済ませてきたから、ここまで来たのかもしれない。

 夕方、空が曇り始めた。

 俺は街の中心部に向かって歩いていた。どこに行くつもりもなかった。ただ、部屋に戻ると考えがもっと深いところまで落ちていきそうで、歩き続けることにした。

 雨が降り始めた。

 最初は小雨だった。傘を持っていなかったが、戻る気にもならなかった。

 雨が強くなった。

 歩いている人たちが傘を差した。差していない人は走り出した。

 俺一人だけが普通に歩いていた。

 濡れていく頬の感触が、不思議と心地よかった。

 冷たさが頭の中の問いを少しだけ薄めてくれた。

 商店街のアーケードの下に入った。

 立ち止まって空を見上げた。アーケードの天井で雨音が鳴っていた。

 濡れた服が、ようやく自分の身体の輪郭を意識させた。寒い、と思った。寒いのに、寒さを感じてようやく俺は俺だと確認できた。

 ふと、思い出した。

 幼い頃、誰かに抱きしめられた記憶があった。

 いつのことか、誰の腕だったか、はっきりしない。

 でも、その時、誰かが俺に何か言っていた。

 「ごめんね、これしかないの」

 その声が、頭の中で、不意に再生された。

 俺は目を閉じた。

 誰の声だったか、思い出せなかった。

 でも、その記憶だけは奇妙に鮮明だった。

 今までの俺の記憶は、全体的にぼんやりしている。具体的なエピソードがあまり残っていない。

 その一場面だけが、輪郭がくっきりしていた。

 なぜだろう、と思った。

 なぜ、その記憶だけが鮮明なのだろう。

 雨が小降りになった。

 俺はアーケードを出た。

 歩きながら、頭の中である考えがまとまっていった。

 俺の今までの人生は俺のものではなかったかもしれない。

 俺の優秀さは俺の力ではなかったかもしれない。

 俺の選択は俺の意志ではなかったかもしれない。

 全部、否定された。

 でも、それでも、一つだけ、俺のものだと言えるものがある。

 それは今、俺が「これは俺のものではない」と気づいたという事実だ。

 気づいたのは俺だ。

 他の誰でもない。

 俺の周りの人たちは、誰もこのことに気づかない。葉山も、岡田も、川村も、桐谷も、サークルの幹事も、バイトの店長も、誰一人として、世界の異常に気づいていない。

 気づいたのは、俺だけだ。

 なら、それは、俺の能力なのか。

 それとも、俺だけに与えられた呪いなのか。

 俺は立ち止まった。

 雨が止みかけていた。空の隙間から、薄い光が差していた。

 息を吸うと、雨上がりのアスファルトの匂いが鼻の奥に届いた。生きている、という当たり前の感覚が、急に手触りを持って戻ってきた。

 決めるべきことが、一つだけあった。

 このまま、気づかなかったふりをして、いつもの大学生活に戻ることもできる。葉山たちと飲み会に行き、バイトでうまく立ち回り、試験を要領で乗り切り、世界が俺に都合よく回っているのを楽しむこともできる。

 でも、それは、もう、俺ではない。

 俺は、すでに、気づいてしまった。

 気づいた俺は、気づかなかった俺には戻れない。

 なら、突き止めるしかない。

 この能力の正体を。

 なぜ俺だけに与えられたのか。

 誰が、何のために、俺をこんな風に作ったのか。

 それを突き止めることが、俺自身を取り戻す唯一の道だ。

 俺はもう一度、空を見上げた。

 雨が止んでいた。

 夕方の街に、薄い光が戻ってきた。

 濡れた歩道に、薄い反射が映っていた。それを踏んで、人が歩いていく。傘を畳んで、いつもの方向に帰っていく。彼らはいつものように生きていて、俺だけが、いつもからはみ出してしまっていた。

 何かが終わった、というより、何かが始まった、という感覚だった。

 俺は歩き出した。

 部屋に戻ろう、と思った。

 今夜から、本気で、世界を観察し直す。

雨の街、商店街のアーケード、幼い頃の記憶。書いていて自分も静かな気持ちになりました。

「気づいた俺は、気づかなかった俺には戻れない」。この一行に主人公の覚悟が全部のっています。

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