全部、知っていた気がした
翌日は試験対策会の日だった。
俺の専攻は経済学部で、来週には統計学の中間試験がある。同じ授業を取っている連中で図書館に集まって過去問を解く会を、毎学期やっている。今学期も俺が幹事だ。
今日は、別の目的があった。
昨日のバグA——ということで、勝手に名前をつけた——の自覚を踏まえて、もう一つの仮説を試したかった。
俺が「予測する」と思っていたものは、本当に予測なのか。
午後二時、図書館の自習室に集まったのは五人。
俺と、同じゼミの友人たち。岡田、川村、それから女子の二人。岡田は要領のいいタイプで、いつも俺と意見が合う。川村は逆に、最初の問題から完璧に解こうとして、難問にぶつかると諦めるクセがある。女子の二人は普段は仲がいいが、試験前は無口になる。みんな、それぞれ過去問の冊子を広げた。
「じゃあ、最初の問題から行こうか」
岡田が言った。
俺はノートを開きながら、頭の中である実験をしていた。
次に岡田が何を言うか、予測してみる。
たぶん、岡田は「みんなどうやって解いた?」と訊いてくる。
岡田が口を開いた。
「みんな、これどうやって解いた?」
一字一句、同じだった。
たまたまだ。
よくあるパターンを言っただけ。
俺はそう思って、次の予測をした。
川村は、岡田に「俺、最初の問題は捨てた」と言うはずだ。
川村が口を開いた。
「俺、最初は捨てた」
ほぼ同じ。
俺はペンを握る手に少し力を込めた。
偶然と片付けるには当たりすぎている。
試験範囲の話に移った。
範囲表にない問題が、過去問の最後に出ていた。
「これ、範囲外じゃん」
女子の一人がぼやいた。
「範囲外だけど、もし出たら、だよな」
岡田が言った。
俺は、その問題を見た。
数式が並んでいる。回帰分析の応用問題で、ゼミでも扱っていない範囲だった。
でも、答えが頭に浮かんだ。
なぜ浮かんだのか、自分でも分からない。
ただ、答えが見えた。手順を踏んで考えたわけではない。最初から知っていたみたいに答えがそこにあった。
「あー、これは、Y軸を対数変換すれば普通の線形回帰に落ちるな」
俺は口に出した。
岡田が驚いた顔をした。
「お前、もう解いたことあるの?」
「いや、初見」
「マジかよ」
川村が冊子を見て、計算を始めた。
数分後、計算が合った。
「ほんとだ、対数変換すれば解ける」
みんなが俺を見た。
岡田が「お前、天才だな」と笑った。川村は黙ってノートに俺の解法を写していた。女子の二人は感心したような顔をしていた。
いつもの風景だった。
でも今日は、その「いつもの風景」が、急に張りぼての書き割りに見えた。
俺は曖昧に笑って、ノートを伏せた。
夕方、対策会が終わった。
俺は一人、図書館の外のベンチに座っていた。
ベンチの板は冷たかった。背中越しに、その冷たさだけがはっきりしていた。それ以外の感覚は、頭の中の問いにすべて吸い取られていた。
昨日のバグAは、対人関係の話だった。今日のは、もっと根本的な話だった。
俺は、人の行動・状況の流れを「予測」しているのではない。
予測ではなく知っている。
最初から知っているのだ。
岡田が次に何を言うか。川村がどう答えるか。試験問題の答えがどう導かれるか。
全部、俺の頭に「最初から」答えが置かれている。それを俺は「予測した」「閃いた」と感じていただけだ。
観察力、要領のよさ、勘の鋭さ——俺が自分の能力だと思っていたもの。
全部、世界が俺に答えを渡していたのだ。
俺は、努力していなかったのではない。
努力する必要がなかったのだ。
「努力する必要のない問題」しか、俺の前に来なかったから。
ベンチの隣を、自転車が通り過ぎた。
風が吹いた。
俺は空を見上げた。
もし、これが本当なら——
俺の今までの人生は、誰のものだったのか。
俺が選んだと思っていた選択は、本当に俺が選んだのか。
俺が積み上げたと思っていた何かは、本当に俺のものだったのか。
考えれば考えるほど、足元が崩れていく感覚があった。
俺は立ち上がった。
歩き出した先に、何があるかは分からなかった。
ただ、立ち止まると、もっと深いところまで落ちていきそうだった。
その日の夜、ノートに、こう書いた。
「俺は予測していたのではない。世界が俺に答えを渡していた」
線を引いた。
「俺は努力していなかったのではない。努力する必要がなかったのだ」
もう一度、線を引いた。
最後に、こう書いた。
「では、俺の今までの人生は、俺のものだったのか」
ペンを置いて、俺は天井を見上げた。
答えは、出なかった。
ただ、明日も生きる、ということだけは、分かっていた。
バグB自覚回。
試験対策会で、解いたことのない問題の答えが頭に浮かぶ。書きながら、こういう経験は誰でも一度はあるんじゃないかと思いました。「閃いた」「勘で解けた」と思っていたものの正体が、実は別の何かだったとしたら。
主人公の自己崩壊が、本格的に始まります。




