俺の言葉が、効きすぎる
朝のシャワーを浴びながら、昨日のノートのことを考えていた。
俺の方が、世界に書き換えられている。
もしそれが本当なら、検証する方法は一つしかない。
俺自身を、実験道具にする。
今日はバイトのシフトが入っている。
Café Lethe。住宅街の外れにある古いカフェで、客の半分は常連。シフトに入る曜日と時間が決まっていて俺はもう一年以上勤めている。
接客は、自分の言動が客にどう影響するかを、観察する場として最適だった。
いつも通りエプロンをつけて開店準備をした。
午前のピークは、十一時頃に来る。
近所のオフィスで働く人たちが、ランチ前にコーヒーを買いに寄る。俺はカウンターでオーダーを取った。
「アメリカーノ、Sサイズ」
常連のサラリーマン。三十代後半。普段はぶっきらぼうで、レジでも目を合わせない。スーツの袖が少し擦り切れているのに、本人は気にしていない。たぶん、結婚しているが家のことは奥さん任せで、自分の身なりに関心がないタイプだ。
「いつもありがとうございます」
俺は普通に応対した。サラリーマンは小さく頷いた。
「お仕事、忙しい時期ですか?」
俺はいつもなら言わない一言を、足してみた。
サラリーマンの口元が少し緩んだ。
「まあ、決算期だから。お兄さんも大変だね」
「いえ、自分は学生なので」
「学生か。何年生?」
会話が続いた。
俺は心の中で距離を測っていた。
いつもなら、この人は会話を広げない。挨拶以外は黙ってコーヒーを受け取って帰る。今日は、俺の振った話題に、明らかに食いついている。
午前のピークが終わり、店が落ち着いた。
カウンターの内側で、俺は一人で考えていた。
あのサラリーマンの反応は、本当に「俺の話しかけ方が良かった」結果だろうか。
今日の俺は、特別なことはしていない。普段より少し、話題を足しただけだ。それで、いつも会話しない人が、息子に話すような口調になった。
反応の落差が、明らかに大きい。
昼下がり、別の客が来た。常連のおじいさん。普段はホットコーヒー一杯だけ頼んで新聞を広げて、一時間くらい滞在する。
「いつものでよろしいですか」
俺は普通に訊いた。
「ああ、頼む」
おじいさんは席に着いた。
俺はコーヒーを淹れて運んだ。
「最近、寒いですね」
また、いつもなら言わない一言を、足してみた。
おじいさんは新聞を畳んで、俺を見上げた。
「ほんとうにな。歳を取ると、こたえる」
そして、しばらく俺と話した。
話している間、おじいさんは何度か笑った。声を出して嬉しそうに笑った。
いつもの倍くらい、長く滞在して、おじいさんは帰っていった。
俺は、確信した。
俺の言葉に対して相手の表情の変わり方が、いつもより、ほんの少しだけ大きい。
最初は、それを俺の話術だと思っていた。
だが、今は——
胸の奥が、薄く痛んだ。喜びでも悲しみでもなく、自分の輪郭がわずかに溶けていく感覚だった。
「遠野」
厨房から声がした。
副店長の鏑木さんだった。三十代前半の男。元商社マンで、何があったか知らないが二年前にこの店に流れてきた。寡黙で観察眼が鋭く店内のことを全部把握している。
「ちょっと、こっち」
俺は厨房に入った。
鏑木さんはカウンターの内側で、書類を整理しながら言った。
「で、結論は?」
俺は、意味が分からなかった。
「何の話ですか」
「お前、今日、客と長く話してた。普段の倍くらい」
「ああ、はい」
「何か、確かめてた?」
鏑木さんは顔を上げなかった。書類をめくる手を止めずに、俺に質問していた。
「いえ、別に」
俺は答えた。
鏑木さんは、ふっと笑った。
「お前、嘘がうまいな」
書類を片付けて、鏑木さんは厨房を出ていった。
俺は一人、立ち尽くした。
厨房の換気扇が低い音で鳴っていた。湯を沸かす音と、表のカウンターから聞こえてくる別のスタッフの声と、その全部が、急に遠く感じた。
鏑木さんは、見ている。
ずっと、見ていたのだ。
たぶん、俺が気づくよりずっと前から。
夜、シフトが終わって、家に帰った。
ノートを開いた。
昨日書いた一行の下に、新しいことを書いた。
「俺の言葉に世界が、過剰に好意的に反応している」
線を引いた。
「これは、観察力ではない」
「これは、話術ではない」
「これは——俺だけに与えられた何かの効果だ」
ペンを置いて、俺は天井を見上げた。
俺は今まで努力してきたつもりだった。
でも、努力していたのは——俺じゃなくて世界の方だったのかもしれない。
窓の外で、街灯が一つ、ふっと消えた。
すぐにまた点いた。
偶然のはずだ。
だが今の俺には、何も「偶然のはず」と思えなくなっていた。
ついにバグA自覚回です。
カフェの常連客のちょっとした反応の違和感、書いていて「これは効きすぎている」と主人公と一緒に確信していました。
鏑木副店長の「で、結論は?」「お前、嘘がうまいな」、本作で何度も登場するキャラです。よろしくお願いします。




